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私はクリスチャンコミュの山上の説教 下巻

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Lloyd Jones博士 Sermon on the Mount のノートから  下巻第1章 (1)

                            K.OSAWA
                            2010/02/09
マタイ 6:1−6
6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。
そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。
まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。

6:4 あなたの施しが隠れているためです。
そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。
彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。
まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。
そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。
そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

山上の説教マタイ6章の内容  クリスチャンのこの世における生き方
1 神様の臨在の中で生きる
2 神様に対する積極的な従順
3 神様に全面的により頼む生き方

その中で、神様は何回も天のお父様として描かれている。
天に神様を父として持っている者として、クリスチャンはこの世においてどのように生きるべきかが教えられている。
マタイ6章は内容的に二つに分けられる。
一つは1節から18節までであり、ここではクリスチャン生活の宗教的な側面が扱われている。
すなわち施し(慈善)、祈り、断食である。
クリスチャンはこの世では寄留者であり、旅人であって、世にありながらも世に属していない存在である。
クリスチャンは神の子として、天の父なる神様と特別な関係を持つ者としてこの世の中で生きている。
そういったクリスチャンが、神様と直接的にどのような関わりを持ちつつこの世で生活するべきかが扱われている。
もう一つの区分は19節から34節までである。
クリスチャンは世に属していない存在であると言ったが、一方で彼は確かにこの世の中において生きており、この世から様々な影響を受け、また実際問題としてこの世の中で生きていかなければならない。
他の人たちと同じように、衣食住のことやら家族の生活のこと仕事のことを考えなければならない。
直接的に神様と関わる宗教的な側面以外における、この世における具体的な生活について、クリスチャンはどのように生きるべきかが扱われている。
聖書全体の中でも、このマタイ6章ほど私たちの心のありようを深く探るところは他にないであろう。
この6章は、私たちに自分自身の心のありようをはっきりと突きつける。
そこから逃れることはできない。
だからある意味で、このマタイ6章ほど読んでいて苦痛を覚えさせられる部分はない、とも言えるだろう。
自分のありのままの姿に直面させられることほど苦しいことはない。
クリスチャン以外の人たちは、自分の実際の姿を見せられることを拒み、避けている。
あるいは見せられたとしても否認する。
自分はそのような者ではないと否定する、また言い訳し自己正当化しようとする。
しかし自分自身の真の姿を知ることは、実は神様の恵みであって、神様に感謝しなければならないことなのである。
それはプライドが打ち砕かれ、へりくだらされる体験である。
自分の真の姿を知った人だけが、キリストのもとへと飛んでいき、自分が自分自身から解放されるためにはただ聖霊様に満たされ続けることのみであることを悟って、自分自身を放棄して従っていく決心ができるのである。

1節は6章全体のまとめであり、導入となっている。
そのあとで、クリスチャンのいわゆる宗教的な活動について3つのことが語られている。
それは宗教的な活動が3つの部分からなるからである。
すなわち
1 与えること
2 祈ること 神様との交わり
3 断食 自分の肉を殺すこと
の3つである。
ここでイエス様はそれぞれに関する一般的な原則を教えていらっしゃる。
そのために代表的な例を3つ挙げておられるのである。

マタイ6章にあげられている偉大な原則をいくつかの原則に分けて考えてみよう。
1 クリスチャン生活は微妙なバランスの上に成り立っている生活である。
ある意味でクリスチャン生活は、自己矛盾しているように見える、とも言える。

なぜならば、相互に相容れないような二つのことを同時に主張しているからである。たとえば次のように言われている。

5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。
燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
ところが一方ではこう言われているのである。
6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。
まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
6:4 あなたの施しが隠れているためです。
そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

あなたは混乱して、ではどうしたらよいのだろうと思うかもしれない。
祈る時も部屋に一人で鍵を閉めて入り、断食するときも油を塗って人に知られないようにする、というのならば、自分がしているよい行いをどのようにして世の人たちに示したらよいのだろうか、と。

しかしよくみことばを読んでみれば、矛盾しているように見えるのは表面だけのことで、実際には矛盾はないことがわかるであろう。
私たちは、世の光として、自分たちの生活を通して神様のご性質をあらわし、その栄光をあらわすようにと命じられている。
しかし、その行いによって、どういう意味においても、自分自身に注目を集めるようなことをしてはいけないとも命じられているのである。
クリスチャンは自分自身については一切意識してはならない。
むしろクリスチャンは飲むにも食べるにも何をするにも神様の栄光をあらわすことを意識すべきである。自分自身がどのように人から見られているだろうか、というような自意識、自分を中心に考える考え方を捨てなければならないのである。

しかしもちろんこの違いは微妙なものであり、混乱を招きやすいものである。
このような問題について人間はどちらかに偏った極端な立場を取りやすいのである。
キリスト教会の歴史をふりかえってみれば、常にこの二つの立場が衝突していたことが分かるであろう。
一方で、自分自身の栄達をこの世で求めようとすることを恐れるあまり、修道院にひきこもって隠遁者として生活しなければならないと思う人たちがいた。
一方では、クリスチャン生活を自分自身が人からよく見られるための一種の手段であると考えて、いかにも敬虔そうに自分の行いをまわりの人たちに見せびらかすにはどうすればよいかと、パリサイ人のようにあれやこれやの方法を考え出している人たちもいる。

その意味でクリスチャン生活は微妙なバランスの上に成り立っているのである。

しかし同時に私たちは細かい決まり、つまり文字にこだわってはいけない。
あれをしてはいけないのか、これをしてはいけないのか、といった議論に巻き込まれるのではなく、大事なものは文字ではなく、霊であることを理解しなければならない。
クリスチャンは世の人から見て魅力的な生き方をしなければならないが、同時に自分自身に注目を集めるようであってはいけない。
このバランスは、私たちが聖霊に導かれて日々歩んでいく時にのみ可能になるのである。聖霊様が私たちの生活の全てにおいて働いて下さる時にこのバランスを自然にとることが可能になるのである。
第二の原則はこれである。究極的には、人間には二つの選択肢しかない。自分自身を喜ばせるのか、神様をお喜ばせるするのか、ということである。
人によく見られようとしてよい行いをしてはいけない、と書かれている。
それを読んだ人は、ではまわりの人を喜ばせることが悪いのかと思うかもしれない。そうではない。
実際には周りの人からの称賛、承認を求めることで私たちは自分自身を満足させようとしているのである。
人々が自分のことをよく思ってくれている、と考えることで自分自身が自分をよく思えるようになりたいと考えているのである。
これは実に微妙な点であり、ここに自己中心の罪の欺瞞性、巧妙さがあるのである。自己犠牲を払っているように見える行為が、実は巧妙に隠された自己中心的な行為であるということがいくらでもあるのである。
イエス様は結局このようにおっしゃっているのである。人間は生まれつきの性質として、神様からのほまれよりも人間からのほまれを好んでいるのである、と。

そして人間からの栄誉を求めるのは、結局そのことで自分自身をよく思いたい、自己満足したい、という自己中心的な欲望からきているのである。
最終的には、私たちは自分を喜ばそうとしているか、神様をお喜ばせようとしているかのどちらかなのである。
これは粛然とさせられる宣言であるが、私たちは自分自身の行動の裏にある隠れた動機を考えてみる時にこのことが真実であると認めざるを得ないだろう。

このことからもっと大事な原則へと導かれる。この世の人生において私たちにとって最も大事なことは、私たちと神様との間の関係であるということである。
私はあえてこう言わせていただきたいと思うが、私たちが犯してしまう失敗のほとんどは、私たちが自分と神様との間の関係を忘れてしまうことが原因なのである。
だからイエス様はここで、私たちの人生の究極の目的は、私たちの人生における全ての場面で、あらゆる行いを通して神様の栄光をあらわし、神様に喜んでいただくことであるとおっしゃっているのである。

実にこのことは私たちの主の地上での人生をあらわす最も大きな特徴だったのである。
イエス様の人生においてこれ以上に目立った特徴はありえないだろう。
イエス様はただ父なる神様のためにのみ生きておられた。
イエス様が語られた言葉さえも全て父なる神様から与えられたものである、とおっしゃった。
またイエス様の全ての働きは、自分からしているものではなく、父なる神様がイエス様を通してなしておられるのだとおっしゃった。
イエス様の人生は全てが神様のご栄光をあらわすためのものであった。
イエス様は自分自身のことは一切考えておられなかった。
イエス様は自分自身のためには何一つしようとはされなかった。自分を目だたそうとはされなかった。
それゆえイザヤ書でこう言われている。
42:1 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。
42:2 彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。
42:3 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。
イエス様は声をあげようとはされなかった。ある意味では自分を見えないように、隠そう隠そうとされていた。
何かを見せびらかそうとしたりすることは決してなかった。イエス様は完全に、ただ神様の栄光のためにのみ生きておられたのである。

またある時には、逆にパリサイ人たちに対してこうおっしゃっている。
5:41 わたしは人からの栄誉は受けません。
5:42 ただ、わたしはあなたがたを知っています。
あなたがたのうちには、神の愛がありません。
5:43 わたしはわたしの父の名によって来ましたが、あなたがたはわたしを受け入れません。
ほかの人がその人自身の名において来れば、あなたがたはその人を受け入れるのです。
5:44 互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。                         (ヨハネ 5:41−44)

言い換えればイエス様はこうおっしゃっているのである。
あなたがたは選択を間違えている。人の意見ばかりを気にしている。
人からの評判だけに重きを置いている。そうではなく、神様がどうおっしゃるかをまず考えなさい。
そうすればあなたは間違うことがないのである、と。

コメント(6)

第一章(2)

今まではマタイ6章に書かれてある偉大な原則を一般的に述べてきた。
ここで与えること(almsgiving)についてイエス様が具体的にどのようにおっしゃっているかを簡単に見てみたい。
与えること(aimsgiving)とは、助けを必要としている人たちに対して手を差し伸べることである。
その必要に応じて、お金、時間、労力、その他必要なものを提供することである。
イエス様は、この与えることには正しい方法と間違った方法があるとおっしゃっている。
間違った方法とは、与える行為をまわりに宣伝することである。
この人がこれこれのことをしていますよ、とまわりに言いふらすことである。
よい行いをしている自分に対して注目を集めようとすることである。
しかし私たちは注意しなければならない。私たちは実に巧妙に、さりげなく、それでいてはっきりと自分のよい行いを人に印象づけるための方法をいろいろと考え出すからである。

たとえばこのように言う人がいるかもしれない。
「受洗者の数が問題ではないとは思います。
でもその数をはっきりと示さなければ神様の栄光を表すことにはならないと思いますので、ここで発表させていただきます。」
「神様がどれほどのことをしてくださったのかを明らかにするためには、年次報告書であれやこれやの業績について書いておく必要がある。」
神様の栄光をあらわすため、と言いながら、自分の働きも巧妙に宣伝しようとする方法は数えきれないくらいあるし、
私たちはそういう方法を考え出すことにたけているのである。
それが与えることの間違った方法であり、そのことに対する報いについてイエス様ははっきりおっしゃっている。
「まことに、あなたがたに告げます。
彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」彼らは人の称賛を求めたのである。そして確かに望むものは手に入れるだろう。
新聞の記事に自分の名前がのるかもしれない。
教会の会報に紹介されるかもしれない。人々は、なんと素晴らしい働きだろう、と口々に言うかもしれない。
しかし、それだけである。
それが、彼らが受け取る報いの全てなのである。神様からは何も受け取ることはできないのだ。
哀れな人たちよ、私たちはそのような人たちをあわれまなければならない。
そして彼らのために祈らなければならない。

では正しい方法とはどういうものであろうか。
イエス様はこう言われている。「自分の右の手がすることを左の手に知らせるな。
それは自分の行いが隠れているためである。そうすれば、隠れたところを見ておられる天の父なる神様があなたに報いて下さる。」
自分がしていることを他人に知らせてはいけない。
言いふらしたり宣伝したりしてはいけない。それは明らかである。
しかし次のことはそう明らかではない。
右の手がすることを左の手にも知らせない、ということは、自分がしていることを自分でも意識するな、ということである。
自分がしていることを他人に知らせないだけではなく、自分がしていることを自分の内ですら誇らない、意識さえしない、ということである。このことは非常に難しい。
これみよがしに自分がしていることを宣伝している人を見て、その人のことを裁くのはやさしい。自分はそういういやらしい売名行為はしない、と思う。
しかし、そのようにして自分は人とは違う、と自分を誇るようであってもいけないのである。
もしそうするならば私たちは、ただちにルカ18章に出てくるパリサイ人のようになってしまうのである。
自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。
ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』                                          (ルカ 18:9−12)

自分がよいことをした時、自分に対してよくやったぞ、と言う。
もちろんわざわざ人に言いふらしたりはしないさ、と思うかもしれない。
それでもあなたは自分がしたことをちゃんと自分の中でノートに記録している、ということはないだろうか。
ここでイエス様がおっしゃっていることはこういうことである。
そのような記録を自分でつけることを一切やめなさい。自分の人生の中で損得勘定することを一切やめなさい。
自分がしたことは全て忘れてしまいなさい。
神様の聖霊があなたを促された時に、言われた通りに行いなさい。
そしてした後は、したこと自体を忘れてしまいなさい、ということなのである。
私たちは、ルカ17章に出てくるしもべのようにならなければならないのである。

ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい。』としもべに言うでしょうか。
かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい。』
と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。
自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。
なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」                           (ルカ 17:7−10)

どのようにしたらこのようにふるまえるようになるのだろうか。
私たちの心がただ神様への愛だけで一杯に満たされ、自分自身のことを考える時がなくなるならば可能になるのである。
私たちは、自分自身のことを考えることをやめようとしても決してやめることはできない。
罪深く、自己中心的な私たちの性質は、私たちの考え方、感じ方、意志の決定の仕方に常に影響を与えている。
ほっておけば私たちは、何をするにあたっても常に自分を中心に考えてしまう。

自分にとって何が得になるか、自分は人からどう思われるようになるだろうか、このことで自分は自分自身に満足できるようになるだろうか、などと考えており、常に自分を中心とした損得勘定をし続けている。
この自己中心的な性質から逃れるための方法は一つしかない。
神様への愛によって自分の心が完全に満たされ、自分のことを忘れてしまうほどになることである。
母親が赤ちゃんのおむつを替えている時に、今日は何回替えただろうか、とそうしている自分を意識して、赤ちゃんが大きくなったらあなたのおむつをこれだけ替えてあげたのよ、と恩着せがましく言ったりすることがあるだろうか。
母親の心が赤ちゃんの方だけを向き、その心が赤ちゃんへの愛だけで満たされている時、自分がしていることはもう考えなくなるのである。
ただ純粋に愛することの喜びだけがあるのである。
自分の右手がしていることを左手にも知らせるな、というこの命令を実行するためには、カルバリの十字架について、私たちのために死んでくださったイエス様をまず見上げることである。
イエス様の人生、私たちのためにあらゆる試練、困難、苦しみを耐えられたイエス様のことを考えてみることである。
イエス様が私たちのためにしてくださったことを考え続けていく時、私たちの心は神様に対する愛で満たされ、自分自身に対するこだわり、束縛から解放されていくのである。

ではもし私たちが、自分がしたことを忘れてよいわざに励むとしたら、その結果はどうなるのだろうか。
素晴らしい結果が待っている、とイエス様は約束しておられる。
神様ご自身が報いを与えて下さるのである。あなたは自分自身で自分がしたことを記録につけておく必要は全くない。
神様があなたの代わりに、あなたがする全ての行いの記録を、最も小さなことに至るまで全てつけてくださっている。
あなたが自分で忘れてしまっているような小さなことまでも全てが記録されているのである。
そしていつの日か神様はその行いの全てに対して報いを与えて下さる。
あなたがしたことはそれまで誰も知らなかったかもしれない。しかしその時には、神様が全ての神の子らの前で、公にあなたの行いを明らかにしてくださり、報いを与えて下さるのである。
マタイ25章には次のように書かれている。

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。
『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』
すると、その正しい人たちは、答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。
いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』     
(マタイ 25:34−40)
私たちは自分で自分がした行いの記録を取る必要はまったくないのである。神様が全てを記録しておられる。私たちの主はこうおっしゃっているのである。「あなたは自分の全ての行いを人に隠して秘密にして行った。それゆえ私はあなたの行いを全世界の人々の前で公に宣言しよう。この世の人生の中では誰にも知られなかったかもしれない。しかし、その最後の日、全ての人々の隠れた思いまでもがあらわにされる日、大いなる審判の日に、私は私の手にある記録の書を開こう。その時あなたがしたことは全ての細部に至るまで、あなた自身がしたことを忘れているような小さなことまでも全てが明らかにされる。全世界の人々の前で、私はあなたの行いに対してふさわしい誉れと栄光とを与えよう。私はあなたの行いに対して公に報いを与える。その時私はこう言おう。よくやった、よい忠実なしもべだ。主人の喜びを共に喜んでくれ、と。」私たちは、その最終の目的から目をそらさないようにしよう。究極の目的を目指そう。自分自身が常に神様の臨在のもとにあり、全ての行いが神様の御前にあることを忘れないで、この人生でただ神様をお喜ばせするにはどうすればよいか、ということだけを考えよう。その働きが無駄になることは決してないのである。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。(ガラテヤ 6:7−10)

兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。                     (コリント第? 15:50−58)
下巻第2章 (1)

私たちは、山上の説教のこのような部分を読む時に、これはパリサイ人について書かれているものであり、彼らのあからさまな偽善的なふるまい、巧妙に自分自身を皆の前に宣伝しようとする行いが責められているのだと思いやすい。そして自分はこういうことはしない、と思ってしまうことがある。しかしここでイエス様がおっしゃっているのは、私たちに対する罪の深刻な影響、特に自己中心性とプライド、高ぶりについて指摘しておられるのであり、これはパリサイ人だけではなく、私たち全てに存在する問題なのである。その意味で、この部分は聖書の中でも最も私たちの心を鋭くえぐる部分であり、私たちの心の奥底の動機をはっきりとさし示していると言えるのである。

イエス様がここで指摘しておられるのは、罪の深刻さ、その恐るべき影響とあらわれである。私たちは、罪とは私たちが神様から離れた時にしてしまうことだと思いやすい。しかしここでイエス様がおっしゃっているのは、実に祈りという、私たちが神様のご臨在の中にある時ですら、私たちは罪の影響から逃れられず、自分でも意識しないうちに罪を犯しているのだ、ということなのである。罪というものを、実際に外に現れた行動だけに限局することほど間違った考え方はない。(パリサイ人の考え方はこうであった)聖書によれば、罪はまず何よりも私たちの性質がゆがめられてしまった、ということを意味する。神様に対する私たちの心のあり方がねじ曲げられ、ゆがめられてしまっているのである。そのあらわれは、自己崇拝、自己中心である。神様ではなく、自己を称揚し、自分を自分自身の神として礼拝し、高ぶらせていること、神様の栄光ではなく、自分の栄光をまず第一に求めていること、そしてそのような自己中心、自己崇拝の欲望を常に求めてやまない心の性質、ありようがまさしく罪の本質なのである。神様の御前に出て、その臨在の中で祈り、礼拝をささげているまさしくその時ですら、神様を礼拝しているようなふりをしつつ、実は自分自身をあがめ、自分自身を礼拝しているということほど、罪の醜悪なあらわれ、その深刻さ、重大さを私たちに突きつけるものはないのである。

罪というものは、私たち人間が生まれた時からすでにその存在、性質の一部として組み込まれてしまっているものである。私たちの存在の全ては、この罪によって汚染され、本来の人間としての性質がゆがめられてしまっているのである。人間にとって最も高貴な活動は祈ることではないだろうか。神様の御前にひざまづいているとき、人間はその存在の最も高い所に上っているとも言えるだろう。神様との交わりを持つことができるということ以上に人間にとって素晴らしい特権はない。しかし罪は人間の性質を、その最も深いところまでも浸食し、汚染しているために、私たちはこの祈りという、人間として最も高貴な行為の最中ですら、罪との戦いを余儀なくされるのである。実に罪とはそのように邪悪なものであり、おそるべき影響力を持っているものであると聖書は教えているのである。

私たちは罪というものを、人生のふきだまり、ゴミ溜めにしかないものであるかのように思いこみやすい。道端で酔いつぶれている酔っ払いや、刑務所の中にいる哀れな犯罪者たちを見て私たちはこう言う。「かわいそうな人たちだ。こういうものが罪なのだ」と。しかし罪の本質はそのようなものではない。罪がどのようなものか知りたければ、むしろ人が神様の御前でひざまづいているところを見るがよい。自らを低くしているように見えながら、そこでも思いはいつの間にか自分に関することになり、自分がいかに自分に対して満足できるだろうか、自分をいかにしたらもっと楽しませることができるだろうか、自分が祈っているこの姿を人はどう見てくれるだろうか、と考え始めるのである。その思いは、神様を礼拝しているのではなく、いつの間にか自分を礼拝していく。これが罪の本質なのである。罪は実に、私たちが神様の御前にある時にまで私たちにつきまとい、ついてくるものなのである。
私たちに対するこの恐るべき罪の影響力を考える時に、私たちは救いということに関して自分がいかに無力であるか、救いようがないほど罪深い存在であるかを思い知らされる。救われるためには、神様の一方的な恵みが絶対に必要であること、さらに罪の赦しとともに、新生、新しく霊的に生まれ変わり、新しい性質をいただくことが絶対的に必要であることを教えられるのである。なぜならば罪は私たちの生まれつきの性質にかかわるものであり、私たちの存在の奥底までも汚染してしまっているために、神様の臨在の中にある時でさえ、私たちにつきまとい、影響を及ぼしてくるものだからである。私たちが、死と墓を超えて、永遠の向こうにおいて神様と共にその栄光にあずかって永遠に生きる者となるためには、この霊的な新生こそ本質的な必要条件なのである。さらにイエス様はここで、この山上の説教を、新生したクリスチャンに対して語っておられることに注意しよう。新生して新しい性質と聖霊様を内にいただいたクリスチャンですら、十分に注意していないと祈りにおいてパリサイ人のような偽善に陥る危険性があるのであり、ここでイエス様はそのことを警告しておられるのである。

ここでも主は、祈りには間違った方法と正しい方法があると教えておられる。そしてここでその両方を取り扱っておられる。間違った祈りはまず第一に、祈りに対するアプローチの仕方に根本的な誤りがある。それは祈る対象である神様ではなく、祈っている自分を中心とするアプローチである。祈りの中でも、自分が一番重要な存在になってしまっているのである。「また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。」彼らは会堂においても、自分が祈る場所をまず気にしていた。最も自分が目立つにはどうすればよいか、と考え、一番前のちょうど正面の位置で祈ろうとしていたのである。イエス様は、ルカ18章に出てくるパリサイ人と取税人の祈りの対比においても同じことを言われている。そこではパリサイ人は堂々と一番前に進み出て、胸を張って天を見上げて祈っていた。一方取税人は遠く離れた場所で、顔を上に上げようともせず、胸を叩いて、「この罪人の私をあわれんでください」と祈っていた。パリサイ人にとって大事なのは、祈っている対象であるはずの神様ではなかった。神様と自分との関係ではなかった。大事なのは、周りの人から自分がどう見られているか、という周りの人と自分との関係であった。それゆえ自分がどのような場所で、どのような姿勢で祈っているかが大事であり、その祈りも神様に対するものではなく、人に聞かせるためのものであり、美辞麗句を並べたものであったのだ。四つ辻で祈ることも同じである。彼は自分がいかに熱心で、敬虔な思いに満ちあふれているかを周りの人たちに見せたいと思っていたのである。会堂に着くまで祈るのを待てない、今すぐにこの思いを祈りたい、という風に見せたかったのだ。そしてわざわざ人通りの多い四つ辻に立って、朗々と大声で目立つように祈ったのである。それゆえ主は、彼らについてこう言われている。「彼らはすでに自分たちの報いを受け取っているのです」と。

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