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hallucinationコミュの錯誤

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いつからか、世界は非対称の輪郭に充たされた。

愛と平和なんてものはどこにだって落ちてあるけれど、
ほんとうに拾い集めている人間を僕はまだ知らない。

善と悪、生と死、戦争と平和。
単調な二元論を排することのできなかった、戦後。
お仕着せの思想は幾何級数的にその支持を増してゆき、
自由や多様性とは程遠い単一視点を形成してしまった。

予定調和としての平和、いつもそこにある安全。
素朴な信仰にも似た、好意的な偶然の連続とその錯誤。

無作為で非対称な現実に文法など最初から存在しない。
そうしたものに対し、意味と理由の側から立ち向かう者。
彼らは悉く潰え、他方で敗れたことにさえ気づいていない。
そしてきょうもどこかで、新しい兵隊をかき集めている。

コメント(7)

僕は良く、世界をテレビに例えて話します。

中央と周縁、都市と郊外とを接続するテレビジョン。
あたかも好みの放送に周波数を合わせるように、
僕たちは自分の信ずるに値するものだけを観ている。
たとえば思想ひとつをとってもそうなのでしょう。

被写体とレンズ、カメラマンと視聴者の視線。
観るというひとつの行為に秘められた重層性は同時に、
認識という行為そのものの膨縮性を象徴しています。
そして、そうであるにも関わらず僕たちはそれを観る。

観ることは最初に認識であり、同時に観ないものを生む。

世界が平和を歌い続ける限り、そうでないものを見失う。
hallucination 幻想としての平和、想像力のない戦争。
戦争とは平和ではないものを示すことばではなく、
幻想をそれと認め知ることのできない想像力を言う。
僕はこうした素朴な信仰にも似た感覚を新しくしています。

人を愛すれば、人に愛される。
希望に向けて努力すれば、夢がかなう。

僕たちは疑いもせずにこうしたことばを語ります。
しかしながら現実はほんとうに対称的なのでしょうか、
果たして、こうした論理には疑問なしとしません。

希望に向かって歩き続けても倒れる人がいます。
努力とは無縁であっても、成功を身に着ける人がいます。
幸運と不幸は、往々にしてひとり歩きをしてるのでしょう。
僕はそんな世界を¨非対称¨という述語に託しました。

自販機にコインを投じれば商品が出てきます。
これは経済という対称交換のシステムが生んだ約束です。
人はそれを、あらゆるものに応用できるとどこかで信じ、
或る地点で考えることをやめてしまいました。

そこは戦争が生まれる土地、平和の終わる場所でした。
交換と均衡について、少し触れておこうと思います。
以下、10代の終わりに書いた文章を引用します。


好むと好まざるとに関わらず、日々の選択は交換を生む。
たとえば、労働を賃金と。賃金とサービスを。
僕たちは終わらない交換を繰り返して生きている。

こうした交換は、元始生産性の体系に生まれた。
人々は狩猟によって糊口を凌ぐ頃にはもう、ものとモノとを
交換する制度を生み出している。そう、物々交換の始まりだ。

或る者は猟の危険と獣の肉とを交換し、獲物を市場へと運ぶ。
また或る者は、自らの持つ技術を作業と交換し、握斧を作る。
たとえば前者は新しい斧を欲し、後者は肉を求めたとしよう。
市場に交通するふたつの価値は、それぞれが均衡を求めるだろう。
仮に双方の対価が妥当として認められた場合には交換が成立し、
いずれかに妥当性が欠けると判断されれば不成立に終わる。

それでは、交換の現場において対価の不収受が起きた場合、
¨均衡¨はもはや不存在であると言えるのだろうか。
やはりここにも均衡は存在する。¨贈与¨の場合がそれだ。
 
価値と価値との交換に関して、対価は即物的なものに限らない。
¨贈与¨(或いは贈与としての交換)の現場において、
価値はしばしば謝意や儀礼としての象徴と交換されうるからだ。

交換と均衡の相補的関係と、それに従事する交換妥当性。
僕たちはこうした合理的な感覚を「経済」と呼んだ。

                    1999.11.04.


随分と幼い文面ですが、一面においては現在に共通します。
¨交換可能性¨について思うことを述べたものであると
記憶していますが、この場合の可能性は chance ではなく
possibility を意味していることは言うまでもありません。

¨贈与¨に関しての記述が薄いため何を指し示しているか
不明瞭な部分は否めませんが、これは¨無言交易¨を例に
挙げると或いは感覚に近いものがあるのではないでしょうか。
silent trade (無言交易・沈黙貿易etc)については
ヘロドトスから南方熊楠まで、無数の記述が残されています。

バナナの例に関して見た場合、通貨の均衡は見られません。
しかしながら僕はここにも対称的交換が成立すると見ます。
現地農民は現金収入を得る必要性に交換妥当性を見出し、
不当に低い対価との交換を容れて対称交換を行うからです。
こうした¨交換妥当性¨という面においては必ずしも、
対価の公正な均衡は問題とされない場合があるのです。

尤も、フィリピンにおける例出には意義深いものがあります。

都市部での人口集中と、カソリックによる人工中絶の禁止。
長く続くインフレ下において主要輸出作物はドル高で困窮、
砂糖は国際市場での相場暴落を受け、バナナも希望薄の状態。
輸入経済の低迷で税収は落ち込み、治安の悪化は宗教による
人心掌握、ひいては都市ゲリラの存在を日々新しく生む。

こうした非対称な現実も、全体としての世界においては
或いは自己完結したシステムに組み込まれているのでしょう。

¨非対称¨とは不条理や理不尽と多少性質を異にします。
例えば上記、フィリピンの例は経済という作用における対称、
一定の合理的な運用に基づいているが故の現状と言えます。
こうした¨財の適正配分¨という、言うなれば対称的思想が
他方で著しい不均衡や不公平を偶然にも生み出すということ。

僕はその無作為性を¨非対称¨と表現しました。
戦争と平和についても触れておきたいと思います。

hallucination  幻想、という寓意。

たとえば平和の存在は戦争の不存在を意味し、
他方で平和の不存在は戦争の存在を意味するか。
僕はこうした二元論的な立場を支持できないでいます。

元来多様性を伴う現実を全体とするならば、
現実はしばしば現象という部分を包摂します。
戦争や平和といった状態は、その性質において
現実という実態に所属する一側面に過ぎません。

そうした側面を便宜的に定義したもの。
それが戦争であり、平和であるのでしょう。
風邪をひいたら、薬を飲む。

こんな対称的な考え方が支配的になった社会を、
幸か不幸か私たちは生きているのが現状です。
本来は非合理であるそうした思考のプロセスを
あたかも合理性に富むように受け止めてしまう。
学問としての哲学や思想が広く行われながら、
その実は思索を欠いてきた結果なのでしょうか。

多発する少年犯罪や自然災害、各地の紛争。
元来こうしたものが無作為で偶然性を伴うのに対し、
多くの人は意味や理由による俯瞰的解答を求めます。
ひとは理由なくしては生きられぬ存在である、とは
かくも言い得ていたものかと感覚を鮮やかにします。

特効薬のない現実をどう生き、考えるか。
そうしたことを日々新しく思ってゆきたいものですね。

まぁ現実問題、僕には森下千里のほうが大事なんですが。

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