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私はクリスチャンコミュの山上の説教 上巻

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Lloyd Jones博士  Sermon on the Mount のノートから 

第29章

K.OSAWA

マタイ 5:43−48

5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。
天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。
取税人でも、同じことをしているではありませんか。

5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。
異邦人でも同じことをするではありませんか。

5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

クリスチャンの他人に対する態度は、相手がどのような人間であるか、また相手が自分に対して何をしているか、といったことによって絶対に左右されてはならない。

common grace   

神様は、ノンクリスチャンにもクリスチャンにも、悪人にもクリスチャンにも全く同様に恵みを与えてくださっている。全ての人は、まったく同じように神様の恩恵を受けている。

ノンクリスチャンの畑にも、クリスチャンの畑にも、同じように太陽は照り、雨が降る。ノンクリスチャンの農夫も、クリスチャンの農夫も、その努力に応じて全く同じように収穫にあずかる。

神様はなぜ、全ての人に対して、たとえ神様に敵対し、反抗し、憎んでいる人にまでも恵み深くあられるのか。
神様の人間に対する態度は、彼らがどのような人間であるかに左右されない。
彼らがどのようなことをしているかにも左右されない。
神様の人間に対する態度は、神様のご自身のご性質、すなわち愛に基づいている。
そしてその愛は、アガぺーの愛であり、全く自分の利益は求めず、ただ相手を生かし、たてあげるためにあらゆる犠牲を喜んで支払い、相手に自分の全てを喜んで与えていく愛である。
従って、神様の私たちに対するお取り扱いは、私たちがどのような人間であるか、私たちが何をしているかによらず、むしろ神様に敵対し、神様を憎んでいるにもかかわらず、神様は私たちに対して恵み深くあられるのである。

神様の愛は、完全なるアガぺーの愛、自己犠牲の愛である。
それは自らの内から湧き上がってくる愛であって、相手がどのような人間か、相手が自分にとって何をしてくれているか等によっては全く左右されない。
自分の外にある要因によっては全く変化しない愛である。
従ってそのあらわれは、恵みである。私たちはその愛に値するようなものでは全くなく、むしろその正反対で、汚れた罪人であり、憎むべき、裁かれるべき存在であるが、にもかかわらず神様の愛は私たちの上に降り注いでいる。
私たちの内には、神様の愛を呼び起こすようなよい性質は一つもなく、むしろ聖なる神様のご性質に逆らい、反抗するものであるが、にもかかわらず神様は私たちを愛してくださる。
それは私たちの内に何かその愛に値する何ものかがあるからではなく、ただ神様ご自身の愛のご性質によって愛は神様ご自身の内からあふれ出て私たち全ての人間に対して降り注いでいるのである。

他人が自分に対してすることを気にしないようになるためには、まず自分自身を気にしないようにしなければならない。
(自分に対して死ぬ)クリスチャンはこの世から取り出された存在である。
彼は世から距離をおき、その影響から離れて生きることが可能になっている。
クリスチャンはキリストにあって新しく造られた存在である。それゆえ、世の行動原理とは異なる考え方をし、異なる行動をすることができる。彼は世から取り出されたがゆえに、世とは距離をおき、より高いレベルの生き方が可能になっている。
周りの人たちが自分に対してどうふるまっているか、自分に対して何をしているかといったようなこととは無関係に、ただ自分自身の内にある新しい原理、新しいいのちによってのみ自分の行動を決定し実行することができるのである。

愛するとは、自分のことを全く忘れてただ相手のことのみを考えること。
相手をたてあげ、いきいきと生きることができるために何ができるかをいつも考え、そのために必要なものを自己犠牲を払って喜んで与えていくもの。

私たちの人生は、悲劇的なまでに他人が自分に対して何をしているか、自分に対して何を言っているかによって左右されている。
私が何か怒ったり、イライラしたり、悪い思いを持つのはどのような時なのか考えてみよう。
何がそのような悪い考えを持つようにさせたのか?誰か他の人である!
それだけ私たちは他人の言動によって支配されているのである。
 しかしイエス様は、そうであってはいけないとおっしゃっている。
あなたはそのような状態のままでいてはいけない。
あなたの愛は、他人があなたについて何を言い、あなたに対して何をしたとしても、それによって全く影響されないというところまで成長しなければならない。むしろあなたは、あなたの内に新しく与えられた原理、いのち、すなわちアガぺーの愛の原理によって支配され、動かされなさい、とイエス様は教えておられる。

私たちは周りの人たちに対して、神様がどのように彼らを見ておられるかを考えなければならない。
神様は上からこの世を見おろされ、あらゆる悪、罪、恥辱とを見られる。
しかし同時に神様は、何が人間に罪を犯させているのかも見ておられる。
それはサタンの活動である。
神様は彼らにとっての良きことを考えられるがゆえに、全ての人の上に太陽を照らさせ、雨を降らせていらっしゃる。
私たちも神様のような見方ができるようにと心がけよう。周りの人たちが自分に対してあれやこれやのことをしてくるときにこう考えよう。
なぜ彼らはこのようなことをしてしまうのだろうか。彼らはサタンに支配されている手先である。
罪の奴隷であって、自分ではそこから脱出することができないでいるのだ。
彼らはこの世の神とその霊力との支配下にある。彼らは、地獄の滅びへと運命づけられている束縛された罪人である。
無力な犠牲者である。彼らをその束縛から解放し、救い出すために私は何ができるのだろう?
それが、神様がこの世を見られる見方である。
神様は、ごう慢で罪深く、邪悪で汚れたこの世を見られる。
しかし、神様はその状態とその原因の奥深くを見られるがゆえに、世の人たちをあわれまれ、彼らを愛して救い出すために、ご自分のひとり子を世に送られたのである。
神様は罪人の回復と救出を願っておられる。私たちも神様と同じ思いを持たなければならない。

コメント(15)

なぜ私たちは、敵を愛し、迫害する者のために祈らなければならないのか。
ある人たちは、センチメンタルな考え方をする。こちらからまず優しく接してあげれば、向こうも態度を和らげてくれるのではないか、と。
しかしこれは理想論である。私たちは現実主義者でなければならない。
仮に私たちが敵に対して優しくしてあげたとしても、お返しに相手も優しくしてくれるという保証はどこにもない。

ある人たちは、私たちは周りの人たちを、その人たちが今ある状態ではなく、今後その人たちがそうなってくれるだろうと期待しながら接するべきである、と。これは心理学的な視点である。
教育現場においては、子どもたちを訓練したり、厳しく罰してはいけない、と教える。
子どもたちには大人に接するようにして接しなさい、そうすれば彼らは自分に期待されているように行動するようになるだろう。
刑務所では、犯罪者を犯罪者扱いしてはいけない。
罪を犯していない者のように尊厳をもって扱いなさい、そうすれば彼らも犯罪者として行動しなくなるだろう、と。
しかし、実際にはこうはならない。
私たちの扱い方によって、相手に心理学的な感化を及ぼし、変化させるということは、実際には起こらないのである。

敵を愛し、迫害する者のために祈るのは何のためなのか。
その理由はただ一つである。すなわち神様の愛を示すためである。
人間は罪の中に生まれ、不義の中で育つために、自分自身の力においては絶対に正しく生きることはできないし、また自分を正しく変化させることもできないのである。しかし神様は、素晴らしい福音を伝えることを通して次のように彼らに働きかけられる。彼らはクリスチャンを見てこう言うだろう

「なぜ彼はあのように違った行動をしているのだろう。
世の中の人は、みな自己中心に生き、人のために犠牲を喜んで払おうという人はいないのが当たり前なのに、あの人は違う。
なぜだろうか。」このように聞かれたときクリスチャンはこう答えることができる。
「私が今の私になったのは、全て神様の恵みによるのです。私もかつては同じように自己中心的な生き方をして、欲望だけによって生きていました。
はじめから今のようになっていたわけではないのです。
ただ神様が私にあることをしてくださって、愛することを教えてくださり、私を愛することができる者へと変えてくださったのです。
そして神様は私にしてくださったのとまったく同じことをあなたにもおできになるのです。
私は神様の愛を知ることによって変えられました。あなたも神様の愛を知れば、そのように変えられるのです。」
ではどのようにしたら私たちはまわりの人たちに神様の愛を示すことができるのだろうか。
まず第一に、苦々しいきつい言葉、不親切な攻撃的な言葉に対して優しい親切な言葉を返すことによってである。
相手から嫌なことを言われたとき、自分も同じように口ぎたなく反撃していたら、それは相手と同じレベルに立っているということを示している。
クリスチャンはあくまでも、世の人とは異なる行動原理、より高い基準すなわちアガぺーの愛によって行動するものでなければならない。
そのことによって私たちは自分が世に属する者ではなく、神様によって贖われ、世から救い出された者、別の領域へと移された者、神様の新しいいのちによって生かされている者であることをあかしすることになるのである。

第二に、とげのある行動、敵意に満ちた行動に対して善意に満ちた行動をすることによってである。
ノンクリスチャンの農夫は、神様に逆らい反抗しているかもしれない。
神様を憎み、呪っているかもしれない。
にもかかわらず神様は彼の畑の上にも太陽を照らせ、雨を降らせて下さっている。
反抗的な、敵対する行動に対して善意に満ちた行動をされているのである。私たちも神様と同じように行動しなければならない。

そして最後に、私たちが迫害され攻撃されている時に、その迫害している人のために祈ることである。私たちは神様の前にひざまづかなければならない。
私たちがする全ての行いは神様の御手のもとにありまた神様の御前にあることを覚えなければならない。私たちはこう言おう。
「この人はどうしてこのようなふるまいをするのだろうか。
私の内に何か間違った点はなかっただろうか?もしもないとすればどうしてだろうか?
それは彼らの中にある恐るべき罪の性質、罪の力のせいである。彼らは罪によってがんじがらめにされている。
その力によって彼らは一直線に滅びと永遠の地獄へと向かっているのだ。」
私たちはこのように考え、彼らの恐るべき運命を思い、彼らを本当にあわれに思えるまでになる必要がある。
彼らをかわいそうに感じ、攻撃された自分のことをあわれんで自分のことにばかり目を向けるのではなく、攻撃している人の状態を思ってその人をあわれみ、その人に対して心からの関心を寄せるようにしなければならない。
相手のことを一心に考え、相手が永遠の滅び、恐るべき裁きから救われるためには何をしてあげなければならないかと、一生懸命に考えていく時、私たちはもう自分のことは考えなくなっていく。
実にイエス様が、恐るべき十字架にかかられたのも、ご自分のことを考えることなく、ただ私たち罪人を救うこと、私たちを待っている恐るべき裁き、神様の怒りから私たちを救いだして、私たちが神様のいのちによって永遠に喜ぶ者となることのみを考えておられたからこそイエス様は十字架にかかられたのである。
自分のことを少しでも考えているならば、十字架につくことはできないのである。
あなたは彼らのために祈っているだろうか。
あなたのことを迫害し、軽蔑し、敵視している人たちに対して。あなたは彼らをあわれんでくださいと神様に頼んでいるだろうか。
彼らが永遠の裁きを受けるのではなく、手遅れになる前に悔いあらためて救われるようにと祈っているだろうか。
彼らのためにこのような心からの関心を抱いているだろうか。
実にイエス様はその模範を示されたのである。十字架の上で、まさしくご自分を憎み、迫害し、敵視して十字架につけたユダヤ人たちに対して、「父よ、彼らをお赦しください。
彼らは自分で何をしているかわからないでいるのです。」と祈られた。
その主のお姿に、ステパノはならったのである。彼はユダヤ人たちから石を投げつけられて殺される時に、「この罪を彼らに負わせないでください。」と祈ったのであった。
教会の長い歴史の中で歴代の聖徒たちもまたそのように迫害されても、迫害する者たちを赦し、彼らのために祈ることによって神様の愛を示しつづけてきたのである。私たちもそれらの聖徒たちにならう者となろうではないか。

私たちは、好きという感情と愛するという行為との区別をはっきりさせておかなければならない。
私たちは、全ての人を愛しなさい、と命じられているが、全ての人を好きになりなさい、とは命令されていない。それは不可能だからである。
好きであるという感情は、その人の性質や気質、その時の状況など多くの要素に左右されるものであり、誰に対して好意を持っているか、ということは大きな問題ではない。
大事なことはたとえ私たちが好意を持ってない人、むしろその正反対な人であってもその人のために祈ることである。愛するということは感情ではなく、私たちの意志に基づく行為であり選択であるからである。
自分が全然好意を持っていない人のために祈るということに違和感があるかもしれない。
全然好意など感じていない、むしろ嫌悪感が先に立っているのに祈れ、というのですかと言われるかもしれない。そのとおりである。
愛することは感情ではない。それは実際的な行動のことであって、その人の感情とは第一義的には無関係なことである。
もちろんそうして愛そうとしていくことで、結果として好きになっていくということはあるかもしれない。
しかしそうであってもなくても、私たちは自分の感情には左右されず、ただ愛するようにと命令されているのである。
イエス様は敵を愛しなさい、とおっしゃったのであり、敵を好きになりなさい、とおっしゃったのではない。
あなたはよきサマリヤ人のたとえを覚えているだろう。
ユダヤ人とサマリヤ人は歴史的に、伝統的に互いにいがみあってきた。
ユダヤ人はサマリヤ人を馬鹿にし、のけものにしていたし、サマリヤ人はユダヤ人を敵視し、逆に軽蔑していたのである。
両者は、ふだんは互いに口もきかない間柄だったのである。
しかし、エルサレムからエリコへ下っていく途中で旅人が強盗に襲われたとき、ユダヤ人の祭司、レビ人は避けて通って行ったが、敵であるはずのサマリヤ人は旅人をかわいそうに思い、その人を助け、傷の手当をし、介抱して宿屋まで連れて行ったのである。
これが隣人を愛するということであり、敵を愛するということである。
隣人とは誰だろうか?誰であっても苦しみ悩み、助けを必要としている人は全て私の隣人である。
いまだに罪の束縛の中にあり、罪の海の中におぼれ、苦しみ悩み絶望している人は、たとえそれがユダヤ人であっても、サマリヤ人であっても私の隣人である。私は彼を助けなければならない。

敵を愛することなど私には無理だ、できないと言われるかもしれない。
しかしクリスチャンには、聖霊様がいらっしゃっている。聖霊様が私たちの内にいてくださって、私たちの愛、平和、喜び、いのちとなってくださっている。
だから、もし私たちが聖霊様の導きに従うことをせず、愛そうとしないならば、せっかく聖霊様を私たちのためにお送りくださった主の恵みをむだにすることになってしまう。
こう言っても、私はみなさんを責めようと思っているのではない。
愛することができない私はクリスチャンとして失格なのではないか、そもそもクリスチャンではないのではないか、と言って自分を責めてほしくはない。
私たちはみな失敗する者である。
私も失敗するし、あなたも失敗する。
しかし、もし私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいお方ですから、その罪を赦し、全ての不義からあなたをきよめてくださいます、とある。
ただ私たちはこの主の恵みにさらに心を砕かれて、自分自身がまだ主イエス様に近づいていない、似ていないことを悲しみ、本来あるべき姿にまだ到達していないことを思って、熱心に神様に願い、自分を変えていただくことを求めていく者となっていきたい。

それでこそ天におられるあなたがたの父の子となれるのです。
第30章(1)

山上の説教においてイエス様が教えたいと願っておられること。
クリスチャンとはどのような存在であるのか。
すなわち、クリスチャンは救われたとき、神様によってどのような存在へと変えられているのか。
そしてその新しく変えられたクリスチャンは、新しい存在、神様のいのちをいただいた者としてどのようにして生きるべきであるのかを、イエス様はこの山上の説教で教えておられる。
すなわちそれは、あなたがたの父が完全であられるように、あなたがたも完全でありなさい、ということであり、それこそクリスチャンが目指すべき生き方のクオリティであり、基準である。
従って、山上の説教を何か道徳的な教えの集大成であるかのように、あるいは倫理的な行動規範をずらっと並べただけのものであるかのように考えることほど愚かで、この説教の本質を理解していないことはない。
実は山上の説教のこの部分において、福音のparadoxicalな面がはっきりあらわれている。
用語が悪いかもしれないが、福音の中には互いに相矛盾するように見える要素がある。
その互いに相反する要素は実は新約聖書全体を通して流れていることに気づく。

たとえばルカ2章のシメオンの言葉である。
2:34 また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。
「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
2:35 剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。
それは多くの人の心の思いが現われるためです。」

福音において相反する二つの要素があることがわかるであろう。
福音は、倒し、また立て上げるものである。福音はまず人を打ち倒す。
絶望させる。
自分自身は神様の求めておられる基準からはるかに遠く離れており、完全な罪の奴隷であって、何ひとつよいことができず、また罪の性質に束縛されているため神様の律法に対しても反発するのみであることに気づかされ、人は自分がただ地獄行きのみがふさわしい、滅びるしかない存在であることを示されて打ち倒される。
醜いエゴの塊であって、自己中心的な欲望の奴隷となった生き方しかできないことを思い知らされる。
しかし、福音はそこから立ち上がる力をも与える。
自分の力では到底到達不可能な高みに立ちなさいと命令する。
それは今やあなたにとって可能になっている。
イエスキリストの十字架における救いのみわざによってあなたの罪は赦された。あなたと神様との間の障壁は取り除かれた。今やあなたはキリストイエスにあって、神に対して生きている。
聖霊様があなたの体を宮として住んでいてくださり、あなたの内には新しいいのちが与えられている。
すなわち神様ご自身のいのちであり、愛である。
だからもしあなたが完全に自分自身を明け渡し、徹底的に自分を捨てて、聖霊様の導きに従順に従い、完全に信頼してイエス様に全てをゆだねるならば、かつてのあなたにはできなかったこと、できるなどとは夢にも思っていなかった神様の高い基準に従って生きる、つまりアガぺーの愛の原理に従い、自己犠牲の愛を持って生きるという人間としての本来の生き方、最高の喜びに満たされた生活がこの世においても可能になってくるのである、と福音は教えるのである。
この山上の説教自身が、福音の相反する要素をあらわしているとは言えないだろうか。
ある意味においては、山上の説教ほど私たちを打ちのめし、失望させるものはないと言えるだろう。
5章17節以降、イエス様は具体的に私たちの日々のクリスチャン生活がいかにあるべきかを教えておられる。
旧約のモーセの十戒ですら私たちにとっては極めて困難なものに思える。
しかしここでのイエス様の教えはどうだろうか。
情欲をもって見るだけでもダメである、とか下着だけではなく上着も与えなさい、とか1マイルでなく2マイル自らすすんで行きなさいとか、これ以上私たちの思いをくじく教えはないのではないだろうか。
実行しようとする前からもう無理だとあきらめてしまう。完全に不可能であるように思える。
ところが一方において山上の説教ほど人を勇気づけるものはない、とも言えるのである。
これは私たちに対する最大限の賛辞であるとも言える。
このように命令されているということは、主は私たちにはこれが実行可能であるとみておられるということなのである。
主は私たちにこのような生き方が実際に可能であると考えておられるからこそ、私たちに教えておられるのである。
このような高い水準で生きることができるのだ、できるために私たちはクリスチャンとして選ばれ、召されたのだと考える以上に私たちを奮い立たせることはない。
そして神様が私たちに望んでおられる生き方、神様が私たちにさせようとご計画されている生き方がこのような至高の生き方であることを知る時、私たちは自分たちに与えられた任務の崇高さを知るのである。

山上の説教を機械的に解釈することがなぜ愚かで間違ったことなのか。
そのように解釈する人たちは、山上の説教の持つこの相反する二つの面についてはっきりと理解していないのである。
まず第一に、山上の説教の命令の基準を勝手に引き下げている人たちがいる。それらの人たちは、山上の説教を道徳的な行動規範であり、全ての人が守るべき倫理的実際的な戒律集であると解釈する。
クリスチャンもノンクリスチャンも関係なく、この道徳的行動規範を皆が守るようになれば世界は平和になるのだから、みんなで実行しよう、といった考え方をする。このような人たちに対する答えはこれである。
この山上の説教で要求されていることは、天の父なる神様と同様に完全であれ、ということである。
神様が敵をも愛しておられるように、あなたも敵を愛しなさい、そのようにして神様の完全さにならいなさい、と教えているのである。
しかしこのような人たちは、自分勝手にこの教えの一部だけをとって解釈し、たとえば誰かから攻撃を受けても我慢していなさい、とか暴力的な行為でやりかえすことはやめましょう、というように解釈する。
この教えが、無条件で、どんな時にも敵に対して最善をはかり、彼らに良いことをしなさいと教えていることを信じないで、その一部だけ、自分たちでも実行できる部分だけを取り出して、こうすればよい、こうすればできるのだと考えている。この山上の説教が命令していることの要求水準の高さ、完全さ、厳然たる厳しさを全く理解していないのである。
また別の人たちは、山上の説教の持つもう一面を見落としている。
クリスチャンは神の子としていただいたのだ、というクリスチャンの特別な選ばれた立場というものを全く理解していない。
彼らにとってクリスチャンとは、ただ一般の人よりも熱心に道徳的であろうと努力して常に自分自身を訓練している人のことに他ならない。
人間的な努力によって、より良い人間となることを目指している人のことだと思っている。しかしクリスチャンはこの世において全く異質の存在なのである。
クリスチャンは生まれつきのままの人ではない。
神様の聖霊によって霊的に新しく生まれた人であり、実に神様によって新しく創造された存在なのである。
クリスチャンの体は神の聖霊が住まわれる神殿であり、彼の内には神様のいのちが宿っている。
彼の内側は全く変えられ、新しい行動原理、すなわち神様のアガペーの愛が植え込まれているのである。
その意味でクリスチャンは世から選ばれ、取り出された特別な存在であり、世の人が決して考えないような仕方で考え、行動する者なのである。だから世の人にとってクリスチャンは一個の謎であり、理解を超えた存在であるはずなのである。
世の人たちの自己中心の原理、自らの欲望のためにのみ生き、自分の栄光だけをどこまでも追求していく生き方とは全く異なった行動原理によって生きている人たちなのである。
そこには絶対的な変化、根本的な相違がある。
クリスチャンは内側に神様の聖霊をいただいている存在であり、このアガペーの愛によって真に生きていくことが可能なものとされており、かつそのような生き方をするべく神様によって召されている。この世の人たちに神様のアガペーの愛を示す、という使命を与えられているのである。

このことは根本的な問題である。
イエスキリストの十字架のみわざによる救いについて理解できない人たちは、このことを理解することに困難を覚えているのである。
彼らはクリスチャンがどのような存在であるのか、ということを決して理解していないのである。
山上の説教のこの部分において、クリスチャンとはどのような存在であるのかがよく示されている。
福音の相反する二面性が明らかにされているのである。
47節ではこう書かれている。
また自分の兄弟だけにあいさつをしたからといって、
どれだけまさったことをしたのでしょう。
異邦人ですら同じことをしているではありませんか。
モファット博士はこの部分を次のように訳している。
自分の兄弟だけにあいさつしたからといって、
そのことに何らかの特別さがあるでしょうか。
私たちの主は、ここだけではなく、20節でも同じことをおっしゃっておられる。
あなたがたの義がパリサイ人や律法学者たちの義にまさるものでない限り・・・パリサイ人や律法学者たちは確かに自分たちなりの高い道徳基準をもっており、またある意味でそれをちゃんと実行していた。
しかしイエス様が教えておられる義は、彼らの義、
つまり単なる道徳的な義務を果たす、という意味での義をはるかに超えるものなのである。
そこには特別なものがある。
道徳ではなく、愛である。
道徳はある種の義務を果たせばそれでよい、これこれのことをなし、
これこれのことを避けていればそれでよい、と教える。
愛は違う。愛は自分自身を投げ出して相手を生かし建て上げるために
自分の全てを喜んで犠牲にするのである。
それは道徳が要求するものをはるかに超える。
義務的にしなければならないと考えられていることをはるかに超えたことを、
義務だからといっていやいやながらするのではなく、
むしろ自ら進んで喜んで相手の重荷を共に負っていこうとするのである。
私たちは今学んだこの偉大な原則をさらにいくつかの原則に分けて学んでいこう。
クリスチャンは本質的にユニークな存在であり、特別な種類の人間である。
生まれつきの人間の理解力では、クリスチャンについて正しく理解することができない。
クリスチャンは、世の人にとっては理解のできない一個の謎である。
人間的な考え方だけでは、どうしても理解できず、説明もできず、とらえがたいものが常にクリスチャンには存在する。クリスチャンは完全に世からは分離した特別な存在なのである。

クリスチャンが特別でユニークな存在であるという時、それには二つの面がある。
自分を愛してくれる人を愛したからといって何のまさったことをしたのでしょう。
そのようなことは取税人でもするではありませんか、と書かれている。
クリスチャンは世の中の人たちがしているのと同じこともするであろう。
しかしクリスチャンは異なっている。
クリスチャンはそれ以上のことを行うのである。
1マイル行け、と命令された時、どんな人でも(いやいやながらではあっても)1マイルは行くであろう。
しかしクリスチャンは喜んで2マイル行くのである。
クリスチャンの行動は、世の人の考えを超えている。
異なっている。彼は世の光であって、神様の真理と愛を世に示すためにそのように生きる使命を神様から与えられたのである。

クリスチャンは、世の人たちがしていることももちろん行うが、それ以上のことをする。
すなわち彼らがしていないこともする、ということを述べた。
しかしここであえてそれ以上のことを述べたいと思う。ここでイエス様は、クリスチャンは世の人がする以上のことをする、とだけおっしゃっているのではない。
実に、世の人ができないことをする、とおっしゃっているのである。
世の中には確かに道徳的に優れた人たちがたくさんいる。
クリスチャンではないが、正しい生活を送り、他人にも親切で優しく、正直で公平で真面目な人たちがたくさんいる。それは事実である。
しかしそれでもなお彼らはクリスチャンではない。イエスキリストを信じていないし、そのことを公言してもいる。
また聖書自身も全く信じていない。ここでイエス様がおっしゃっているのは、クリスチャンは、この世の中におけるこのような最も道徳的に高いレベルにある最善の人たちすら絶対にできないような、考えることもしないようなことを行う、とおっしゃっているのである。すなわち、道徳をはるかに超えた基準であるアガペーの愛、自己犠牲の愛によって生きるのだとおっしゃっているのである。
世の中で最善と思われている人たち、最高のレベルにあると思われる人たちが絶対にできないし、また考えることもできないようなことがここに示されている。すなわち、自分の敵を愛するということ。自分を憎み、迫害し、攻撃してくる相手を愛して、その相手の最善をはかること、その人のために熱心に祈ることである。

クリスチャンがユニークで特別な存在である、と言った時の第二のポイントは、クリスチャンは神様ご自身の性質をあらわし、イエス様に似た者となる、ということである。
クリスチャンはこの世の中において神様ご自身のご性質をあらわすために選ばれているのである。
イエス様がこの地上において生きておられたのと全く同じように生きること、すなわち父なる神さまのみこころに従い、父なる神様を世にあらわすために生きるのである。
その意味で私たちは、ただ単に世の人とは異なる生き方をする、というだけではない。イエス様に似た者となるのである。

クリスチャンの行動はなぜ世の人たちと全く異なるものになっているのだろうか。
言い換えればあなたは自分がクリスチャンであるとどうしてわかるのだろうか。

それはあなたとイエスキリストとが特別な関係にあるかどうかである。例えばマハトマガンジーを考えてみよう。疑いもなく彼は神を信じていた。
また非常に高潔で道徳的にも高いレベルにある人であった。
しかし彼はイエスキリストを信じておらず、そのことを公言していた。
あなたがクリスチャンであり特別な存在であるということは、イエス様との関係において言えることなのである。

【大沢による注】
クリスチャンがイエス様と特別な関係にあるとはどういうことであるのかをここで考えてみよう。
新約時代のクリスチャンは、律法のもとにあるのではなく、恵みのもとにある。

モーセの律法すなわち十戒は基本的には私たちに行いを要求するものであった。

それは罪深い性質を持って生まれてきた私たち罪人をさばき、罪に定めるために与えられたものであった。
罪人にはとうてい実行不可能な行為を要求することによって、律法は私たちを断罪し、私たちは自分自身が罪人であることを徹底的に思い知らされた。
義人はいない、一人もいない、と書かれている。
自分自身の生まれながらの力で律法を完全に行える人間は誰一人としていない。
しかし今やクリスチャンは恵みのもとにあるのである。
イエス様が私たちに代わって律法の要求を完全に実現してくださった。
人としてこの世に来られ、完全に神様のみこころを実行され、律法が要求する義を完全に達成してくださった。
それだけではなく、私たちに代わって律法の要求する罪に対するさばき、すなわち十字架における死を引き受けてくださった。
このイエス様の救いのみわざ、十字架と復活における完全なるみわざを私たちが信仰を持って受け取り、受け入れるとき、私たちは救われる。
すなわち自分が行った義のわざによってではなく、ただ恵みによって、自分に代わってイエス様が行ってくださった救いのみわざに信仰をもって信頼して自分自身を全くゆだねる時、私たちはイエス様の義にあずかり、霊においてイエス様と結び付けられて一体化し、新しく創造されるのである。
神の聖霊の働きにより霊において新しく生まれるのである。
では、そのようにして救われた私たちは、もはや律法とは無関係に生きていってよいのか。
そうではない。律法の要求は全く変わらずに存在しているのである。
しかし、私たちはもはや律法を義務として、自分自身の力で行うように要求されている重荷、束縛として考えてはいけない。
私たちは救われた時、自分自身の行いとは全く無関係に、ただ恵みによってのみ救われた。
それは私たちの力や努力、功績によるのではない。
それと全く同じように、クリスチャン生活を送る時も、私たちの力や努力、功績によってクリスチャンとしての生き方をするのではない。
もしそうしようとすると、それは全く不可能なことであることが分かり、失望するであろう。
そうではなく、恵みによってイエス様が私たちに代わって、私たちを通して働いて下さるその働きに信仰をもって信頼していくことが必要なのである。
Dwight Edwardsは次のような例をあげている。
ある時彼が、小さな男の子にテニスを教えることになった。
そこでラケットの持ち方やボールの打ち方を一通り教えて練習してから、実際にコートで、ボールを投げて打ち返してもらったが、男の子はテニスをするのが初めてだったのでなかなかうまくいかなかった。
それでやむなく彼は、男の子の後ろに自分がぴったりとついて、彼の両手を後ろから自分の両手で握り、ボールが来た時に、自分が打ち返すようにして彼の手を引いてそのまま動かすようにしたところ、男の子はうまく打てるようになった。

ところがしばらくそのようにして練習していると、男の子はそれなりに慣れてきて、自分でもボールを打ちたいと思うようになった。
それまでは全身の力を抜いて、Edwards先生が動かすがままにそれにあわせて自分の体をゆだねていたが、自分でもボールが打てると考えて、自分で勝手に体を動かそうとしだしたのである。そうするとEdwards先生の動きと彼の動きがバラバラになってしまい、とたんにボールをうまく打ち返せなくなってしまったのである。
私たちとイエス様との関係もそれと同じである。
私たちは霊においてイエス様と一体化している。
イエス様はぶどうの木であり、私たちはその木につながった枝なのである。
イエス様は私たちの内に住んでいて下さっている。
だから私たちが自分自身を完全にイエス様に明け渡して、イエス様に完全に信頼して自分自身をゆだね、全てにおいてイエス様の導きに従い、イエス様の教えに従って、イエス様が望まれるままに従順に従っていくならば、そこにおいてイエス様は私たちに力を与えられて、ご自分のみこころのままに私たちを用いることがおできになるのである。
逆にもし私たちが、自分の人間的な肉の思いに従い、自分の肉の力で勝手にあれこれしようと努力したりするならば、それはかえってイエス様が私たちを通して働かれることの妨げになるのであり、私たちは自分自身を徹底的に捨てて、自分自身の意志や願望、欲望に対して死んで、ひたすらにイエス様のみこころを行うことのみを考えて日々聖霊様に導かれて聖霊によって歩むことが必要なのである。
                                【大沢による注 終わり】

クリスチャンは新しく創造された存在であるがゆえに、生まれつきの人とは違った行動をとる。
彼は霊的に新しく生まれたのであり、彼の内には神様のいのちが宿り、神様のご性質にあずかる者となっている。
(第2ペテロ1:4)
まず第一にクリスチャンは、その考え方が世の人とは完全に異なっている。
例えば道徳や律法についての考え方を見てみよう。
生まれつきの人は、法律は守ろうとするだろう。
しかし法律を守ること以上のことをあえてしようとは思わないだろう。
クリスチャンは律法の文字にとらわれるのではなく、その霊的な意味を第一に考える。
言い換えれば、世の人はぶつぶつ言いながら、いやいやながら律法に従おうとするが、クリスチャンは内なる人としては神様の律法を喜んでいるのであり、喜んで自発的に神様の律法に従いたいという思いが与えられているのである。
また道徳に関する考え方を見てみよう。
生まれつきの人は一般的に道徳をネガティブにとらえている。
すなわちあれやこれやのことをしないようにすることだと考えている。
たとえば、嘘をつかない、不正直な取引をしない、人の悪口を言わない、不品行なことをしない、不公平をしない、人をわけ隔てしない、などである。
しかしクリスチャンは道徳を常にポジティブにとらえている。
すなわちクリスチャンは、ただあれやこれやの行為をしないように注意しているだけではなく、むしろ神様ご自身の義を積極的に求め、義に飢え渇いて、イエス様に似た者となることを熱心に求めているのである。

生まれつきの人は、実際外側にあらわれた行為についてのみ罪と考えている。
しかしクリスチャンはその人の心のありようをも含めて罪を考えている。
実際イエス様がこの山上の説教で強調されているのもその点である。姦淫する、といった場合、生まれつきの人は実際の肉体における行為についてのみ問題にする。
そこに実際の行為があったかどうかだけが問題だと考える。
しかしイエス様はあなたの心はどうなのか、と問いかけられている。
心において自分の欲望をほしいままにしてはいなかったか、と問われている。
クリスチャンも同じように考えるのである。

自分自身に対する見方を考えてみよう。
生まれつきの人は、自分は確かに完全ではない、ということは認めるかもしれない。
それは当り前だ、誰だって完全な聖人のようになれるわけがない、自分の性質の中にも確かにいくつかの欠点はある。そのことは認めるかもしれない。
しかし彼は決して自分自身の存在全てが悪い、間違っているとは認めないだろう。
彼は決して心の貧しい人ではなく、自分自身の罪深さを嘆き悲しんだりすることはない。
自分自身が神様に対して罪を犯してきており、生まれつきの罪人であって、全てが汚れた罪深い性質に染まっており、自分の欲望の奴隷であって、ただ地獄行きのみがふさわしい、裁かれるべき、神の怒りを受けるべき存在であるなどとは決して認めようとしない。
むしろそのようなことを言われたとしたら、彼はそれを自分自身に対する非常な侮辱であると感じ、攻撃されたかのように思うだろう。
そしてあれやこれやと自己弁護したり否認したりするだろう。
自分の罪を認めて悔い改め、もしイエス様の十字架の贖いがなかったとしたら、キリストの尊い血潮が流されなかったとしたら、私は決してきよい神様の御前には立てなかった、というようなことは決して言わないに違いない。彼は自分ではそれなりに良い人間であると思っており、正しい生き方をしようと心がけているつもりだからである。

また他者に対する両者の態度を考えてみよう。
生まれつきの人は、自分と合わない人間に対しては我慢するしかないと考えている。
他人にイライラさせられることもあるが、できるだけ我慢して寛容な態度を取ろうと考えている。あまり厳しすぎる態度はとらないようにしようとしている。しかしクリスチャンはそのような態度を超えた考え方をする。
彼は周りの人たちを罪の奴隷となっており、この世の神サタンに支配されていると考える。自分の欲望に振り回されている人たちであり、助けを必要としている人たちであると考えている。
生まれつきの人は、神様について、掟を強制してくる存在であると考えている。

従わなければ罰を受ける、と考えて恐れているか、もしくは反発して憎しみや嫌悪感を持っている。
一方クリスチャンにとって神様は天の父なる神様となっている。
クリスチャンにとって神様の律法は重荷とはならない。
確かに神様は聖なる正しいお方であって、畏敬の念をもたなければならないが、同時に神様は愛なるお方でいらっしゃることを知っている。
イエスキリストのみわざによって、クリスチャンは神様と新しい関係を持つものとされたのであり、クリスチャンは心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして神様を愛していこうとするのである。

良いわざについての考え方も異なっている。
生まれつきの人は何か人にしてあげた時、かならずそのことを心にとめ記録しておく。もちろんそれをいつも意識して行っているとまでは言わない。
ただ、意識しているにせよ意識していないにせよ、生まれつきの人は自分がすることに対しては必ずお返し、見返りが当然あるべきだと考えている。
だからその見返りが思ったように来ないと憤る。彼は、右手でしていることをちゃんと同時に左手で記録している。
クリスチャンは犠牲を払うことをいとわない。
右手がしていることを左手にも知らせない。見返りを期待しないで与えることができる。
相手ではなく、神様をお喜ばせするにはどうすればよいかを考えているからである。

人生にはつきものの試練や苦難、たとえば病気や事故、戦争や飢餓、貧困等に対する考え方について見てみよう。
生まれつきの人がこういった試練や苦難を見るときの考え方は基本的にネガティブである。
すなわち彼はとにかく耐えようと考える。
仕方がないとあきらめ、せめて取り乱さず雄々しく耐えていよう、と考える。不平は漏らさないように我慢しよう、歯を食いしばろうと考える。
しかしクリスチャンは試練や苦難の中にあっても喜ぶことができる。人生の試練や苦難には何らかの意味がある、神様はクリスチャンを信仰的霊的に成長させ、完全な者とするために試練をも用いられると信じることができる。
神様は全てのことを相働かせて益として下さるお方であると信じている。

周りの人たちから不当な扱いを受けたり理由なく攻撃を受けたりした場合はどうだろうか。
生まれつきの人は、やはり耐えることをまず第一に考える。
やり返したり復讐を考えるのではなく、自分の威厳を保たなければならないと考える。
自分を攻撃してくる人に対しては無視するか、皮肉ったりする。
しかしクリスチャンは、日々自分の十字架を負い、自分を捨ててキリストに従うようにと命令されている。
私に従おうとする者は必ず迫害を受けます、とイエス様はおっしゃった。
しかしそのように迫害された時どのように対応すべきかも教えられた。
右の頬を叩かれたら左の頬も出しなさい、下着を取ろうとする者には上着をも与えなさい、1マイル行けと言われたら2マイル行きなさい、と教えられている。

そしてこれらのことをつぶやきながらではなく、喜んで自分からしなさい、とも言われている。
この意味でクリスチャンは生まれつきの人とは全く異なる存在とされていることがわかるであろう。
また自分の敵に対する態度について言えば、生まれつきの人は敵に対して何とか我慢して軽々しく攻撃したりしないように努めることはできるだろう。
いわゆる平和主義者の人は、一切暴力をふるわずに無抵抗で我慢することを主張している。
しかし彼らであっても、敵を愛するということは考えもしない。
攻撃しないようにと無理に作り笑いを浮かべていることはあっても、腹の中は煮えくりかえっているということがあるだろう。
敵を愛し、敵のためによいことをはかり、迫害する者が救われるように祈るということは絶対にできないはずである。
敵を愛する、ということはただ単に攻撃しない、暴力をふるわない、ということではない。
それはポジティブなことであって、その敵に対しても良いことをはかり、彼が救われるように祈る、ということを意味するのである。

そして最後に死についての考え方を見てみよう。
生まれつきの人は、威厳を保ったまま死にたい、と考えているだろう。
見苦しい姿はさらさずに、不平をもらさず、ただ淡々と平静に死を迎えたいと望んでいるだろう。
死というものは人間の運命であるからあきらめて受け入れるしかないのだ、と考えている。
しかし、クリスチャンは違う。
クリスチャンは死に面しても、パウロと同じように言うことができるのである。

「私にとって、生きることはキリスト、死ぬこともまた益」「私はこの世を去ってキリストと共にいることの方がはるかに望ましい」クリスチャンは死ぬ時には、彼の本当の故郷、永遠の神様の臨在の元へと帰るのである。
クリスチャンは死に対して勝利をおさめ、栄光を待ち望んで凱旋することができるのである。
もはや死は恐怖ではなくなっている。

何がクリスチャンをそのような特別な存在にしたのだろうか。
クリスチャンはなぜ生まれつきの人がすることをはるかに超えたことをすることができるようにされたのだろうか。
それは罪に対する見方が完全に変わったからである。
彼は自分自身が救いようのない罪人であることを知っている。
神様の御前において、自分は罪の性質に全身汚染された醜く汚れきった存在であり、かつ霊的に死んでいて無力であり、自分の力では何一つよいことはできない、自らの肉の内にはよきものが何一つないことを知っている。自分は本来神様に愛されるどころか、神様の正当な怒りを受けて裁かれ、地獄へ行くことのみがふさわしい罪人であることを知っている。
しかし、にもかかわらず神様は恵みによってクリスチャンを救ってくださった。

神様のひとり子イエスキリストをこの世に送ってくださり、それだけではなく、実に十字架の死において、私たちの罪を贖い、このように邪悪で反抗的な罪人を救ってくださった。
クリスチャンはこのことが真実であると知っている。
そのことがクリスチャンの神様と隣人に対する見方を完全に変えたのである。
クリスチャンは自分がそれを受けるに全く値しない罪の赦しをいただいた。
もしそのことを本当に理解したならば、敵を赦さないわけにはいかなくなるであろう。

そしてクリスチャンはこの世における人生に対する見方も完全に変えられている。
クリスチャンはこの世では旅人であり、寄留者である。
この世は、永遠の世界に入る前の準備段階にすぎず、クリスチャンにとっての本当の人生は神様の臨在の中で、その栄光にあずかって永遠に続くものなのである。
この世のあらゆる試練や困難を通して、クリスチャンはその品性が磨かれ、信仰が強められて、イエス様に似た者へと変えられることを喜んでいる。
それはその日、イエス様と顔と顔を合わせることができ、イエス様の栄光を拝することができる日を待ち望んでいるからである。
その日、イエス様の目をまっすぐに見つめて、主よ、私は世にあってあなたと同じように、私を憎む者を愛し、迫害する者のために祈ってきました、と言える者は幸いである。
しかし、世にあって、この世の人と同じように、イエス様の恵みを全く知らない者のように、敵を憎み、迫害する者に対して復讐することだけを考えていたとしたら、イエス様の御前でそのことを思い出したいと思うだろうか。
クリスチャンはそのことを知っているのである。それゆえ彼は、敵を愛し迫害する者のために祈ろうとするのである。
クリスチャンとはどのような存在なのだろうか。
山上の説教をただ読んで、ああ私はこのように生きなければならない、ここに私が生きるべき生き方が示されている。
私はイエス様の生き方にならおう。
そのためには一生懸命努力してこういう生き方をしていかなければならない、といったようなことを考える人ではない。
決してそうではない。クリスチャンは神の子となったのであり、神様との間に特別な関係を持つようになった存在なのである。
その意味で彼は特別なのである。
あなたがたの神様が完全であるようにあなたがたも完全でありなさい、とは書いていない。
あなたがたの天の父が完全であるようにあなたがたも完全でありなさい、と書かれている。
あなたは神から生まれたのであり、その生まれ、血統が大事なのである。高貴な貴族の家に生まれた人は、その家柄にふさわしく生きるようにと教えられないだろうか。特別な家柄の家系に生まれた人は、特別な人となることが期待されている。
クリスチャンは神の子なのだから、そのようにして生きるべきであるし、またそのように生きることができる者とされているのである。

さらに私たちの内に与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの内に注がれている、と書かれている。
(ローマ5:5)
そのような神の愛を知らない人が、この山上の説教が教える生き方をすることは不可能である。
初めて山上の説教を読むとき、あなたは失望し、勇気をくじかれるだろう。
そして落ち込むかもしれない。
しかしそのあとであなたは、自分が天の父なる神様の子とされていることを思い出すのである。
あなたはこの地上において一人で放り出されているのではなく、イエス様があなたの内に来て下さって、そこに住んでいて下さるのである。
あなたはぶどうの木の枝である。必要な一切の力、愛、いのちはぶどうの木から流れてくる。
あなたはただ地上においてその実を結ぶだけでよく、そのためにあなたは召されたのである。

最後に、あなたに対して、大事な質問をさせていただきたい。
あなたは特別な存在とされているだろうか。
あなたの生き方の中に、何か世の人とは異なる特別なものが見られるだろうか。

私はここで、あなたがいつも聖書を読んだり祈ったりしているか、毎週教会の礼拝に出席しているか、ということを聞いているのではない。
そのようなことをしていても真のクリスチャンではない人もいるのである。
あなたはほかの人たちよりどれほどまさったことをしているだろう?
あなたの生き方の中に何か特別なものが見られるだろうか?私たちは子どもを見るときに、次のように言う。ああ、この子はあまりお父さんには似ていない。
でもよく見ると確かにお父さんの面影がある、と。
そのように周りの人たちがあなたを見るとき、そんなにはっきりとではないにせよ、かすかながらでも父の姿をそこに見ているだろうか。
そのことをあなたにもう一度考えていただきたいと思う。

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