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懐かしい物ふぁんくらぶ♪コミュの本田美奈子. (歌手・女優)

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1967年7月31日 - 2005年11月6日誕生日
日本の歌手、女優である。2004年頃本田 美奈子から画数が31画となるよう名前の後に「.(ドット)」をつける改名を行った。本名は工藤 美奈子(くどう みなこ)。

1980年代後半を代表するアイドル歌手であり、1990年代以降は主にミュージカルで活躍した。2000年代に入ってからはクラシックとのクロスオーバーに挑戦するなど、活躍した領域の広汎さでは日本の芸能史上出色の存在である。

生涯

アイドル歌手としてデビュー
1967年7月31日午前11時17分東京都板橋区上赤塚町(現赤塚)の成増産院に生まれ東京都葛飾区柴又に育つ。幼いうちに埼玉県朝霞市に移住。歌が好きで歌手になることを夢見ていた母の影響で幼い頃からいつも歌を歌っていた。小学校の卒業文集には「将来の夢は歌手」と書いていた。

中学生の時『スター誕生!』のオーディションを受け、決戦大会に進出したがプロダクションからのスカウトは受けなかった。1983年原宿で少女隊のメンバーを探していたボンド企画にスカウトされ芸能界に入る。社長の高杉敬二とはこの後ボンド企画倒産後も二人三脚で歩み続けることになる。

当初の少女隊のメンバーという構想に反し、その歌唱力の高さを見込まれソロ歌手として活動することになる。1984年第8回長崎歌謡祭でグランプリを受賞したことがデビューのきっかけとなった。翌1985年4月20日東芝EMIから「殺意のバカンス」でデビュー。4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」をヒットさせたほか、12月7日には新人歌手としては異例の武道館コンサートを成功させた。同年の数多くの新人賞を受賞した。

1986年2月5日「1986年のマリリン」をリリースし大ヒットとなる。へそを露出させた衣装や激しく腰を振る振り付けなど当時のアイドル歌手としては異例の演出と相俟って本田の名を広く世間に知らしめた。同曲は今もって本田の最も有名な楽曲である。

1988年女性だけのメンバーによるロックバンド“MINAKO with WILD CATS”を結成、シングル「あなたと、熱帯」、アルバム『WILD CATS』などを発表した。同年9月11日SHOW-YAが企画した女性ロッカーのみによるジョイントライブ『NAONのYAON』に出演。翌1989年秋に解散した。


ミュージカルでの活躍
1990年ミュージカル『ミス・サイゴン』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。1992年5月5日『ミス・サイゴン』日本初演。以来一年半のロングランをこなし、その歌唱力、演技力を高く評価された。1992年第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞。

1994年『屋根の上のバイオリン弾き』にホーデル役で出演。9月24日にアルバム『JUNCTION』を、翌1995年6月25日にはアルバム『晴れ ときどき くもり』をリリースし、レコーディング・アーティストとしても復活を果たした。

1996年『王様と私』にタプチム役で出演。

1997年『レ・ミゼラブル』にエポニーヌ役で出演。当時すでに日本初演の際にこの役を演じた島田歌穂が“世界一のエポニーヌ”と称されるほどの評判を得ていたが、本田もそれに劣らぬ評価と人気を獲得した。以後も繰り返しこの役で出演し、エポニーヌは本田の当たり役となった。

1998年エイズチャリティーコンサートで「ある晴れた日に(プッチーニのオペラ『蝶々夫人』より)」を歌い、2000年3月20日サリン事件チャリティーコンサートではラフマニノフの「ヴォカリーズ」を歌った。同年6月19日シドニーオリンピックを記念して開かれたシドニーのオペラハウスでの日豪親善コンサートに服部克久の推薦により出演した際には「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」や「ある晴れた日に」を歌うなど、この頃から次第にクラシックへの志向を強めていた。

同じく2000年10月13日にはデビュー15周年記念コンサート『歌革命』を開催、自身のシングル・メドレーのほか「天城越え」や「ある晴れた日に」などを歌った。

2002年『ひめゆり』にキミ役で出演。日本で制作されたミュージカルへの初の出演となった。


クラシカル・クロスオーバーへの進出
2003年5月21日初のクラシックアルバム『AVE MARIA』をリリース。ソプラノ的な唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌うというユニークなスタイルで新境地を切り開いた。

同年東宝によりシェイクスピアの戯曲にもとづくミュージカル『十二夜』が制作され、本田はネコ役を初演した。原作にないこの役はセリフに苦手意識のある本田のために特に作られたものだった。

2004年地球ゴージャス制作のミュージカル『クラウディア』でヒロインのクラウディア役を初演。同年8月29日『N響ほっとコンサート』でNHK交響楽団と共演し「新世界」と「シシリエンヌ」を歌った。11月25日アルバム『時』をリリース。12月1日武道館での『Act Against AIDS』に出演、38度を超える発熱をおして「ジュピター」と「1986年のマリリン」を歌った。この頃からすでに病気の兆候が表れていた。


白血病による逝去
風邪に似た症状がなかなか治まらないため、2005年1月に病院の検査を受けたところ急性骨髄性白血病と診断され緊急入院。3回の化学療法による治療の後、5月に臍帯血移植を受け、7月末には一時退院できるまでに回復した。しかしわずか1ヵ月後に染色体異常が見つかり再入院した。11月3日肺に合併症を発し容態が急変、2005年11月6日午前4時38分家族らの見守る中永眠した。38年と3ヶ月の生涯だった。法名は「釋 優馨(しゃく ゆうしょう)」とつけられた。


音楽

多彩なジャンルでの活躍

演歌ヘの志向
当初は演歌歌手志望で、事務所のオーディションのために準備してきた楽曲は演歌だった。所属するボンド企画に演歌歌手を育てた経験がなかったためにアイドルとしてデビューすることになったものの、本人の強い意向で「殺意のバカンス」をデビュー曲とすることになったのはこうした志向によるものと考えられる。

またロックバンドを解散し再びソロに戻った頃には、新たな方向性として演歌歌手への転向が真剣に模索されていたと言われている。実際この時期に出演したテレビ番組では着物を着て演歌を歌ったほか、演歌歌手として活動する方針であることがマスコミでも報じられており、この計画はある程度具体化していたらしい。

この後にもアルバム『JUNCTION』にオリジナル演歌とも見做し得る楽曲を収録したほか、コンサートでは度々演歌の名曲をカバーしていた。結果的に演歌歌手として活動することはついになかったものの、演歌への志向は生涯を通じて本田の歌手活動に大きな影響を与えていたものと思われる。


アイドル歌手として
1985年4月20日に「殺意のバカンス」でデビューすると新人離れした歌唱力に加え、可憐な容姿も相俟って順調に人気を獲得した。4枚目のシングル「Temptation(誘惑)」(同年9月28日発売)のヒットは本田にこの年の各種歌唱賞の新人賞を数多くもたらした。翌年の2月5日に発売された「1986年のマリリン」は爆発的なヒットとなり、“へそ出しルック”で激しく腰を振って踊る姿は世の中の注目を集めた。こうした演出の意図について、本田自身は「Temptation(誘惑)」が各種ランキングの10位以内に惜しくも届かなかったのが悔しくてより強く個性を出そうとした、と語っている。

人気の高まりを裏づけるように、同年7月23日発売の「HELP」は公共広告機構のいじめ防止キャンペーン「しらんぷりもいじめ」のテレビコマーシャルで使用された[4]。歌へのこだわりが強くドラマや映画への出演には消極的だった本田だが、1987年放送のドラマ『パパはニュースキャスター』には本人役で出演し、主題歌に採用された「Oneway Generation」(同年2月4日発売)はドラマ自体の好評にも支えられ人気を博した。同じ年の映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』も歌手の役ということで引き受け、劇中事故で亡くなったレーサーの兄に捧げて「孤独なハリケーン」(9月9日発売)を歌った。この3曲で本田にとってオリコンランキング最高位である2位を獲得した[5]。


洋楽からの影響
元々は洋楽にはあまり詳しくなかったのだろうと見られている。しかしデビュー後は事務所社長の高杉に薦められてマリリン・モンローやマドンナなど外国のスターの映像をくり返し見て演出の参考にしていた[1]。デビュー翌年の「1986年のマリリン」における衣装や振り付けはその影響でもある。この年にはゲイリー・ムーアから楽曲提供を受け、彼のギター・ワークをフィーチャーした「the Cross -愛の十字架-」が制作された。

翌1987年にはブライアン・メイのプロデュースによりシングル「CRAZY NIGHTS」(カップリングは「GOLDEN DAYS」)が制作された。本田は武道館でのコンサートでフレディ・マーキュリーの「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」をカバーしており、このコンサートのライブ盤とデビューアルバムをロンドンEMIを通じてブライアンに送ったところ彼の方から申し出がありコラボレーションが実現した。このシングルの英語版はイギリスをはじめヨーロッパ20ヵ国でリリースされた(なおこの海外盤では「GOLDEN DAYS」の方がA面扱いになっている)。

この年はさらにラトーヤ・ジャクソンの来日公演のプロモートをボンド企画が手がけた縁で彼女とのジョイントコンサートを行い、ジャクソン・ファミリーとも親しくなった。ロサンゼルスのマイケル・ジャクソンの自宅にも招待され、彼らのスタッフのプロデュースにより全曲英語詞のアルバム『OVERSEA』を制作している。このアルバムはアメリカでも発売された。このようにデビューから数年後には海外ミュージシャンとのコラボレートは本田の歌手活動の際立った特徴ともなっていた。


ロックバンドでの活動
本田はその後女性だけのメンバーでロックバンドを組むことを思い立ち、東京と大阪でオーディションを行い1988年1月に“MINAKO with WILD CATS”を結成した。彼女がこうした試みを行った背景には自身の脱アイドルへの志向のほかに、海外のロックスターと共演した経験や、当時の国内でのバンドブームの影響があったものと考えられる。ツインドラムという特異な編成や、バンドとしてのデビュー曲「あなたと、熱帯」の作曲を忌野清志郎が手がけたことなどは話題となった。

この時期の人気や評価は概ね低調だったが、ロックバンドのリーダーを務めた経験は本田にとってアーティストとしての自己を確立する上で欠かすことのできない過程だったものと思われる。SHOW-YAの提唱で開催されプリンセス・プリンセスなどとともに出演した『NAONのYAON』はこの時代の女性ロッカーたちの活躍の記念碑とも言える。初めて自ら作詞を手がけたのもこの時期だったことは特筆すべきである。


ミュージカル女優として
ロックバンドとしての活動は少なくとも商業的には成功したとは言えず、1989年秋に解散してソロに戻った後も人気は回復しなかった。本田にとってこの頃は最も苦しい時期で、自身「歩いてきた道が突然、ガケっぷちになって行き止まりになっていた」と回顧している。それでも歌へのこだわりの強い本田はバラエティー番組への出演を断り続け、ドラマや映画の仕事も最小限に絞っていた。

東宝のプロデューサー、酒井喜一郎から『ミス・サイゴン』のオーディションの話を聞かされた時も初めは関心を示さなかったが、全編歌で構成されたミュージカルであることを知ると目の色を変えて意欲を示すようになった。1990年秋に始まったオーディションの選考は数ヵ月にわたり、翌1991年1月13日にキム役に決定すると3月以降の全ての予定をキャンセルして公演に備えた。開幕にあたっては「私は舞台では、演じないからね。生きるからね。強く生きてみせるからね」と抱負を語っていた。

アイドル出身の本田の力量を危ぶむ声もあったが、本田は後述の事故も乗り越えて一年半に及ぶロングランを務め、ミュージカルスターとしての地位を確立した。以後も『レ・ミゼラブル』のような人気ミュージカルを含め数多くの舞台に立ち、ミュージカルの世界には欠かせない人材となった。『ミス・サイゴン』でエンジニア役として共演した市村正親は、本田の逝去の際に寄せた言葉の中で彼女のミュージカルでの活動を「なくてはならない存在」と称えた。


人物

人柄
デビュー初期はアイドル歌手として活動したが、本人はアイドルと呼ばれるのを嫌っていた。デビュー曲も本人の強い希望でアイドル色の強い「好きと言いなさい」から大人の歌謡曲の雰囲気漂う「殺意のバカンス」に変更された。日頃から「アーティストでありたい」と口にするなど、しばしば事務所やレコード会社の描くイメージ戦略通りの姿を演じることを要求されるアイドル歌手の枠には収まり切らない言動が当初から目立っていた。若い時から自己の信念を確立していた人であったことが窺われる。

その一方で「やっほー」が挨拶代わりの天衣無縫な振る舞いでも知られていたが、出演した映画『パッセンジャー 過ぎ去りし日々』の音楽監督、渋谷森久との出会いをきっかけに落ち着いて人と接するようになっていった[7]。以前の自分自身については「わがままだった」と述懐している。また『ミス・サイゴン』への出演も歌手としてのキャリアだけでなく、人格の上において大きな転機となった。大勢の人が力を会わせて一つの作品を完成させるという過程を通じて人との共同作業に喜びを見出すようになっていったようである。生前親交のあった関係者は「決して人の悪口を言わない人だった」と口を揃える。

彼女は幼い頃から暮らした朝霞の街を愛し、デビュー後の数年間事務所社長の高杉の自宅に下宿していたほかは朝霞市の実家から仕事に通っていた。帰りが遅くなっても母親の手料理を食べるのが習慣だった。自宅でお気に入りの座椅子に座って窓からけやきの木を眺めるのを好み、近くの緑の多い風景の中を散策するのを楽しみとしていた。気さくな人柄から近隣の住民にも慕われており、後述の通り地元商工会の発案で朝霞駅前に記念碑が建設されたのはその表れでもある。朝霞警察署の一日署長を務めたこともある。

生涯子供を持つことはなかったが、とても子供好きであったことが知られている。『ミス・サイゴン』の楽屋では子役で出演する子供たちを我が子のようにかわいがり、姪や甥には「ママ」と呼ばせて愛情をそそいでいた。ファンクラブの会合にファンが子供を連れて行くと大喜びしていた。


歌への情熱

『ミス・サイゴン』での事故
『ミス・サイゴン』の公演開始から一月ほど経った頃、本番中に舞台装置の滑車に右足を轢かれるという事故が起きた。そのまま一幕最後の「命をあげよう」までを歌い切ったが、舞台から下がった後靴を脱がせてみると骨が露出しているほどの大怪我だった。岸田敏志ら共演者にすぐに病院へ行くよう指示されたが本人は最後まで演じ切ると主張して譲らず、「(ダブルキャストの)入絵加奈子と連絡がついて今こちらへ向かっている」と言い聞かされて初めて安心したかのように泣き出した。

病院で診察を受けると足の指4本を骨折しており、19針を縫う重傷だった。全治3ヶ月と診断されたがリハビリに励み、誕生日の7月31日に復帰を果たした。


歌に捧げた人生
デビュー当初は「二十歳までに結婚したい」と語っていたこともあるが、実際には生涯独身を通した。いつの頃からか結婚への願望をふっ切るようになったようである。本田に妹のようにかわいがられていた高杉の娘、河村和奈は「私は歌と結婚したから今生では結婚できないの」とうれしそうに話していたと証言している。

アルバム『AVE MARIA』の収録を終えた後、ジャケット制作のためスタッフとの顔合せが行われた。その席で本田は「私はこのアルバムに命を賭けていますので、絶対に失敗できないのでよろしくお願いします」と挨拶した。

舞台には歌の神様がいると話し、いつも出番の前には舞台の天井を見上げて祈りを捧げていた[11]。2004年12月23日のクリスマス・コンサートではめずらしく舞台裏の様子を撮影することを許可していた。このため写真家の原田京子は誰もいない舞台で天井に両手を差し伸べて祈る本田の姿をとらえることに成功している。これが一般の観客を前にしたものとしては最後のコンサートとなった。


復帰を目指して
白血病による入院中もストレッチや発声練習を行うなど、復帰への意欲を強く持ち続けていた。臍帯血移植手術を前に公式サイトに寄せたメッセージでは「泣きたい時は我慢しないで泣いています」としつつ「元気な姿で皆さんのもとへ返ります」と述べていた。その後に同じく公式サイトに寄せた肉声メッセージでは、心からの歌を歌える歌手に成長して復帰したいと語っていた。ファンクラブ会員に向けた手記では特に「時-forever for ever-」を歌いたいという意欲を示していた。

入院中に岩谷時子が銀座の路上で転倒し大腿骨を骨折する事故があった。この知らせを受けた高杉は本田の入院している病院に連絡を取り、岩谷はそこに運び込まれた。

恩師と同じ病院で入院生活を送ることとなった本田は岩谷を励ましたいと思ったが、彼女は無菌室から出ることができなかった。そこで本田はヴォイスレコーダーに歌を吹き込んで岩谷の病室に届けていた。この録音は三十数曲にも上り、一部はフジテレビの追悼特別番組『天使になった歌姫・本田美奈子.』で紹介された。

38才の誕生日の前日に一時退院を許された際、世話になった医師や看護師のためにナースステーションで「アメイジング・グレイス」を歌った。この時の録音は上記の追悼番組でフルコーラス流されたほか、2006年7月から一年間放送された公共広告機構の骨髄バンク支援キャンペーンのテレビコマーシャルでも使用された。

再入院後のある日、見舞いに来た知人がたまたま誕生日だったので居合わせた一同で「ハッピーバースデートゥーユー」を歌った。これが本田の歌った最後の歌となった。


手記・歌詞に綴られた言葉
本田は数多く詞を手がけているほか折りにふれ感じたことを手記に残しており、それによりその思想の一端を窺い知ることができる。


自然・平和への愛
自然が人の手により破壊されつつある現状には深い関心を寄せていた。「地球へ」と題する手記では子供の頃に朝霞に残る豊かな自然の中で遊んだ思い出を振り返りながら、人と自然との共生への祈りのような思いを書き綴っている。実生活でも自宅近くに市民農園を借りて野菜を作り、そこで近隣の人たちとの交流を楽しんだり、とれた野菜を仕事仲間と一緒に食べたりと自然とふれ合う暮らしを実践していた。

自ら作詞した「タイスの瞑想曲」(アルバム『AVE MARIA』所収)は平和への祈りの歌である。2004年にミュージカル『ひめゆり』に出演した際にプログラムに寄せたメッセージではこの歌に言及しつつ、過去に悲惨な戦争を経験しながら今なお戦いを続ける人々がいることを憂え、平和の尊さを訴えている。そして身近にある小さな幸せを感じながら時を過ごすことの大切さを語りかけている。


[編集] 小さな幸せ・時
この「小さな幸せ」は晩年の本田が好んで用いていた言葉であり、この言葉をタイトルにした手記も残している。日々の生活の中で当り前のようにそこにある小さな幸せに気づくことが大切だとくり返し述べていた。発病後一時退院を許されていた時に高杉と家の近くを散歩していて、蒸し暑さに不平を言う高杉に風を感じる幸せを教えさとしたというエピソードも伝えられている。

そしてこの言葉は「時」という主題への関心と結びついていたようである。最後のオリジナル曲となった「時-forever for ever-」は本田が岩谷に名前の一字をとって「時」というタイトルの詞を書いて欲しい、と発注して生まれたものであり、この歌はアルバムのタイトルトラックになった。このアルバムに収められたドヴォルザークの交響曲に自ら詞をつけた「新世界」や、本田の書き残した言葉を元に作られた追悼曲の「wish」も時を主題とした歌と見做すことができる。このように最晩年に時について歌いたいという強い意志を抱いていたことは、本田の到達点を理解する上で極めて重要な手がかりになると考えられる。


突然の逝去が呼び起こした反響
葬儀で弔辞を述べた岸谷五朗やテレビ番組をかけ持ちして思い出を語った岸田敏志、通夜に参列した後会見で悲痛な思いを述べた南野陽子など追悼のコメントを寄せた著名人は枚挙に暇がない。海外ではブライアン・メイが彼女との思い出の写真とともに追悼のメッセージを自身のオフィシャルサイトに掲載した。
本田はフィリッパ・ジョルダーノのコンサートを聴きに行き、終演後に楽屋を訪ねて話をしたことがあった。フィリッパは本田の逝去後の2005年12月の日本でのクリスマスコンサートで、そうした経緯について説明した上で「ミナコ・ホンダに捧げる」としてシューベルトの「アヴェ・マリア」を歌った。
逝去後の報道で「アメイジング・グレイス」を歌うライブ映像が繰り返し流されたことで、日本ではこの歌と本田の存在とが強く結びついて人々に印象づけられることとなった。この歌の作詞者ジョン・ニュートンの自伝「『アメージング・グレース』物語」(2006年12月7日、彩流社)を翻訳した中澤幸夫は「本田美奈子.さんがこの歌を広めたと言っても過言ではない」としている。
フジテレビ系列で追悼特別番組『天使になった歌姫・本田美奈子.』が放送された。これは本来は白血病からの復帰を前提として難病を克服した本田の姿を放送するために準備されていたもの。生前公私ともに親しくしていた岩崎宏美がナレーションを務めた。ほかに『たけしの誰でもピカソ』、『題名のない音楽会21』、『ミュージックフェア21』、『徹子の部屋』、『ドリーム・プレス社』などでも追悼特集が組まれた。
彼女の公式ファンクラブは多数の要望により没後も存続することが決定し、今も会員数を増やしている。
岩崎宏美がカバーアルバムのシリーズ第3弾『Dear Friends III』(2006年9月27日発売)に収録する曲目のリクエストを募集したところ本田の「つばさ」が圧倒的1位になり、このアルバムの終曲として収められた。岩崎はチェコ・フィルハーモニー管弦楽団と共演したアルバム『PRAHA』(2007年9月26日発売)にも本田への献辞とともに「つばさ」を収録している。
2006年7月から1年間公共広告機構(AC)の骨髄バンク支援キャンペーンに起用された。本田の逝去後骨髄バンクへの登録者数は増え続けており、目標としていた30万人に近づこうとしている。本田の若くしての急逝が大きく影響したものと見られている。
幼少時代から亡くなるまで住んでいた埼玉県朝霞市は、本田の功績を称えて東武東上線朝霞駅の南口駅前広場に記念碑を建設した。これは駅前整備事業の一環として朝霞市の商工会議所の発案で企画されたもの。生誕40周年にあたる2007年7月31日に本田の母、所属事務所社長の高杉、親友の早見優らの臨席のもと除幕式が行われた。闘病中に書いた「笑顔」と題する詩と本田の写真のパネルがはめこまれ、「ありがとう。心を込めて... 本田美奈子」という言葉が刻まれており、ボタンを押すと「新世界」の歌声が流れる仕組みになっている。

本田美奈子−1986年のマリリン
http://www.youtube.com/watch?v=qctDgW2jQmM

【本田美奈子】 JUPITER
http://www.youtube.com/watch?v=wR0IMxmRTD0

本田美奈子−孤独なハリケーン
http://www.youtube.com/watch?v=CXoeNMVRvkk

本田美奈子 - Amazing Grace
http://www.youtube.com/watch?v=zqjD3k-qkLY

【本田美奈子】 Amazing Grace
http://www.youtube.com/watch?v=cRbP2sPKUL4
たけしの誰でもピカソ 追悼番組より

本田美奈子 Stairway to Heaven(天国への階段)
http://www.youtube.com/watch?v=7WMmWp0fA-s

(T0T)声がよかったですね〜 いい人はなぜか早死にしちゃうんですよ

コメント(5)

ゲイリー・ムーアから曲を提供された時は、ほんとビックリしました。
今でも「愛の十字架」は聴いてます(^^♪

すごい実力を持ってただけに、早い死が惜しまれます。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
探偵ナイトスクープで、元親衛隊らの依頼者の前で生マリリン歌ってたのを見ました。
あれもナイトスクープのDVDに入れてもらいたいもんです。
本田ってマツダ聖子に対抗してホンダて付けたそうですね。

本当に惜しい人を亡くしました。
御冥福をお祈りしております。
ネオマッシュさん
ブライアンメイに肩車してもらったエピソード知ってますか?
初めて聞いたときは驚きでしたよ^^

みえはるさん
松田聖子に十分勝ってましたよね
声質が違いすぎます
残念なのは曲が今ひとつだったことです
もっといい曲かいてもらえれば売れてたと思いますよ
>ブライアンメイに肩車

ううっ、羨ましい。






ブライアンが(・∀・)

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