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SDA嵯峨野教会 mixi 分室コミュの原宿の墓標

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”我々は歴史から何を学ぶべきか”
http://homepage3.nifty.com/newSDA/bohyo.htm
(序論)
セブンスデーアドベンチストの東京中央教会は、東京都渋谷区のJR山手線原宿駅から徒歩で十数分の所にある。表参道のにぎやかな通りから大型トラックが対向不能な細さの通りを入って裏に少し歩くと、そこに一昔前の前衛芸術か新興宗教団体の納骨堂を思わせるような不格好で陰気なコンクリートの建物があり、それが教会であることを悟るには、やはり表に掲げられた案内板に頼らなければならないだろう。誰もここにかつてアドベンチストが戦後の日本伝道の復興の期待をかけた東京原宿伝道センターがあったことを想像するのは難しいに違いない。表通りの傲った軽薄な喧噪とは裏腹に、そこは常に静けさがあり教会の周りには十分な駐車場もないため、人の往来もそれほど多くはない。ファッションタウン原宿の多幸症(euphorias)の裏に埋もれて忘れ去られ、かつて我々が再臨使命をつたえる拠点としようとした、この場所がこれほどまでにさびれてしまったのは一体どうした事なのだろうか。そこには我々の責任があるのだろうか。

歴史と背景

今年は太平洋戦争(第二次世界大戦)が終わって61年目にあたる。大日本帝国のヒステリアが物心共に惨めな敗北に終わり、国体と天皇の神聖性が否定されることによってそれまでの日本人の旧態の精神生活は完全に根拠を失った。戦争による物的被害や人命の損失は計り知ることが出来なかった。人々は、繁栄した文化を奪われて再び貧しい暮らしを強いられた。戦争中に迫害と教会の強制解散を経験したセブンスデーアドベンチストは、精神生活が破壊されることはなかったが、やはり他の国民と同じように貧しい経験を甘受した。

そのようなときに、アドベンチストの世界総会は、戦後ただちに日本の教会の援助を決め、膨大な物資援助と復興の為の多額の援助資金を送って来たのである。戦後間もなくして、セブンスデーアドベンチストは日本の地で再組織され、再臨メッセージと聖書の言葉の成就のために働きを再開した。彼らが原宿に東京伝道の再興のために適当とみられる教会用地を見つけることが出来たのは、ちょうどその時であった。この場所は、梶山積氏の「使命に燃えて」と題する教会史の本によると、住所は東京都渋谷区穏田3丁目164の高台1080坪であって、明治神宮表参道と明治通りの交差する北角にある眺望のよい台地であった。当地は、戦前はそのあたりの一等地であり、高級ホテルや結婚式場があったのが爆撃などで破壊されて、荒れ地になったまま売りに出されたものだったという。当時の連合伝道部会は、そこを神が摂理の内に与えられた新しい伝道の拠点として、新しい教会堂を建てたのである。梶山はその当時の模様を「高台広場には白亜の会堂と別館が戦災のため荒廃した原宿、青山、渋谷一帯を見渡しえる台地に出現したとき、大衆の目に日本におけるキリスト教に新時代が到来した様相としてうつった」と「使命に燃えて」に書き残した(pp.485)。新しい会堂は楽に800人は収容できる大きさで、講演会が頻繁に催され、表参道の道ゆく人々にも神の働きが祝福されていることを印象つけたであろう。

ここに問題が起こった。その後間もなくして、多くの不動産業者や大手都市開発デベロッパーがこの広い土地に目をつけたのだ。しかしながら、その土地がすでにアドベンチスト教会が購入済みであることを知って、教会に対していろいろなプレッシャーをかけて来たのである。業者やデベロッパーは教会が移転することが如何に将来にとって有利であるか、町の美観や繁栄に貢献するかを巧みに勧告した。業者の中には教団に対して威嚇的な態度をもってやってくるものもあったという。しかし、教団の側は譲渡売買交渉に応じる意志はなく、度重なる執拗な不動産業者の来訪にもかかわらず、クラーク、ワッツ総理らは原宿の伝道拠点をひたすら守り続けたのである。しかし、日本の戦後の急激な経済成長の結果、都内の地価は急上昇し、その結果教団の地所にかかる土地税が大きくなり、これが教会の重荷になり始めた。そこで明治通りに面した最良の部分400坪を残して、他の裏手の土地680坪を分譲する案も検討されはしたが、そうであったとしても教団が原宿の土地を拠点とする伝道センターを放棄する事までは考えなかったのである。

しかし、総理が国平四郎になった時に突然状況が一変した。教会が原宿の売却を積極的に考え始めたのである。それは田中角栄が経済成長のおごりの中で「日本列島改造論」を出して、日本全国で地価が急激に高騰してからまもなくの事であった。梶山はその時の状況と経緯を簡潔に次のようにまとめている。

「しかし国平四郎が総理就任後、従来の土地処理とは格段に好ましく思われる商談が登場した。その一つは、地所1080坪全部を譲渡し、教会は他に敷地を求めて移動する案であった。その案は、当然東京中央教会の会員中少数を除く以外の大部分の会員は強く反対した。教団本部と中央教会側との意外に長期にわたる困難な折衝を重ねた末(私注:教会と不動産業者との折衝ではなかった事に注意されたし)、国平総理の後任岡藤米蔵を議長とする教団常務委員会は、地所の一部を教団の為に残し、東京中央教会を中心とした原宿(東京)センターを建設することを定めて、明治通りに面した全部の地所830坪を株式会社森ビルへ約40億円で譲渡したのである」
「東京中央教会を中心とするアドベンチスト原宿センターは、表通りに建られる森ビルの豪華な建築とマッチするものが建つことは、結局将来にわたって有利であるとの専門家の勧告を受け入れ、堅固な建物を築造することになった。台地の会堂を始め、諸建造物が取り払われた後、高台は明治通りの平面まで削り取られ、そこに高層建築が造られたのである」

「この工事は大都会における再臨運動の前進に役立つためネヘミヤの時に似たサンバラテ、トビヤ流の反対、妨害は必至であった。はたして意想外に激しい妨害に遭遇し、工事は一時停滞する不祥事も起きたが、ついに収まり、工事は順調に進められた。しかしこのため起きた損失の保障は、すべて教団に課せられた。...(中略)...、昭和53年(1978)6月には竣工し、6月25日極東支部総理クラーク臨席のもとに落成式を挙行した。(中略)極めてなごやかにプログラムは進められ、過ぐる日の険悪さは跡形もなく消え失せ、センターの将来が祝されたのである。」

「ただ教会の信心深い人達にさえ理解されがたい一事は、旧会堂は献堂式の日に1000人を越える人員を収容できたのに比べ、新会堂はわずか144坪内に 220席しかなく、礼拝に不可欠の聖歌隊席は、臨時にその都度設けなければならない。それにもかかわらずここにはパイプオルガンが備えられている事である。この疑問に対し、少なくとも次の理由が挙げられる。すなわち、このセンターの使用目的として、新奇を求めて止まぬ現代人の多彩な要求にほどよく適応するため、従来の一本調子から多角的に変わった伝道センターを設けたのである。それゆえ、ここには礼拝堂に加えて各種の催し物を行ない得る数々の教室または集会場が完備され、総坪数は586坪に及び、旧センターより実際には効率的に拡張されているのである」


梶山は以上のように書いて、特に、最後の引用文では、適切な疑問を投げかけているにもかかわらず、やけっぱちな理由づけをして自分と読者を無理矢理納得させようとしているのが痛々しい。彼の記述の言葉の端はしには、「なぜ我々は今度はこんな狭い教会堂に押し込められるようにして礼拝をしなければならないのであろうか、これはまさに神の教会の後退ではないのだろうか」というやりきれない思いが伝わるが、この「使命に燃えて」という本が「福音社」からの出版であることを思えば、それはかなりの抑制が行間にかかっている事を読み取らせざるを得なくするであろう。


実際、原宿が「若者の街」「ファッションタウン」「東京のエトワール広場」などとして急激に脚光を浴びるようになったのは、実に中央教会の消滅した明治通りに面した敷地にナウい高層建築(この建物にはラフォーレ原宿という名前がついている)が建ってからのことである。この時、教会指導者は出来れば、この一過性の「原宿ブーム」にあやかりたいと思っていたようであり、原宿センターを「青年伝道の拠点」とも決めて若く活発そうに見える牧師を投入していた。


その後、およそ18年の歳月が過ぎたが、原宿のセンターは一体どれほどの働きをして来たといえるだろうか。原宿センターは「現代人の多様な要求に答えられるような」働きをしてきたのだろうか。そのような問い掛けをする人は誰もいないまま、この教会は衰退して行くのだろうか。

国平四郎はこの売買契約が成立して後、原宿の旧館が解体される直前に総理職を後継の岡藤米蔵に渡してアメリカに帰っている。


論賛と解説

まず、読者への親切ということと、自分の立場を明らかにするという意味で、この文の筆者である私は、ここでは教団の味方でも、東京中央教会の味方でも、不動産業者の味方でも無いことを断わっておかなければならない。以下の文は、そういうスタンスからのコメントである。いつの時代でもそうであるが、清められていない人が恵みを受けると自己増長や自己満足に陥り、神のみこころを曲解して、自分の良かれと思ったことすべてがみこころになるかのように振舞いはじめるものだ。ちょうどそれはサウルが平民から王に選ばれて傲り高ぶり、最後には自分の身を滅ぼしてしまったのと同様である。また、1タラントを与えられて、それを正しく用いなかった人の例えのように、神の恵みを軽んじると、せっかく与えられた恵みばかりか、持っているものまでも失ってしまうのだ。まず、私たちはその事実を厳粛に受け入れなければならない。

敗戦時のアドベンチストはまさに、「国破れて山河あり」の心境であった。教会を初めから出直さなければならないこともあったが、会堂もなく、教会の資産も接収され、何人もの将来のある若い青年信徒たちが不注意に召集礼状に呼応して、大陸や南海の孤島のどことも知れぬ場所で命を失って行った(アドベンチスト教会の指導者の年齢層に中間に大きな空白があったのはそのためである)。この、何もない、という極限的な状況において神は介入された。日本は敗戦し、軍国政府は打倒された。「大日本帝国においてはセブンスデーアドベンチスト教会の名前は永遠に消滅するであろう」と宣言した弾圧裁判の検事の声明文はただちに無効と化した。教会は復興され、再臨と安息日の回復の使命を再びこの世界に展開することになった。そして摂理にしたがってアメリカの世界総会から多額の復興資金が送られて来た。その時に原宿に新しい日本の伝道の拠点となるように神が土地を備えられたのである。

不注意でいるとそれと悟ることは出来ないのであるが、地誌というのは神が霊感をもって定められたものであり、我々はこれを無視することは出来ない。たとえば、東京に西に富士山があり、北に平野が広がり、東に利根川が流れ、南に東京湾という内灘が開かれているのも、もともとはそういう立地条件は神が創造されたものであって、しかもその環境はそこに住むものの精神生活に影響を及ぼさざるを得ない。今でこそ飛行機や新幹線のごとき発達した交通機関があり、人はその気になれば自分はどこにでも行けて場所の制限を受けることはないと思っているが、山河や海のような地理的制限条件の存在が人間の生活、文化、世界観、宗教、結婚に運命的影を落として来たのは歴史家の一致する見解である。だから、イスラエルについても、神に選ばれて世界の人々に神の栄光を表わすことが出来るようになるために、アジア、アフリカ、ヨーロッパのどの大陸にも簡単にアクセスできるような便宜的地理環境にアブラハムを召したのである。だとしたら、なぜ、神が原宿の交差点の角の一等地に広大な土地を恵みで与えられたのかは反省の余地がある。

まず、そもそもアドベンチスト教会のために選ばれたこの場所が一体どういう意味があったというのか、またアドベンチストがその土地を占有することが何を意味したのか考えてみるべきである。東京都23区のロードマップがあるなら見てもらいたい。始めにSDA連合伝道部会がアメリカからの援助金で購入できた土地というのはJR原宿駅から表参道沿いに東南東へ400m行った明治通りの交差点の北角であり、現在この地点には「ラフォーレ原宿」という高層建築物が建っている。梶山の記録によると、この建物のあった場所は高台であって、旧教会堂が撤去されたあと、明治通りの高さまで丘が徹底的に切削されたとある。この場所から青山やNHKなどのある渋谷が見渡せたというのであるから、このあたりでは結構な高さの丘であったはずである。また、ということは、そこから原宿駅の反対位置にある明治神宮にも眺望があったであろう。明治神宮とは言わずと知れた明治天皇が神として祭られている場所であり、戦前の国家神道の神殿であり、日本国の御陵威(みいつ=authority)の最も高いところであり、それなりに恐れられていた所だったはずだ。そういう畏れ多いものが近くにあったからこそ、そこにはかつて高級な結婚儀式の施設がある東京市の神聖なる一等地だったのである。それが戦争が終わったとはいえ、国家が天皇の名前により迫害して教会の死亡宣告までも下したはずのアドベンチスト教会が突然よみがえって、旧い国家の権威の象徴のある場所の文字通り目と鼻の先の高台に忽然と姿を表わしたというのは、非常に象徴的な大事件ではなかっただろうか。旧権威の代表である神社に明瞭なコントラストをつけるかのように現われた東京中央教会の白亜の教会堂は、天皇の権威を精神的に至上として神社には足を向けて寝ることもためらわされていた人々に対して新鮮な驚きとを禁じえなかった。それはまさに時の兆(signs of the times)に他ならなかった。即ち、神は日本の伝道の拠点をかつての戦前の日本人の精神的に権威付けの根拠の場所の文字通り鼻先に置かれて、偶像の神を嗤い、かわりに天地創造と十字架の神がそれに取って替わるべきものである事を日本の人々に印象付ける最も大胆な場所に与えられた。それがわからなかったのか。神はアドベンチストの民の恥をそそがれ、敵の前で宴を設けられたのだ。

そして、もしアドベンチストの民が本当に神がそれまでして日本で神の栄光が大胆に高く掲揚されて伝道が進められて行くことを信じたなら、実際疑いなくそうなっていただろう。目先の利害に誘惑されず、信仰を堅く守って神の恵みを忠実に管理し、原則に従って歩んでいたら、神はその場所でさらに祝福を増し加えられ、アドベンチストが国民からも国家政府からも最も信頼される宗教団体として社会的に一目置かれるようにしたであろう。読者にとって「国平が原宿の土地を不注意に売り飛ばさせたのだ」と言って国平を悪漢にすることは小学生でも簡単にできる事である。が、しかし、その前にアドベンチストは謙遜になって立ち止まって考えなければならない。国平がしなかったら岡藤が売りに出したであろうし、岡藤がしなかったら誰か他の人(それはあなただったかもしれない)がそうしたかもしれないと思わないのだろうか、と。私が読者に敢えてそう言うのは、こうなったのは、神の無償の恩寵を受けて日本の最適地に伝道の為の土地を得たにもかかわらず、アドベンチストがそういう神の摂理を悟らずにたるんで怠けていたために神が摂理を通してその土地を取り去られたのではないか??!!、という厳しい反省をしたいからである。主が与え、主が取られたのである。主のみ名はほむべきかな(ヨブ記1:21)。

梶山の文によると、原宿土地明け渡し交渉が最も難航したのは、教団と不動産業者との交渉ではなく、教団と原宿中央教会とのものであったと記録されているが、これは非常に興味深い事実として覚えられなければならない。つまり教団の心は中央教会よりも不動産業者の方に近かったのである。一方の中央教会では、梶山の言うように、いきなり教会土地全部を売却して他に移れと言われて、そんな馬鹿な、と言って反対したに相違ない。このあたりの経緯に関する他のデータが記録として残っているものが残念ながらほとんど無いので無闇な憶測は出来ないが(何者かが意図的に記録を残さなかった可能性も大)、結果から見るならば、最終的に中央教会は明治通り側の高台一等地を放棄する部分売却案を受け入れる結果になった。クラークやワッツが総理でいたときは分譲案はあっても明治通り側の土地を売ることは考えてもいなかったというのに、ここで変わってしまったのである。

白亜の礼拝堂は取り壊され、それに追い討ちをかけるように、神に選ばれた場所は明治通りのある低地のレベルまで徹底的に削り取られて低くされてしまった。教会は僅かに残された裏手の土地に追いやられ、表に建つ「ラフォーレ原宿」の建物と同じようにしたほうがいいと言うような無責任な専門家の意見におだてられて、およそそれに近いような教会を裏道の隘路に建てしまった。その建物はグロテスクと迄は言わないものの、すぐには教会であるとはわからない。あたかも表に建つ高層建築の離れにテナント料を払って入居している教会であるかのように見える。ピアノやオルガンを鳴らすので一応それなりの防音工事は十分行なったつもりであるのに、隣接の周辺住民からは夜には楽器の演奏しないでくれという条件をつけられ、夜の集会ももはや活気がない。ときたま青年会がカラ元気で開かれても、話題の中心が聖書の研究よりも「いかにして女を作るか」とかいうようなレベルの話をしていた事が多かった。確かにこの程度の施設の利用状況であるならば、教会が地の高いところから追いやられて、裏の低いレベルに押し込められても文句は言えなかった。私は原宿センター落成直後の1978年の7月に地方から何人かの青年を自分の車に乗せて「信仰の祭典」と称する全国青年大会に出席したが、その場所の狭いのと駐車場のないという状況は参加者に鮮明に印象付けられた。そこでは漫画映画の主題歌で踊る遊戯を教会の青年信徒や求道者に教授していた。それが明治神宮やNHKを堂々と展望できる高台の白亜の教会堂とはとても似合いそうもない事だった。いずれにしてもこの建物は日本の伝道活動のコミュニケーションの拠点になれる資格を既にその時点で物理的にも精神的にも喪失してしまっていたのである。

神は、あなたが安息日を守り、神の戒めに忠実であるなら「地の高いところをのり越えらせる」と約束された。事実、その約束はそのように歩んで来た神の民の上に成就されて来たのである。それは、忠実に神と共に歩んでいる信仰の人ならば誰でも、経験的に「アーメン」と言って証しすることが出来ることである。事実、同じ事は、日本のアドベンチストの民にも与えられたのだ。困難と迫害に耐えて勝利した人々の為に、神は原宿の意味深い実際の価格以上の象徴的な価値の高い土地を摂理に従って与えられたのだ。しかし、この民はなぜそのような重要な土地が自分達に与えられたのか、本当の意味を霊の目で洞察することが出来なかったのではないだろうか。神に与えられた賜物の価値を認めないで霊的にラオデキヤの状態を更新し続けてきてしまって、最後には与えられた恵みと土地を信仰のビジョンもろとも土建屋のブルドーザーの轟音とともに削り取り去られてしまったのである。

その後原宿はどうしているだろうか。梶山や国平はもはやそこにはいない。あるのは不信仰のゆえに低められ、大幅に縮小された場所と、制限されたスペースという否定できないハンデイキャップである。残された人はその中で最善を尽くすしかない。悔い改めとスピリットの復興があればあるいは神は原宿の奇跡を再び起こされて神の民の恥を注いで下さると信じられるが、その語るべき神の戒め、安息日、預言の霊、青年への使命等のアドベンチストのメッセージも今教会の中で揺れ動いており現状は心細い。この停滞した状況が継続する限り、信仰の目から見て、日本の状況は原宿の悲劇以後から動きがとれなくなってしまっている状態にあると考えざるを得ない。戦後の日本伝道の復興運動はこうして原宿の奇跡の終焉と共に死に体になっている。よって私はこの反省文にとりあえず「墓標」という名を冠して喪を弔いたい。日本の伝道が生き返って明日があるなら、原宿の不信仰を悔い改めた後にあるか、目を聖書の神に転じて立ち返り、かつてのSDAの祝福の流れ出てきた所に謙遜に戻る時であろう。
(文中敬称略)

http://homepage3.nifty.com/newSDA/bohyo.htm

コメント(1)

長いものには巻かれろで放置した結果がこれです。

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