ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

信長公夫人濃姫〜帰蝶〜コミュの濃姫のお墓二つ

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
最近の研究で、濃姫は本能寺の変後も生きていたことが解りました。

信長の娘婿である蒲生賢秀が安土城から信長の子女・側室達とともに日野城へ非難させ、織田信雄が父の正妻【安土殿】に化粧料を与え庇護していた
安土殿は慶長十七年(1612年)7月9日に78歳で逝去し、
「養華院殿要津妙玄大姉」という法名で大徳寺総見院に埋葬
されている。
という記録が見つかりました。
『妙心寺史』にも、天正11年6月2日(1583年)に秀吉主催とは別に《信長公夫人》主催で一周忌を執り行った記事があり
本能寺後も存命だったことがうかがえます。

ですが、不思議なことに岐阜城の近くにもう一つ、
《濃姫の墓》と言われるものがひっそりとあるのです。

そのもう一つの墓は、『お濃は本能寺にて信長と運命をともにしたが、ある家臣がその遺髪をもって美濃の地まで逃れ、ここに埋葬した』と墓隣にある説明文に記してあります。

もし、この2つの説では濃姫は48歳と78歳で亡くなったことになります。




天海も墓は家康と共に日光東照宮にありますが、
東京の上野に髪の毛塚を生前に作っています。

あくまでも推測ですが、
濃姫も本能寺の変後、夫と共に死んだつもりで
縁の地、岐阜に髪の毛塚を造ったのでしょうか?

天海は風水や呪術をも操り東京の鬼門に当たる上野に自らの髪塚を造り江戸城を守ったといいます。

天海は明智光秀であったという説もあります。
光秀の従兄弟の濃姫も、もしかしたら…?

コメント(4)

岐阜市ではその墓の説明書きに本能寺で死んだなどという事は書いていないそうです。
もし本当に書いてあるならば、再建した有志が史実にない事を勝手に書いたのではというのが、よく言われている説です。
また、信用が今ひとつと言われている資料にあるという、本能寺で亡くなった「おのう」という老女の墓と考える事も出来ますね。
絢女さま>
たしかに《おのう》の可能性の方が大きいですね。
安土殿の説の方が信憑性も持てます。
ただ最近まで見つけられなかったことが
おかしいくらいですね。
信長の近くに埋葬されてますのに…
(研究者は何をしてるのでしょう?)

じゅうべえさま>
実は東京の江古田近辺にも織田家の墓があったんです。
信長の次男、織田信雄の墓で他には小野お通、蜂須賀家などもあります。
東京にあるなんて知りませんでした、まさか自転車で行ける距離に織田ゆかりの寺があるなんて散歩中、驚いてしまいました。
大廣寺というところです。
織田信長の弟で織田長益の子孫の柳本織田家記録というものに、「養華院殿要津妙玄大姉」は、信長公寵妾と記されていたので歴史家の皆さん達は、誰だか分らなかったと説もあります。

濃姫ファンとして養華院殿要津妙玄大姉は、の生長公御台で濃姫のお墓だと思います。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

信長公夫人濃姫〜帰蝶〜 更新情報

信長公夫人濃姫〜帰蝶〜のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング