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月夜見 [ツクヨミ]コミュの古代中国暦

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冬至は衰弱した太陽が復活することを祈る日、あるいは復活を祝う日として、洋の東西を問わず民俗や暦法においてとても重要な日でした。

月の公転周期約29.5日、太陽の公転周期約365日。
中国(支那)の太陰暦では、古くから「新月」が終わりと始まりの日、月の再生の日、月が立つ、ついたち(朔)と定めています。
それと同じように、太陽暦の終わりと始まりの日、太陽の再生と復活の日が「冬至」です。
太陽信仰をしていた北半球の多くの世界で、冬至を1年の始まりとしていました。

冬至は、1年で太陽の日照時間が一番短い日です。
太陽から見た地球の「気」の盛衰は、始まりと終わりの基点が「冬至」となります。
天空間の始まりは太陽が再生する日、新しい「気」の始まりでもあります。

▽冬至の風習と新嘗祭(にいなへのまつり)
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=25568886&comm_id=1110372


それに対して、地球上の現象による年の始まりが「立春」です。
「大寒」は自然界で最も寒い冬の季節となり、地上において陰の気が最も強い季節です。
「立春」は地上世界において目に見える形で陽気が動き出し、自然界の植物が芽吹き始める季節となります。

目に見える現象を占う学問に「九星学」があります。
干支の暦が九星学の影響によって、年の変わり目が「立春」に置かれたと考えられます。

しかし本質的には、「冬至」から始まっている新しい「気」が内在し内側で動き出している...

 ”陰極まりて陽となり”
 ”陽極まりて陰となる”

中国においても太陽の「気」を受け取る始まりは、陰が極まった「冬至」であるとされてきました。


まずは歴史から見ていきましょう...

古代中国でも、冬至の日に円壇を築いて天を祀っていました。
冬至は中国暦の原点で、冬至における太陽の観測を基として、二十四節気で一太陽年を計っていました。
さらに冬至における皆既日食は、もっと重要な日であったことでしょう。

紀元前1600年頃の殷墟から、甲骨文字(亀甲獣骨文字)が出土します。
その当時は占いが盛んに行われ、すでに「干支」が使用されていました。
そして紀元前1500年頃から「太陰太陽暦」が使用され始めます。

殷の時代に出来あがった六十干支の暦は、日や月や星、植物の生長などを観察して年と日付を決めていました。
月の初めの日は新月(朔)ではなく、月が見え始める二日月や三日月などで、この日を「朏(ひ)日」という。
殷暦では、殷の湯王13年11月の新月で冬至と重なった日を、「甲子朔旦冬至(きのえねさくたんとうじ)」の元首としました。

この朔旦冬至の起源は、どうやら古代中国の陰陽道にあったようです。
その頃はまだ五行(漢の時代に完成)はなく、四季、八卦、十二支、二十四節と、自然の循環と人間の生活とを一致させるための技術でした。
陰と陽は、その自然を循環させる二つの「気」、あるいはエネルギーのことです。
陰陽家は、気の変化を観察し、気候や風土の変化の目安をあらわした暦を作る。
暦は日付を知るだけでなく、祭りごとや農作業などの生活習慣の手引きでした。
さらに天の星の暦で星座を観察し、日食や月食を始め長期の自然現象までを予測可能にしました。

また、年の十二支は木星の位置を表しています。
木星の公転周期が約12年(11.86年)のため、木星が黄道のどの位置にあるかで年を刻みました。
そこでこの木星のことを「歳星」と呼んで、その運行に注視したのです。
この木星の位置で年を見ることを木星紀年法といいます。
暦作成の基準である冬至の月の歳星(木星)の位置で、十二支の何年と決めたのです。


古代の月を見る技法は、北極星を時計の中心にして北斗七星の柄杓(ひしゃく)の柄を時計の針に見たてました。
北極星を中心に天空を十二等分割して、柄の剣先が夕方どの方角を向いているかをその方位の十二支に当てはめて各月を決めました。
その柄がどちらを向いているかを「建(おざす)」といい、月を決めることを「月建(げっけん)」といいます。
冬至には北斗七星の柄杓の柄の剣先が真北、つまり十二支の子の方位を指しので「建子の月」と名付けました。
暦作成も、冬至を含む「建子月」を求めるところから計算がはじまったわけです。


古代の三つの王朝、夏(?-前1500頃)、殷(前1500頃-1111頃)、周(前1111頃-256)は、それぞれ建寅(立春の月)、建丑(冬至の翌月)、建子の月(冬至の月)を正月とし、その朔日を年始とした伝説があります。
それぞれ夏暦、殷暦、周暦の正月は違っていたということから、中国の戦国時代に唱えられた年始をどこに置くかについての考え方を「三正」といいます。

 夏正(建寅月が正月)=立春正月
 殷正(建丑月が正月)=↑中間↓
 周正(建子月が正月)=冬至正月

周以降、古代〜前漢の時代まで冬至のある月が正月でした。

前漢の時代、太初元年(紀元前104年)に漢の武帝が「太初暦」を制定。
太初元年の前十一月の朔日が冬至であることを確認し、「十一月甲子朔旦冬至」を暦元とした。
十一月甲子朔旦冬至とは、夏正による十一月の第一日が甲子(六十干支のはじめ)であり、その日のはじめに朔および冬至の時刻が一致するという理想的な日です。
冬至を含む月を十一月と定義しており、およそ19年毎に冬至が十一月一日(朔日)になる年があります。
19年に1度という周期を「一章」といいます(一章=19年)。
一章の始まりは、最も重要な日である「冬至の十一月中」が、ちょうど十一月の朔日になる年が選ばれました。
これを「朔旦冬至」と呼び、一章の始まりであるため「章首」と称します。

また天文の研究による知識から、二十四節気という正確に季節をあらわす指標もこのとき作られました。
陰陽五行の占いにより、二十四節気の始まりは「立春」となりました。
よって「立春正月」を年始とすることに改め、冬至を十一月に固定して中気のない月を閏月とする歳中閏月法を採用。

改暦において年始を「建寅の月」とし、以後、現在に至るまで太陰太陽暦の年始には「夏正」が用いられています。
月建の順番は周正のままでしたので、正月が十二支の3番目に当たる「建寅の月」となりました。

立春を新しい年の始まりとする暦は、漢の時代の為政者が都合により農耕民族を統治しやすいように変更したともいわれています。
古代から伝承されていた年の始まりは冬至であるため、王様は冬至を年の始まりとした暦を使用し、一般民衆には立春を年の始まりとした暦を使わせていたようです。

この時代は日本でいうと、大和朝廷成立以前の邪馬台国の時代。
ちょうど中国大陸で陰陽家がいちばん盛んだった時期と重なっています...


ちなみにこれまでで最後の朔旦冬至は1995年、次の朔旦冬至は2014年です。





▽メトン周期とサロス周期 〜太陽と地球と月の19年周期
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=35157280&comm_id=1110372
▽二至二分「春分と秋分」
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=16353132&comm_id=1110372
▽世界の暦を読む 〜太陰暦・太陰太陽暦・太陽暦
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14359625&comm_id=1110372


...

コメント(6)

今年の旧暦11月1日の新月は、12月20日(水)です。
冬至は12月22日(金)ですが、旧暦では11月3日で三日月です。

もし、この新月と冬至が重なると、太陰太陽暦だった古代中国と日本では、盛大なお祭りがされていました。

2014年が楽しみです!
何が起こるんでしょうか?
まだまだ先ですね、生きてれば楽しみです、何かが起きるの期待して長生きします。
太一を一年で一周する北斗七星は天の大時計と呼ばれ、
その一周に十二支が割当てられたのが暦の始まりですよね。
寅が一月になったのは、寅が陰陽の丁度中間だからでしょうか。
ここから陽が勝ってくる、という意味で。
子ではあまりに陰が勝っていて、
年の始まりには相応しくないと考えられた?
古代中国での「立春正月」の由来に関わる部分を補足し、加筆修正しました...
わたくしの日記へコメントもありがとうございました。
コメントにあったリンクをたどって来ましたので、こちらでお礼申し上げます。

大変よく勉強をされてるのですね。感心いたしました。

「朔旦冬至」というものがあったんですね。大変勉強になりました。どうもありがとうございます。
2014年の冬至は新月と重なる【朔旦冬至】
http://www.musublog.jp/blog/fuhgetsu/?entry_id=27336
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=77266590&comm_id=1110372

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