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信州・安曇野の会コミュのエッセイ 安曇野の水と土 その2

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 安曇族の足跡
「安曇野」と言う地名は地図上にはない。安曇郡とか安曇村はある。
安曇野は地元での通称ということであるが、この呼び方を普及させたのは小説「安曇野」を書いた臼井吉見だといわれている。文庫本で5巻にもなる大長編「安曇野」はこの地を舞台に、明治の黎明期の人々、とりわけ後の新宿中村屋の創始者となる相馬愛蔵とその夫人の黒光を中心に、碌山などの安曇野の文化人達の交流が描かれている小説である。
この時代、確かに安曇野には大きな文化的潮流があったようである。こうした文化的な胎土が、今日の安曇野における美術館や博物館の集積となって現れてきているのではないだろうか。
ところで、この安曇野を開いたのは古代の安曇族とされている。
安曇族とは北九州の博多湾一帯を本拠とする海人(あま)の集団である。その海人の一族が何故にこのような、海から一番遠い内陸の盆地に陣取ったのであろうか。安曇野と安曇族の関係を私はガイドブックで知って以来、なぜ安曇族がという疑問を抱いているが、未だに明快な答を見いだせないでいる。
地名として安曇というのがある以上、この地と安曇族との関係は間違いないことである。その安曇族は北九州から日本海を北上して、糸魚川から姫川に沿った「塩の道」をたどってこの地にたどり着いたとガイドブックにはあった。
安曇野は地理的にみると上高地を源頭とする梓川の形成した一大扇状地にある。扇状地とはどこでも比較的平坦ではあるが水利が悪く、そのために耕地にはなりにくく、原野の状態で長く放置されてきたようなところが多い。
安曇野もその例に漏れず、古代から牧野、つまり馬の放牧場として使われていた時期が長かったようである。そうした土地に安曇族が移住してきた。多分、安曇族は灌漑技術に長じていたのではないだろうか。
灌漑技術は水稲の栽培と一緒に朝鮮半島から渡ってきた。それによって日本は1万年におよぶ縄文時代から、一気に弥生時代へと革新をとげた。だが、その技術の進化には常に大陸側からの技術移入を要した。航海技術に長けていた安曇族は、北九州からみれば出雲あたりと同じくらいの距離にある朝鮮半島に、あるいは中国本土に頻繁に往来して、最新の灌漑技術を習得していたのではないか。そしてこの技術を駆使すれば、ほとんど不毛と見なされていた荒れ地でも、たちどころに沃土に代えられた。
安曇野の田園風景とはまさにこうした技術移入の成果なのであり、それゆえに安曇と言う地名がこの一帯に残されることになったと考えていいのではないだろうか。
しかし、この安曇野に安曇族が残したものは、彼らが開削したであろう灌漑用水の堰と穂高神社の他には何もない。その後の安曇族の痕跡が見えないのである。田を開き、豪壮な社殿を建造した一族の痕跡が消滅してその後の消息を絶っている。
思うに、消滅ではなく、土着化していったのではないだろうか。誇り高き安曇の名を一族の名として残さずに、地名に刻み込んでいった。そこにはなにがしかの訳ありと見るのは穿ちすぎなのかもしれないが・・。

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その2の2 安曇野の神々

古代の豪族安曇氏は、北九州に本拠を置き7世紀頃に頂点をきわめて、その後平安朝期には消滅してしまう。
日本のヤマト王権は4世紀末の応神天皇の頃に一応の基礎が固められたというが、そのころ「まつろわぬ」(服属しない)民として蝦夷(えみし)や海人(あま)がいて、その海人を鎮めてヤマト王権に服属させたのが安曇連であったという(日本書紀)。
つまり、安曇氏一族は初期王朝に連なる名門であった。やがて、海人族を統括する安曇氏は北九州一帯の海域を拠点に、水軍の統括者としてその勢力をさらに強めて行くようになる。その後、安曇連浜子が謀反に加担したとして、墨刑(入れ墨の刑)に処せられたとあり(日本書紀)、海人族が目に入れ墨をしていることが、政治的な処罰によるものと記されているが、これは王権側の政治的な意図が反映されたものと見られ、その事実性は疑問視されている。
そして歴史上には安曇比羅夫(あづみのひらふ)という名前が登場するが、この人物は七世紀に朝鮮半島での百済滅亡の危機に際して百済王の救済に功をなしたという。しかしその後の白村江の海戦で、唐・新羅連合軍に対した日本軍の敗北により、これ以後その名が大きく浮上することはなかった。おそらくこの海戦に惨敗していなければ、安曇氏の名が急速に衰退するようなこともなかったのではないだろうか。
一族の凋落傾向が見え始めたある時期、安曇族は海を捨てて、灌漑技術をもって未開の地に向かったのではないか。ここ安曇野はその最大の足跡であって、ここの他に安曇(あど)や渥美、阿曇、厚見、厚海、阿積など各地でみられる地名が、安曇族の足跡であるとされている。
中でも安曇川(あどがわ)は琵琶湖に注ぐ最大の川で、大きな三角州が有名である。三角州とは水上に形成された扇状地であって、安曇野と同様水利が悪かったところなのである。安曇族が関わったと見られるこれらの地名が、安曇という名をまともに残しているのは安曇野くらいで、他は「あど」や「厚見」など安曇の名を薄めているところも、意図的なものが感じられてならない。
ところで、この安曇族が建立した穂高神社が安曇野の中心部、現在のJR穂高駅に隣接して現存している。あの碌山美術館とも指呼の間である。
この神社に祭神として祀られているのは、穂高見神(ホタカミノカミ)、綿津見神(ワタツミノカミ)そしてニニギノミコトの3神である。
綿津見神は日本神話上の海神で、穂高見神はその子供、当然海神系である。ニニギノミコトはこの二神と違ってアマテラスの孫つまり天孫で、アマテラスの命を受けて高千穂に降臨した。そして神武天皇はニニギの孫になる。
ニニギが縁の薄い海神達と合祀されるというのはどういうことなのだろうか。実はニニギの子はヒコホホデノニミコト、私たちには「山幸彦」としての別名で親しみのある神でもある。この神が、兄のものである釣り針を探し求めて海中を探索しているときに、海底宮殿の姫君と出会う時のシーンが、夭折した明治期の洋画家、青木繁の「わたつみのいろこの宮」という絵で残されている。この絵は教科書に載せられることも多く、おそらく誰もが一度は目にしているであろう、幻想的な印象を与える名画である。
つまり海神の娘と結ばれた神の父親としてのニニギが、安曇族にとって崇拝の対象とされたのではないか。このように海神系の神々が、この安曇野の盆地に祀られることになった。そればかりでなく、穂高見神はこの安曇野から一山越えた北アルプスの主峰である穂高岳の山頂にも、またその麓の上高地にも、この神社の嶺宮、奥宮として祀られている。九州の海神が日本で第3位の高峰に祀られているというのも歴史の謎の面白味ではないだろうか。そして上高地とは、つまり「神の高地」ということなのである。言うまでもなく、穂高の山の名はその祭神に因むものである。
その4

安曇野の野を形成し、その野を潤すための用水源となっている梓川の源頭こそ穂高岳であり、その裾野の上高地は、今でも聖なる地としての神秘的な雰囲気を強く漂わせている。
梓川はこの上高地から北アルプスの山々の清流を集めて、深い峡谷を穿ち、その峡谷に流れ落ちてきた膨大な土砂を、谷から平原に出たところで一気にまき散らす。その土砂で作り上げられた扇状地が安曇野である。そして安曇野の巨大な扇状地の上に、さらに別の川による小さな扇状地がその上にかぶさるように作り上げられている。複合扇状地という。安曇野の南側から梓川、北からは大町をうるおす高瀬川、その二つの川が合流するところを目がけて、西から中房川、烏川などの中小の川が合流する。
これらの河川が一つに合流する地点が安曇野のほぼ中心部であり、すなわち一番低い位置となるが、そこに穂高神社が陣取られている。海神は水神でもあり、水防の役目をも担っているのであろう。
安曇野で一番低い位置にある穂高神社からは穂高岳は望めない。否、安曇野のどこからも、穂高岳はその前山となる常念岳や蝶ヶ岳などの連山に隠されて見えない。穂高神社からはちょうどその眼前に常念岳が立ちふさがっているが、この山も日本百名山に数えられる山で、その山頂から北アルプスの連山や安曇野、さらに八ヶ岳方面にかけての展望は、名山の名にふさわしい。だとすれば、この常念岳に主神を祀ってもいいようにも思えるのだが、安曇族はおそらく、この地の守り神として彼らの氏神である海神をまずこの合流点に祀り、さらにこの地を潤す川の源頭に祀るため、梓川をさかのぼっていった。
川は峡谷部にはいるといくつもの支流をあわせるが、その中の本流をたどりながらやがて上高地にいたる。そこは常念岳を挟んで穂高神社のちょうど裏側にあたる。上高地はほぼ森林限界の高さにあるため、そこからは穂高岳や槍ヶ岳など上流一帯を一望できるが、川の源頭は確認できない。源頭部にはさらに奥に遡って穂高岳の麓、涸沢のあたりで確認されるが、ひとまずこの上高地の平場の土地(明神池)に奥宮を祀り、そこから涸沢を登り詰めた源頭の峰、奥穂高岳に嶺宮を祀った。
穂高の峰は望めないのだが、穂高神社の拝殿はちゃんと穂高岳方向を拝するように配置されている。この方位感覚は、安曇族が海人であることで納得できようか。
梓川は安曇野の母なる川である。その川の末端と源頭を押さえるということは、その流域の全てをを支配することの証しでもあったのではなかっただろうか。
その4
 穂高から槍へ
嶺宮が祀られることでその名を穂高岳とした峰の尾根に連なって、その先に北アルプスのシンボル、槍ヶ岳が屹立している。北アルプスの主峰は穂高岳であるが、その峰々の中で最もシンボリックで、最も著名な山は槍ヶ岳である。
穂高岳を最初に登頂したのは安曇族であろうが、この槍ヶ岳を最初に登頂したのは播隆という上人である。若き修行僧は飛騨側の峰からこの槍ヶ岳を望み、そのあまりにも厳しい山容に強く打たれ、槍ヶ岳登頂を決意した。江戸時代後期のことである。
そして安曇野の一隅に住む又重という名の猟師を案内人として登頂を果たし、仏像を安置し、この山を開山した。その後もあわせると合計四回の登頂を果たしているが、その時代、僧衣に草鞋履きといういでたちでの登山は容易ではない。それも四回も、というのはよほどの執念か、信仰心か、あるいはよほどこの山にとりつかれてのことであったのだろう。第一、この山の鋭角の山頂部を見て登頂したいという発想は普通の人には湧かない。
槍ヶ岳の山頂部つまり槍の穂先部分は、ちょうど45度の直角定規と同じ形である。つまりその頂点は直角で、斜面の勾配はおおむね45度ということである。だいたい20度の傾斜面が、人が下に向いて立っていられる限界で、30度では人が斜面に横向きにたっていられる限界、ちょっとすべり始めたらもう止まらない傾斜である。そして45度というのは、通常の人間では目がくらんで下方を見ることが出来ないくらいの傾斜なのである。各地の山にはこの程度の急傾斜面が随所にあるが、ほとんど全て「くさり場」、つまり登はん用の鎖や鉄梯子が架けられて、比較的容易に登れるようになっている。今の槍ヶ岳も然りである。だが、播隆上人の時代にはそのようなものはない。、念仏か題目かを唱えながら、崖に這いつくばって登り、また下っていったことだろう。このような山は、登りより下りの方がよほど恐ろしい。
それから60年あまり、明治になってから、この山を中心とする北アルプスの峰々を登頂していったのが、イギリス人宣教師でアルピニストのウエストンである。彼によって「日本アルプス」が命名され、また近代登山の技術が日本に伝えられた。
播隆上人がたどったであろう安曇野からの槍ヶ岳への登頂コースは、まず常念岳を目指すことになるが、その登山口である穂高町の須砂土にはウエストン碑が建てられている。しかし、播隆上人の偉業を憲章するものはどこにもない。
その5
 安曇族以後
ところで、こうして安曇野に大きな足跡を残してきた安曇族も、その後の消息が消えていくが、それに代わって台頭してきたのが仁科氏である。
仁科氏は平家の一門に連なるということであるが、平家の滅亡にあっても一門の末端ゆえに生き延びられたのであろう。平安末期頃に伊勢神宮の荘園であった安曇野北部の一帯の荘官として仁科氏が着任し、次第に勢力を伸ばして現在の大町市周辺を支配していくようになったという。
やがて仁科氏はこの地に伊勢神宮の天照大神を勧請して仁科神明宮を建立した。この神明宮本殿などの社殿が、神明造りの社殿としては最古のものということで今は国宝(建造物)の指定を受けている。
安曇野の北辺、大町市南東部の神社の杜の中にこの国宝社殿が古色ゆかしく鎮座している。仁科神明宮が位置する宮本という集落は、安曇野の扇状地から一段上がった高台にあり、安曇野を前景にしてアルプスの山並みを正面に眺望する、たいそう眺めの良い立地である。
この仁科氏も戦国の争乱で途絶えることになるが、仁科を滅ぼした武田信玄はその名を惜しんで、自分の5男を仁科の後継者として据え(仁科盛信)、武田統治による仁科の勢力を拡大していった。しかしこの仁科盛信も織田信長に滅ぼされ、仁科の領地はそれ以後は松本藩の統治となり、以後明治維新までこの体制が続いていったということである。

安曇野についてはまだまだ多くの逸話がある。
例えば古代、坂上田村麻呂が奥州遠征途次に立ち寄った時、この地に陣した田村麻呂の強圧に立ち向かった八面大王と呼ばれた人物。また、松本藩の圧制に立ち上がった義民・加助の話、そして明治の黎明期、自由民権運動の先鋒に立った松沢求策など、この地には反骨精神の系譜が確かにあったということなどである。
かって安曇族がこの地で土着化していった時、権力への抵抗意識が根付いていたであろう。その末裔の人達は、この地の水と土を介してその意識が継承されていったのではないだろうか。そうであれば、この安曇野は幾ばくかの近代化を受け入れつつも、安曇野としての格調の高い風土が継承されていくはずである。
安曇野の水と土は良質の米を育み、また人を育む風土であることを信じたい。完

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