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こむろのおっちゃん。コミュのおっちゃんの足跡

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今さらながら、改めておっちゃんの軌跡を辿ってみましょう。

コメント(53)

もっとも当時のライブは、意外と生演奏で処理されている部分も多い。機材の不安定さと性能の限界から、コンピュータに全面的に依存することはできず、スタジオと同じアレンジで演奏することは困難だった。だが小室はこの制約を逆に利用した。すなわちスタジオ音源の再現を追求するのではなく、ライブで再現可能な形に曲をアレンジし直したのだ。その中には、スタジオ音源にないフレーズを加えたり曲の構成を変えたりするなど、非常に手が込んだものも多い。特に「FANKS DYNA☆MIX」ではFANKS以前の楽曲も新曲と言っていいほど大幅なアレンジが加えられ、ダンサブルなFANKSサウンドに生まれ変わっている。
また事前にプログラムされたデータを用いるTMのライブでは、アドリブ要素を入れることが難しかったが、これを克服すべく取り入れられたのが、小室によるサンプラーを用いたサンプリングボイスの連打プレイだ。特に「Get Wild」の“Get”の連打は有名で、TMのライブの代名詞にもなったほど。このように小室はライブに関わるさまざまな制約を乗り越え、次々にアピールポイントを生み出していった。
86年に入って、以上のような方針転換を図ったのは、TMの尻に火が付いていたところも大きい。TMはEPIC / SONYから、3rdアルバム「GORILLA」までに売れなかったら終わり、とプレッシャーをかけられていたが、依然ブレイクの徴候は見えていなかった。実はモータウンサウンドの導入も小室自身はそれほど積極的ではなく、宇都宮と木根も戸惑っていたが、小坂プロデューサーの指示で行われたものだったという。だがこの方針はうまくはまり、これを契機にTMは注目を集める存在になっていく。加えて、同年初めに小室が渡辺美里に楽曲提供した「My Revolution」が大ヒット(オリコン年間5位)したことも大きな後押しとなった。小室は本作で「第28回日本レコード大賞」の優秀作曲者賞を受賞するなど、作曲家として注目される存在になっていた。
87年には4thアルバム「Self Control」と10thシングル「Get Wild」が相次いでヒット。TMはついにブレイクを果たす。6月には初の武道館ライブ「FANKS CRY-MAX」を開催し、ベスト盤「Gift for Fanks」および5thアルバム「humansystem」はオリコン週間1位を獲得。この頃には、洋楽のダンスミュージックを小室流に咀嚼してポップスに落とし込むことに成功した。いわゆる“TMサウンド”の完成であり、「Be Together」「Beyond The Time」「SEVEN DAYS WAR」「COME ON EVERYBODY」など知名度の高いTM楽曲の多くは、この年から翌年までに集中して発表されている。またライブにも多額の予算がつぎ込まれ、技術の進化もあって「Kiss Japan TM NETWORK Tour '87〜'88」の頃にはコンピュータによるライブ機材の制御がほぼ達成されることとなった。
ところが小室はTMのブレイクと共に、新たな飛躍を求め始める。まず88年3月のアリーナツアー「KISS JAPAN DANCING DYNA-MIX」で新キーワード“T-MUE-NEEDS”を提示。MueはMutation(変異)から来ており、このキーワードは“TMの変化を求める人々”を意味している。すなわちこれは“FANKS”の次の段階に入るという宣言であったのだ。そしてその直後に小室はイギリス・ロンドンに移住し、そこを拠点にTMの世界戦略を目論んだ。
しかし結局、T-MUE-NEEDSも世界戦略も具体的な形になる前に企画倒れに終わってしまい、ほどなく小室も帰国するのだが、この間にロンドンで制作されたのが88年12月にリリースされた彼らの代表作、6thアルバム「CAROL 〜A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991〜」である。91年のロンドンを舞台とした、“少女キャロルのファンタジーストーリー”を盛り込んだコンセプトアルバムだった。リリース直後の全国ツアー「TM NETWORK TOUR '88〜'89 CAROL 〜A DAY IN A GIRL'S LIFE 1991〜」では、女性ダンサー、パニーラ・ダルストランドをキャロル役に起用し、「CAROL」のストーリーに基づくミュージカル風の演出を試みた。
小室の前進欲求はまだ止まらない。全国ツアー後1年間はメンバーのソロ活動期間に充てられ(この間の小室については後編で触れる)、TMは90年夏、活動を再開すると共にリニューアルを宣言。TM NETWORK から“TMN”へと改称し、同年にハードロックを試みた7thアルバム「Rhythm Red」、翌年にさまざまな楽曲を集めた“音の博覧会”として8thアルバム「EXPO」をリリースした。特にそれまでの音楽性と大きく異なる「Rhythm Red」はファンの反発も大きかったし、経営戦略としてもすでにファンの支持を得ていた形をあえて崩す必要はなかったはずだが、小室は強引にこれをリセットする。
このリニューアルの目的はひと言で言えば“制約からの解放”だった。TMNはこのときから未来人や宇宙人の設定に言及しなくなり、非日常的存在のエイリアンからカリスマ地球人に変貌する。ライブでも徹底的にリニューアル以後の新曲を中心としたセットリストを組み、NETWORK時代にはなかったアンコールも行った。特に「RHYTHM RED TOUR」は、それまでの努力の中で実現したライブシステムもあえて用いず、ほぼ自動演奏なしの生演奏ライブとなった。要するに小室は、TMを縛っていた特殊な要素を取り除き、可能性を広げようとしたのだ。それは新たなファンを呼び込む条件作りでもあり、B'zやXなど勢いのある後進が現れる中でさらなる飛躍のための荒療治と考えたのだろう。
しかしこうした努力にもかかわらず、ファンの数が大きく変わることはなかった。セールス的にも「CAROL」の水準は以後もほぼ維持していたが、小室はそれでは満足できず、92年のアリーナツアー「Crazy 4 You」を終えるとTMNから離れて活動するようになる。そしてデビュー10周年の記念日である94年4月21日、TMNは28thシングル「Nights of the Knife」をリリースすると共に、プロジェクトの“終了”を発表。翌月18日、19日の東京ドーム公演「TMN 4001 Days Groove」を以って、その歴史に一旦幕を下ろした。だが小室はむしろこれ以後、プロデューサー・小室哲哉として史上類を見ない業績を上げることになる。

小室は1992年に個人事務所を設立すると共に、TMNから離れて新たな活動形態を模索する。この頃に出会ったのが、新興レーベルavex traxでディスコ向けコンピレーション盤の制作を手掛けていた松浦勝人だった。小室は新グループtrf(現TRF)のプロデュースを構想すると、松浦にそのデビューの相談を持ちかける。ヨーロッパで流行っていたレイブパーティとテクノを意識したグループで、ボーカルとDJ、ダンサーを組み合わせたものだった。trfは結成当初こそほとんど話題にならなかったが、93年6月の2ndシングル「EZ DO DANCE」は78万枚、94年2月の3rdアルバム「WORLD GROOVE」は97万枚の売上を達成し、シングル、アルバム共TMNを上回る成績を実現する。
94年4月、小室はTMNの“終了”宣言と共に、今後は裏方としてプロデュース業に専念することを発表。trfのプロデュースを軸としながら篠原涼子のプロデュースも始めた。翌年3月には音楽番組の企画でダウンタウンの浜田雅功とH jungle with tを結成し、8月には自らの新ユニットglobeも結成。9月に入って華原朋美をデビューさせ、10月には松浦から安室奈美恵のプロデュースも引き継いだ。枚挙にいとまがないので具体的な挙例は省くが、周知のようにこれらの歌手やユニットはミリオン以上のヒットを連発する。小室は90年代前半から、自らのイニシャルを取って“TK”と名乗るようになり、その楽曲のヒットの状況は“TKブーム”と呼ばれ90年代半ばの邦楽界を象徴する現象となった。
この頃は日本の音楽市場の高潮期でもあった。世間にカラオケボックスが普及し、多くの若者がコミュニケーション手段としてヒット曲に意識を向けていた。また安室や華原は単なる歌手にとどまらず、ファッション誌などでも取り上げられ、彼女らのファッションに影響を受けた“アムラー”や“カハラー”と呼ばれる若い女性が続出。音楽業界を越えたところにまで影響を与える存在となった。TKブームは音楽ファンが支えたという以上に、より広い社会の動向に支えられた現象だったのであり、その仕掛け人だった音楽プロデューサー小室は、時代の寵児となった。
こうした小室の活動歴を略述すれば、80年代にTM NETWORK(以下、TM)でデビューした後、90年代に音楽プロデューサーという新たな活動形態に移行した、ということになるだろう。だがこのわかりやすいまとめでは、実は小室の音楽活動の多様性が捨象されてしまう。前編で触れたように、小室哲哉は84年にTMでデビューする以前にも長い活動歴があった。そして82年にEPIC / SONYに持ち込んだデモテープがインストを中心としていたことからもわかるように、小室は必ずしもボーカルを加えた活動を前提としていたわけでもなかった。
小室のインスト志向はTMのデビュー後においても見られ、85年には小室個人の名義でアニメ映画「吸血鬼ハンターD」の音楽を担当している。87年にアニメ映画「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」の主題歌の依頼がTMに来たとき(翌年「BEYOND THE TIME」として発表)、小室は映画音楽の担当も希望したというように、劇伴への関心は小さくなかった。その後も彼は実写映画、ミュージカル、テレビドラマ、テレビアニメなどの劇伴を数多く担当しており、小室最後の作品となったのも2018年夏公開の映画「SUNNY 強い気持ち・強い愛」の劇伴である。
そもそも小室が音楽に関心を抱くきっかけになった原体験は、小学生時代の70年に大阪万博で見た冨田勲のシンセサイザーパフォーマンスだった。その冨田も多くの劇伴を担当してきたことは、おそらく小室も意識していただろう。特に90年、小室が角川映画「天と地と」を担当した際には、その3年前の映画「ラストエンペラー」を担当した坂本龍一を意識した発言が見られたが、それと共に69年に冨田が担当したNHK大河ドラマ版「天と地と」も脳裏にあったに違いない。
劇伴に加え、小室にはソロボーカリストとしての活動もあった。89年に1年間の活動休止期間に入ったTMのメンバーはそれぞれソロで活動を開始し、小室はその間に歌手としてデビュー、アルバム「Digitalian is eating breakfast」のリリースと全国ツアーを行っている。また92年には、提供楽曲のセルフカバー集「Hit Factory」をリリース。翌93年にもソロアルバム制作の計画があったが、プロデュース業に専念するようになってからは、小室が自らボーカリストとして活動することはほとんどなくなった。
だがソロ活動としてTMN末期の91〜92年に全国のディスコで開催したDJイベント「TK TRACKS NIGHT」は、あとにつながった。同様のイベントはプロデューサーとして活躍するようになってからも催され、trfのYUKI(現YU-KI)やglobeのKEIKOなどの人材もそこで発掘された。さらに音楽活動が行き詰まった2005年以後のDJ TK名義の活動や、2010年の音楽活動再開以後に全国のクラブで積極的に行ったライブイベントなどを見ても、小室にとってディスコやクラブは起死回生を図る場として、重要な意味を持っていたと言えるだろう。
TMやソロでは自ら前面に出て活動していた小室だったが、自らパフォーマーとして活動することへのこだわりは、必ずしも強くなかった。小室自身、TMを大きくするよりも作曲家になりたいという意識のほうが強かったと後に述べており、実際に早くから楽曲を各所へ提供している。早い例では1980年のMissオレンジ・ショック「愛しのリナ」があるし、TMデビュー直後でも84年に大江千里「ロマンス」の編曲を行ない、85年には岡田有希子、渡辺美里に楽曲提供を行っている。小室は自らコンペ用に作曲して応募するなど楽曲提供にも積極的であり、その成果が86年の渡辺美里「My Revolution」の大ヒットだった。
さらに小室は高校時代から洋楽マニアとして、作詞作曲や演奏に限らず企画や交渉までを総合的に行う“プロデュース”という工程にも関心を寄せていた。82年頃には自ら、男性歌手マイクやロックバンドSERIKA with DOGのプロデュースを試みている。後者は83年にデビューを果たしたが、そのアルバム「CAUTION!」では“SOUND PRODUCED BY TETSUYA KOMURO”のクレジットが確認できる。84年のTMのデビューアルバム「RAINBOW RAINBOW」のジャケットに“PRODUCED BY TETSUYA KOMURO”とあるのも、この流れの中で理解できる。TMの実質的なプロデューサーは小坂洋二だったが、売り出し方について自らアイデアを提示するなど、小室も確かにプロデューサーとしての側面を持っていた。
この点で小室に刺激を与えたのが、88年の渡英である。本来の目的であったTMの世界展開は頓挫したものの、このときにイギリスの音楽プロデューサー集団PWLのマット・エイトキンと接触し、その制作体制を見たことは大いに刺激となった。マットとの対話の多くはミュージシャンとして目指す理想の音楽などではなく、売るための方法論だった。むしろ小室はそこに共感して自分のやり方に近いものを感じたと言っており、小室はプロデューサー期以後も、しばしばPWLの人脈にミックスを依頼している。
イギリスから帰国する直前の10月、小室は欧米のプロデューサーたちにTM楽曲の全面的なリメイク(小室はリプロダクションと呼んだ)を依頼。自分が作ってきた楽曲に欧米のプロデューサーが手を加えたらどうなるか、世界基準の音になったTMはどんなものなのか、小室は知りたかったのだろう。その成果は翌89年にアルバム「DRESS」として発表された。
日本に帰国した小室はTM以外の歌手に対しても、単なる楽曲の提供に限らず、楽曲制作の全体に関わろうとした。その嚆矢となったのが89年、宮沢りえのデビュー曲「ドリームラッシュ」のサウンドプロデュースだ。本作は34万枚のセールスを達成したが、この売上は当時のTMのシングルよりも高く、小室にとって「My Revolution」に次ぐ成績となった。

以後小室はアイドル楽曲のプロデュースを断続的に引き受けるようになる。東京パフォーマンスドールもその1つで、そこからソロデビューしたのが、前出の篠原涼子だった。trfについては、企画立ち上げや仕掛け方の立案などに小室が関与した点でより総合的なプロデュースだったと言えるが、それは以前から伏流していた小室の志向が本格化したものだったのだろう。要するに小室にとってのプロデュース業とは、TM以外の選択肢の1つとして、もともと彼が持っていたものだったのだ。
ビジネスパートナーとしてTKブームを支えたavexと小室は1997年に決裂し、そのサポート体制は白紙になった。小室は専属先のSME(ソニー・ミュージックエンタテインメント)を拠点として態勢を立て直し、鈴木あみ(現・鈴木亜美)やtohkoのプロデュースを始め、TMを再始動させると共に、海外市場を視野に入れた活動や事業の展開も本格化させるが、TKブームはこの頃から失速を見せ始める。
90年代終わりには、“ポストTK”とも言うべき新世代のミュージシャンが相次いでヒット作を出すようになっていた。その中でも小室は98年にデビューした宇多田ヒカルを見たときに、新しい、敵わないと感じたという。この時期の邦楽界の新展開に対して小室自身も敗北感を覚え、焦っていたのだ。実際に新世代の台頭と反比例する形で、小室がプロデュースした歌手やユニットは大幅に売り上げを落とし、小室の元から離れていった。その結果小室の活動は2001年の時点で、自らが属するglobe、GABALL、TMにほぼ限定されるようになっていた。この頃の小室は新たなチャレンジとしてトランスに着手したものの、ヒット作を出すには至らず、2003年頃からは音楽活動自体が低調になる。
そして2008年11月、小室は詐欺罪容疑で逮捕される(翌年、執行猶予付きの有罪判決)。事業の失敗や前妻への慰謝料、養育費の支払いによって生じた多額の借金に追い詰められた結果だった。これをもって音楽家としての小室哲哉は終わる可能性も十分にあった。だが小室逮捕の当日、松浦勝人はavex役員を招集して会議を開き、会社を挙げて小室を支援することを決定する。それまでのいきさつはどうあれ、自分たちがここまで来られたのは小室がいたからこそだという思いによるものだった。
小室はavexの後援下で、2010年に新たな音楽活動を開始する。まずAAAや浜崎あゆみなど、松浦との関係が深いミュージシャンへの楽曲提供から始まり、11年にはソロアルバム「Digitalian is eating breakfast 2」を発表。この間小室は各地で積極的なライブ活動も展開していたが、特に11年6月、ライブストリーミングチャンネルDOMMUNEで配信されたスタジオライブで、2時間の緊張感あふれるパフォーマンスを披露したときは、14万を超える合計視聴者数、2.7万を超える同時視聴者数を達成し、ファンに限らず多くの視聴者から反響があった。小室は後日、このときに手応えを感じたことを述べている。
活動再開後の小室にもっとも期待されていたのがTMとglobeの活動であることは、自らも自覚するところだったが、これについてはしばらく様子見の方針が取られた。話題性のある話が舞い込むなり、小室が再びヒット作を生むなり、なんらかのチャンスが訪れるときを待って大々的にこれを行うというのが、avexの計画だったのだろう。だが小室もすでに50歳を越えており、周りの仲間も含めて、残された時間は多くはなかった。2011年10月には、globeのボーカルであり妻でもあるKEIKOがクモ膜下出血で病院に緊急搬送。一命は取りとめたものの高次脳機能障害を負い、ステージに立つことができなくなってしまう。
だが、このようなときに思わぬ話が舞い込んできた。東日本大震災復興のために翌12年3月に開催されるチャリティライブ「ALL THAT LOVE -give & give-」へのTMとしての出演依頼だ。この話を打診された宇都宮隆は、KEIKOの付き添いで病院に寝泊まりしていた小室のもとを訪れる。待ちに待った“話題性のある話”である。このタイミングには運命の悪戯も感じるが、少なくとも妻の緊急事態に直面した小室の気持ちを前向きにさせる意味では、悪くなかったのかもしれない。TMはこれを契機として2012年に再々始動を決定。4月には新曲「I am」のリリースと武道館ライブ「Incubation Period」の開催を実現した上で、2014年の30周年に向けた活動も宣言した。
ところがKEIKOの入院からちょうど1年後、今度は小室自身にC型肝炎が発見され、それに伴って半年間、副作用に苦しみながら毎週インターフェロンの投与を受け続ける治療生活に入る。同じ頃には頸椎ヘルニアの症状が悪化して、鍵盤の手弾きの負担が大きくなったことから、2013年からはハードウェアシンセを用いてきた従来のスタイルを改め、PC上で操作するソフトシンセを導入するようになった。
さらに2013年には、宇都宮の膵臓に腫瘍が発見される。腫瘍の摘出は無事に成功したが肉体的なダメージは大きく、ライブの演出やパフォーマンスにも影響することになった。宇都宮と自らの治療が完了した同年5月、小室はTwitter上で「僕もライブ いわゆるプレイ 引退試合あるかもよ」とツイートしている。自分に残された時間を意識したかのような発言だが、実際にTMの3人は、これが最後の活動の機会となる可能性は念頭にあっただろう。TMはこのような状況の中で、「TM NETWORK 30th 1984〜」と題した30周年の一連のミッションを、15年3月まで執念で遂行し尽くした。
小室はTM30周年を終えると共に、翌16年にかけてglobe20周年の活動に移る。小室はKEIKOの症状が快方に向かうことを望み、復活時の新曲も用意していたほどだったが、結局それが実現することはなく、20周年の活動はリミックスアルバムのリリースが主なものとなった。小室はこの頃から弱気な発言をしばしば繰り返すようになる。globe20周年のあとには楽曲制作も行き詰まりを見せ、2017年にはストレスによって摂食障害、睡眠障害、聴覚障害を発症。そして2018年1月19日、音楽活動からの引退を宣言した。そこに至った経緯について根本的な事情のみ言うとすれば、小室は曲を作れなくなったから引退を望んだのであろう。
小室は引退まで40年以上、音楽の世界で驚くべき勢いで全力疾走を続け、邦楽界に大きなインパクトを与えてきた。小室はもうすべてを出し切り、動けないほど疲れ果ててしまったのだろうか。それとも体力を回復するまでの一時的な休養期間に過ぎないのだろうか。何度も予想外の行動を取ってきた小室哲哉ゆえ、その本当の結末は、なおまだ確定しているとは言い切れない。ただ1つ、確かに言えることは、その全力疾走の中で作り上げてきたおびただしい数の楽曲群は、今後も史上特異な存在として、日本の音楽史を華やかに彩り続けるはずだということだ。
https://youtu.be/BmB-tBdf9Os

超ハンサムサムライ

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