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聖書が教える結婚講座コミュの第19回 夫婦5戒

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こんにちは!安藤修一です。
 10日ほど前に、酒田の88才の両親を温泉に連れて行って風邪
をひいてしまい、体調をこわしてずっと第5戒の講座を書くこ
とが出来ませんでした。期待しておられた方には申し訳ありま
せんでした。ようやく、パソコンに向かう気持ちになれました
ので、感謝しています。

 ところで早速、夫婦十戒の第五戒の学びに入りたいと思いま
すが、

序論 第五戒についての説明
 私が夫婦の為に作った第五戒は、

 「あなたがた夫婦は、互いを生かし合う事を学ばなければな
らない。言葉に於いても行いに於いても優しく相手を生かすよ
うに日々心がけなければならない。栄光ある「神の形に造られ
た人間」の肉体はもちろん、精神的、霊的にも打ちのめす事を
してはならない。まして殺すことなど決してしてはならない。
私は生命の主である。」

 というものですが、元になった実際のモーセの十戒の中の第
5戒は、もっと短くて、

 「あなたは殺してはならない。」

 これだけなのなのです。この短い戒めを私なりに意訳して、
もじったものが、先の夫婦十戒の第五戒なのです。

 基本的に、この短い「あなたは殺してはならない。」という
戒めは、《人間の生命の尊さ》を教えようとしている戒めなの
です。難しい言葉に聞こえるかも知れませんが、言い換えれば
、「人間の生命の不可侵性を教える」戒めなのです。神は誰で
あろうと、人間の生命に触れる行為を許しておられないのです
。人間の生命は、神様の手に握られているからです。人間の生
命というものは、本来は人間の手の届かない、神の神聖なる犯
しがたい領域に置かれているからなのです。(だから安楽死と
いうことも問題になるのです。)

 何故、このような事が言えるかと言いますと、
第5回戒は、2つの内容に分けることが出来ます。

1 否定的な面
 人間だけは殺してはならない。何故なら、人間だけが神ご自
身の栄光の現れである「神の形」に造られた生き物であり、人
間の生命は、他の動植物と違って特別に価値があるからである


2 肯定的な面
 それと同時に、《人間は神様から特別に寵愛を受けている生
き物》だから、互いに《殺さなければそれでよい。》というだ
けでなく、神はこの戒めを通して、人間が積極的に愛し合い、
《生かし合うこと》を教えているのである。

 ですから、誰であろうと、この神の定めに素直に従おうとし
ない者には、水戸黄門様の《葵の御紋の殺し文句》ではありま
せんが、『頭が高〜い。人間の生命を何と心得る。一人一人の
人間の生命は神様から見ると、神の子イエス様よりも重いので
ある。それ故、従わない者には、永遠の刑罰を用意しているこ
とを知るべきである。控えおろう!』ということになるのです

 私たちクリスチャンは、《人間の生命の尊さ》を、本気でそ
ういう価値あるものだと信じているのです。 

本論1 第5戒の特徴につて
 (誤解を解く為に、敢えて難しいことを話します。難しいと
思ったら、この本論?は、気持ちの中でカットして読んでくだ
さい。)

(1)特徴の1  「言語の持つ特徴」
 神学的なことを言って申し訳ないのですが、旧約聖書には、
「殺す」という言葉はたくさん出ています。
 ハーラブ(165回)・ヘーシース(201回)ナーカー(130回
)。ところが、この第五戒の「殺してはならない」《ラーツア
ハ》は、(45回)で使用頻度は少なく、《個人的暴力による殺
人》だけに使用されている言語なのです。

 つまり、第5戒の「殺してはならない」の「ラーツアハ」は
、戦争による殺戮や共同体による大量死刑実行や戦争の「殺せ
」などの命令などには、全く用いられていないのです。つまり
、その人自身の意志によらない、上官の言葉による不可抗力な
殺人命令には使用されていないのです。それどころか、偶像を
拝むことを止めないペリシテ人(=パレスチナ人)などに対し
ては、神様自ら、『聖絶せよ!虫の子一匹、生かしておいては
ならない。女、子供に至るまで殺さなければならない。』と殺
人を命令しておられるのです。 
 ですから、クリスチャンではない人たちから見れば、聖書の
神は、ある時は「殺せ!」と命じ、ある時は、「殺してはなら
ない!」と命じておられるのですから、「神様の言う意味が分
からない。」と思えたり、「神様は理屈に合わない方だ。」と
さえ思えたちするのです。

 つまり神は、人間が個人的かつ意図的な理由である憎しみや
憎悪や復讐などを根拠に人を殺してはならない。と神は命じて
いるのです。「個人的な理由で罪は犯してはいけない。」と神
は言われるのです。
 しかし、例外として世を震えさせるような殺人犯や連続殺人
鬼のような裁判による判決を受けた公的理由で《人間の生命を
絶つ(殺す)》ことは、禁じてはおられない。ということです


 というよりも、創世記9章6節の言葉によると神は、 「他人
の生命を奪った者に対しては、その自分が犯した当然の報いと
して、自分の生命も他人から奪われても仕方がないという定め
をこの世の基準として採用する。」と神は言われたのです。そ
の定めが、現在でも国家の裁判などの法律として生かされてい
るのです。そのみ言葉が、これです。

 「わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血
の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。
また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の
血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかた
ちにお造りになったから。」(創世記 9:5〜6)


(2)特徴の2  「人間以外の殺すことは、どうなのか?」
 私は、魚釣りが大好きです。「釣りキチ三平ジュニア」のよ
うに大好きです。ところが、ある方々から、『牧師さんなのに
、殺生するのですか?』と尋ねられたことが何度かあります。
魚を殺すことは、罪なのでしょうか?責められるべきことなの
でしょうか?

 聖書を調べて見ますと、人間は神様から造られた当初は、菜
食主義だったようです。こう書かれているからです。

 「ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあ
って、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木
をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また
、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので
、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の
草を与える。」すると、そのようになった。」(創世記 1章29
〜30節)

 ところが、ノアの箱船で有名な大洪水が起こり、全地球的規
模の大規模な洪水だったらしく、水が地上から引き始めても、
地上がすっかり食べ物である緑の大地に満たされるようになる
までの期間だったからかも知れませんが、突如、神がこのよう
に言われたのです。

 「それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰
せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、
……地の上を動くすべてのもの……それに海の魚、これらすべ
てはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなた
がたにゆだねている。生きて動いているものはみな、あなたが
たの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなた
がたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるまま
で食べてはならない。わたしはあなたがたのいのちのためには
、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、
それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのち
を要求する。人の血を流す者は、人によって、血を流される。
神は人を神のかたちにお造りになったから。」(創世記 9章1
〜6節)

 つまり、植物だけでなく、その他の生き物もすべて食物とし
て用いてよろしい。」と、神は人間以外の生き物を食物とする
ことを許可されたのです。
 ですから、私たちクリスチャンは、鳥供養だとか、魚供養や
動物供養は行ないません。神が食物とすることを許可されたの
に、心を責められながら食べる必要がないからです。もちろん
、無駄に生命を奪うことや必要以上に動植物を殺すことは厳に
慎むべきことだと思っています。そういう意味では、趣味や道
楽でライオンや貴重動物などをハンティングすることは、個人
的には、かんばしい事とは思っていません。しかし、鹿や熊や
猿が増えすぎて、人間や他の動物たちの生態系のバランスを欠
くような場合には、増えすぎた生命体の調整をすることは、人
間がこの地上の良き管理をする支配者に任命されたことから考
えれば、必要な処置だと私は思います。
 しかし、日本人は、チベットやインド、中国に見られる仏教
思想によって産まれた時から無意識のうちに洗脳されて育って
いますから、輪廻転生の思想を心のどこかに持っているのです
。きっとそういう理由からだと思われますが、「人間以外の動
植物の殺生も罪だ。」と思っているのです。ですから、供養の
必要や責められながら肉を食する習慣が残っているのだと思わ
れます。

本論2 正しい第5戒の守り方について
 いよいよ本題に入っていきますが、私たちは、この第五戒を
、具体的にどのように守ればよいのでしょうか?

 第5戒においては、人間の生命を奪うことが禁じられている
のですから、
(1)自殺は、他殺と同様に自分の価値ある生命を自ら絶つこ
とですから罪である。ということです。
 神様は、たとえ人間がどのような状態に堕落しようとも《人
生のやり直し》がきくように今から2000年前に、頼みもしない
のに神の子イエス様を十字架につけて殺して下さったのです。
それは、どんな人間でもイエス.キリストを信じるなら、自殺
などしなくてよい人間に生きている間に生まれ変われるように
と、救いの道を準備しておいて下さるのです。ですから、無知
とはいえ不信仰とはいえ、その神が用意した希望の救いの道を
拒否しておいて、勝手に自分の生命を殺した者に弁解の余地は
ないのです。死ぬより恐い永遠の苦しみが続く地獄が報いとし
て待っているだけです。イエスを信じるなら自殺する必要は100
%ありません。

(2)中絶も自殺同様に、大いなる罪です。「水子供養をしま
した。」などという言い逃れは全く効きません。もし、殺人を
犯しておいて、神様!裁判長様!三億円を償いとして献金しま
すから、私の罪と相殺して、差し引きゼロにして無罪にしてく
ださい。という願いが叶えられる訳がないのと同じです。どん
な善行も、罪の償いにはなり得ないのです。イエス様を信じる
以外に罪が赦される方法以外は、一つとして存在していないの
です。もし、誰でもイエス様を信じるなら、その瞬間に罪が赦
され、新しく生まれ変わって、新しい人になって人生の再出発
をすることが出来るのです。ここに唯一の希望があるのです。

(3) 何とかして生かそうとする世界
 自分をも他人をも殺さないで、ダメにしないで見捨てないで
、生かされることを神様は望んでおられるのです。

たとえば、一つのことを例にしてみましょう。

 「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕さ
せ、またそこを守らせた。」(創世記 2章15節)

 神様はアダムとエバをエデンの園に住まわせましたが、何故
か、農地を耕す仕事を与えられました。その上、その完全な園
を管理する仕事も与えられました。管理する必要があるのでし
ょうか?
 ご存じのようにエデンの園は、地上のパラダイスでしたので
、手を伸ばせばすぐに届くような所にあらゆる美味しい木の実
がなっていたはずです。労働などする必要はありませんでした
。働かなければ食べていけないような場所ではありませんでし
た。温暖な環境であり、守るべき敵もいませんでしたが、何故
か、仕事をさせたのでした。
 何故、神様はアダムとエバに、有り余っている中で、する必
要のない労働をさせたのでしょう。それは、神様の愛と思いや
りの配慮だったのだと思います。それこそ神様は、彼らを生か
そうとされたのだと思います。神様は、彼らに何もしないで毎
日毎日、遊び暮らさせることも出来たでしょうが、神様は、敢
えてそのようにはさせませんでした。働く必要があるかどうか
に関わらず、仕事をさせたのです。それは、きっと自堕落なダ
メ人間にならなようにする為だったのでないかと、私は思いま
す。

 また、ある時私が「天国は良い所だよ。苦しみも悩みも病気
もない働く必要さえない所です。」と説教したあとで、私にこ
う答えた方がおられました。『牧師さん!私はやっぱり、天国
に行かなくてもいいです。何故なら、天国って何にもすること
がないのでしょう。一年や二年ならともかく、永遠に仕事をし
なくてよいなんて、私は退屈で、たまりません。死ぬほど辛く
なると思うからです。』と。

 この方も神様の《しゃれた心》が通じない人だと思います。
神様は、エデンの園にしても天国にしても、働かなくてもよい
。というのは、この地上では見ることの出来ない《真の幸せな
場所である》ということの《一つの表現方法》なのであって、
本当に天国が《死ぬほど暇で辛い場所》であるなら、そこはも
はや天国ではないでしょう。決してそんなことはありません。

 このように神様は、私たち人間に対してある配慮をすること
によって、生かそうとしておられ御方であることが分かるので
す。
 そういう意味で、私たち人間も《お互いを生かし合うこと》
を学ばなければいけないと思うのです。

(4) 生かすことをこの地上において実践することは可能か

 「生かす」とは、どういうことなのでしょう。
私は牧師を育てる学校(神学校)に、入ったことがありますが
、神学校って何をする所だと思いますか?
 聖書の勉強や、お祈りや、信条やキリスト教の歴史や、比較
宗教や教理の勉強やヘブル語、ギリシャ語などの語学の学びな
ど、多くのことを教えて頂きましたが、私にとって、一番の学
びだったと思うのは、《人を生かすことを学ぶ場所》だったな
ー!という思いです。

 「ダメな者はやっぱりダメだ!仕方がない!」で済むなら、
神学校に入る意味はありません。しかし、ダメな者をダメでな
い者に変えてくれることを学ぶところこそ神学校だと思ってい
ます。
 神様の世界は、最もダメな者に基準を合わせて進む世界です
。安心して落ちこぼれて良い世界なのです。何故なら、神はそ
の弱い者や最も落ちこぼれを大事にし、面倒をみて世話をして
くれる世界だからです。100匹のうち、99匹の理想的な羊たち
に迷惑をかけてでも、どうしようもない迷子の1匹の羊を見つ
けるまで探し歩く世界、最後まで諦めない世界なのです。ダメ
な者をダメだという理由で見捨てない世界であり、弱い者中心
で回っている世界なのです。
 
 だから、神様は旧約聖書のエゼキエル書18章23節には、
 「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。……神である主の御告
げ。……彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだ
ろうか。」(エゼキエル書 18章23節)

 『あいつは悪者だから死ねばいいんだ。ざまあみろ!当然の
報いだ!』と、世の多くの人が言っている中にあって、神様は
、『わたしはそうは思わない。たとえどんな悪人であろうと滅
びることなく、生かされることを喜び願っている。』と語られ
たのです。人間が罪を犯すことによって、人間よりも神様の方
がより多く傷ついていることが多いはずなのに、その神様の方
が人間よりも忍耐力が強いことが分かるのです。たとえ悪人で
あっても、神様の方が滅びることを諦めきれずに、何とかして
生かそうとしておられる方であることが真の神の姿なのです。

 私自身もこのような神様であった故に、このように皆さんの
為に、少しは役に立つように育てていただくことが出来たので
す。人はこのように取り扱われて始めて、生かされるのではな
いでしょうか?
 先週も書きましたが、神の世界は、頂点思考の世界ではなく
、底辺思考の世界だからです。底辺思考で生きている人々の中
で、人は癒され、育てられ、生かされるのではないでしょうか
?この大原則を、夫婦の間でも、親子の間でも、学校という場
でも実行して欲しいのです。学校が無理なら、せめて、自分の
家の中だけでも、この底辺思考で生きることを考えてみては如
何でしょうか?夫婦の間だけであっても、この原則を適用して
みては如何でしょうか?

? 生かすということは、相手の失敗を無限に赦すことです。
夫婦間の問題であれば、相手の足りなさや失敗や愚かさ過ちを
無限に赦すことです。それでも直らないのなら、怒るよりも相
手が成長し変われるように、用に間に合う者となれるように祈
ってあげることです。人間は、『自分が、あの人に無限に赦さ
れている受けいれられている。』と確信できた所で始めて、《
生かされる》ことが出来るのです。そこに至るまでは、たとえ
夫婦であっても、互いに本当の意味で《生きた心地がしない》
のです。

? 生かすということは、相手をそのままで、ありのままで受
けいれることです。
 たとえば、《子育て》だとすれば、自分の子供に対して親で
ある自分の考えや理想を押しつけないことです。神は、子供た
ち一人一人に能力と適性と生きる目的を与えられているのです
。この世に、目的なしに存在している物が一つとしてないよう
に、たとえ、子供たちは自分では気づいていなくても、神様か
ら生きるために必要な賜物や才能や力は頂いて生まれてくるの
ものなのです。親が勝手に子供をいじって、意固地にしたり、
『僕は産まれてこなければよかった。』と思うような親の見栄
によって縛って邪魔するようなことがなければ、子供は親がな
くても勝手に育つように、思ったよりも強く出来ているのです
。親にとって必要なのは、ありのままで子供を受けいれること
です。

 親の期待どうりにはいかないかもしれませんが、神様の期待
どうりに行くのです。全ての子供が、東大に入ってエリートに
なるならば、誰も農家をやる人がいなくなってしまうではあり
ませんか?みんながホワイト・カラーになりたいなら、漁師に
なる人が誰もいなくなり、マグロも食べれなくなることでしょ
う。
 そうではなく、みんながそれぞれ、神様からなるべき使命を
戴いて産まれて来るのです。この世に病気の子供がいなければ
、小児科医もいらなくなるのです。元気な子供ばかりでなく、
五体満足で完全無欠な子供ばかりでなく、神様によって、あえ
て弱さを負って産まれさせられる子供もいるのです。神が許さ
れているのです。それは、彼らを通して、私たち強い者の愛が
試されているのです。そういう意味で、彼らは天使なのです。
私たちが、弱い者をどのように扱うかを神は見ておられるので
す。そして、あなたが、軽んじたように、あなたも死後に軽ん
じられるのです。あなたが扱ったように、あなたもやがて扱わ
れるのです。神は侮られるような御方ではありません。たとえ
どんなに弱さを持った子供であっても、この世に産まれる価値
のない人間は、決して一人も生まれ出ることはないのです。み
んなが必要とされているのです。

結論
 「あなたは、殺してはならない。」という神の戒めの意味が
分かりましたか?どんな人であっても生かすことを学ばなけれ
ばならないのです。神はあなたが、人を生かすか?殺すか?を
見ておられるのです。そして、やがてはそっくりそのまんま、
あなたに帰っていくことになるからです。
  「神を恐れることは知識の初めである。」(箴言1章7節)

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