87年には4thアルバム「Self Control」と10thシングル「Get Wild」が相次いでヒット。TMはついにブレイクを果たす。6月には初の武道館ライブ「FANKS CRY-MAX」を開催し、ベスト盤「Gift for Fanks」および5thアルバム「humansystem」はオリコン週間1位を獲得。この頃には、洋楽のダンスミュージックを小室流に咀嚼してポップスに落とし込むことに成功した。いわゆる“TMサウンド”の完成であり、「Be Together」「Beyond The Time」「SEVEN DAYS WAR」「COME ON EVERYBODY」など知名度の高いTM楽曲の多くは、この年から翌年までに集中して発表されている。またライブにも多額の予算がつぎ込まれ、技術の進化もあって「Kiss Japan TM NETWORK Tour '87〜'88」の頃にはコンピュータによるライブ機材の制御がほぼ達成されることとなった。
ところが小室はTMのブレイクと共に、新たな飛躍を求め始める。まず88年3月のアリーナツアー「KISS JAPAN DANCING DYNA-MIX」で新キーワード“T-MUE-NEEDS”を提示。MueはMutation(変異)から来ており、このキーワードは“TMの変化を求める人々”を意味している。すなわちこれは“FANKS”の次の段階に入るという宣言であったのだ。そしてその直後に小室はイギリス・ロンドンに移住し、そこを拠点にTMの世界戦略を目論んだ。
しかし結局、T-MUE-NEEDSも世界戦略も具体的な形になる前に企画倒れに終わってしまい、ほどなく小室も帰国するのだが、この間にロンドンで制作されたのが88年12月にリリースされた彼らの代表作、6thアルバム「CAROL 〜A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991〜」である。91年のロンドンを舞台とした、“少女キャロルのファンタジーストーリー”を盛り込んだコンセプトアルバムだった。リリース直後の全国ツアー「TM NETWORK TOUR '88〜'89 CAROL 〜A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991〜」では、女性ダンサー、パニーラ・ダルストランドをキャロル役に起用し、「CAROL」のストーリーに基づくミュージカル風の演出を試みた。
このリニューアルの目的はひと言で言えば“制約からの解放”だった。TMNはこのときから未来人や宇宙人の設定に言及しなくなり、非日常的存在のエイリアンからカリスマ地球人に変貌する。ライブでも徹底的にリニューアル以後の新曲を中心としたセットリストを組み、NETWORK時代にはなかったアンコールも行った。特に「RHYTHM RED TOUR」は、それまでの努力の中で実現したライブシステムもあえて用いず、ほぼ自動演奏なしの生演奏ライブとなった。要するに小室は、TMを縛っていた特殊な要素を取り除き、可能性を広げようとしたのだ。それは新たなファンを呼び込む条件作りでもあり、B'zやXなど勢いのある後進が現れる中でさらなる飛躍のための荒療治と考えたのだろう。
しかしこうした努力にもかかわらず、ファンの数が大きく変わることはなかった。セールス的にも「CAROL」の水準は以後もほぼ維持していたが、小室はそれでは満足できず、92年のアリーナツアー「Crazy 4 You」を終えるとTMNから離れて活動するようになる。そしてデビュー10周年の記念日である94年4月21日、TMNは28thシングル「Nights of the Knife」をリリースすると共に、プロジェクトの“終了”を発表。翌月18日、19日の東京ドーム公演「TMN 4001 Days Groove」を以って、その歴史に一旦幕を下ろした。だが小室はむしろこれ以後、プロデューサー・小室哲哉として史上類を見ない業績を上げることになる。
小室は1992年に個人事務所を設立すると共に、TMNから離れて新たな活動形態を模索する。この頃に出会ったのが、新興レーベルavex traxでディスコ向けコンピレーション盤の制作を手掛けていた松浦勝人だった。小室は新グループtrf(現TRF)のプロデュースを構想すると、松浦にそのデビューの相談を持ちかける。ヨーロッパで流行っていたレイブパーティとテクノを意識したグループで、ボーカルとDJ、ダンサーを組み合わせたものだった。trfは結成当初こそほとんど話題にならなかったが、93年6月の2ndシングル「EZ DO DANCE」は78万枚、94年2月の3rdアルバム「WORLD GROOVE」は97万枚の売上を達成し、シングル、アルバム共TMNを上回る成績を実現する。
94年4月、小室はTMNの“終了”宣言と共に、今後は裏方としてプロデュース業に専念することを発表。trfのプロデュースを軸としながら篠原涼子のプロデュースも始めた。翌年3月には音楽番組の企画でダウンタウンの浜田雅功とH jungle with tを結成し、8月には自らの新ユニットglobeも結成。9月に入って華原朋美をデビューさせ、10月には松浦から安室奈美恵のプロデュースも引き継いだ。枚挙にいとまがないので具体的な挙例は省くが、周知のようにこれらの歌手やユニットはミリオン以上のヒットを連発する。小室は90年代前半から、自らのイニシャルを取って“TK”と名乗るようになり、その楽曲のヒットの状況は“TKブーム”と呼ばれ90年代半ばの邦楽界を象徴する現象となった。
小室のインスト志向はTMのデビュー後においても見られ、85年には小室個人の名義でアニメ映画「吸血鬼ハンターD」の音楽を担当している。87年にアニメ映画「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」の主題歌の依頼がTMに来たとき(翌年「BEYOND THE TIME」として発表)、小室は映画音楽の担当も希望したというように、劇伴への関心は小さくなかった。その後も彼は実写映画、ミュージカル、テレビドラマ、テレビアニメなどの劇伴を数多く担当しており、小室最後の作品となったのも2018年夏公開の映画「SUNNY 強い気持ち・強い愛」の劇伴である。
劇伴に加え、小室にはソロボーカリストとしての活動もあった。89年に1年間の活動休止期間に入ったTMのメンバーはそれぞれソロで活動を開始し、小室はその間に歌手としてデビュー、アルバム「Digitalian is eating breakfast」のリリースと全国ツアーを行っている。また92年には、提供楽曲のセルフカバー集「Hit Factory」をリリース。翌93年にもソロアルバム制作の計画があったが、プロデュース業に専念するようになってからは、小室が自らボーカリストとして活動することはほとんどなくなった。
さらに小室は高校時代から洋楽マニアとして、作詞作曲や演奏に限らず企画や交渉までを総合的に行う“プロデュース”という工程にも関心を寄せていた。82年頃には自ら、男性歌手マイクやロックバンドSERIKA with DOGのプロデュースを試みている。後者は83年にデビューを果たしたが、そのアルバム「CAUTION!」では“SOUND PRODUCED BY TETSUYA KOMURO”のクレジットが確認できる。84年のTMのデビューアルバム「RAINBOW RAINBOW」のジャケットに“PRODUCED BY TETSUYA KOMURO”とあるのも、この流れの中で理解できる。TMの実質的なプロデューサーは小坂洋二だったが、売り出し方について自らアイデアを提示するなど、小室も確かにプロデューサーとしての側面を持っていた。
小室はavexの後援下で、2010年に新たな音楽活動を開始する。まずAAAや浜崎あゆみなど、松浦との関係が深いミュージシャンへの楽曲提供から始まり、11年にはソロアルバム「Digitalian is eating breakfast 2」を発表。この間小室は各地で積極的なライブ活動も展開していたが、特に11年6月、ライブストリーミングチャンネルDOMMUNEで配信されたスタジオライブで、2時間の緊張感あふれるパフォーマンスを披露したときは、14万を超える合計視聴者数、2.7万を超える同時視聴者数を達成し、ファンに限らず多くの視聴者から反響があった。小室は後日、このときに手応えを感じたことを述べている。
だが、このようなときに思わぬ話が舞い込んできた。東日本大震災復興のために翌12年3月に開催されるチャリティライブ「ALL THAT LOVE -give & give-」へのTMとしての出演依頼だ。この話を打診された宇都宮隆は、KEIKOの付き添いで病院に寝泊まりしていた小室のもとを訪れる。待ちに待った“話題性のある話”である。このタイミングには運命の悪戯も感じるが、少なくとも妻の緊急事態に直面した小室の気持ちを前向きにさせる意味では、悪くなかったのかもしれない。TMはこれを契機として2012年に再々始動を決定。4月には新曲「I am」のリリースと武道館ライブ「Incubation Period」の開催を実現した上で、2014年の30周年に向けた活動も宣言した。