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山梨県人会コミュの塩山の奥地に伝わる話

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始めまして!県外の出身なんですけど、東京に住んでいたとき、山梨県は何度も尋ねていました。

中央高速道路を走らせてトンネルを抜けると、右手眼下に広がる葡萄の棚や、起伏にそって広がるピンクのジュウータン・・・スモモなのか梨なのか白いのも・・。

思い出いっぱいの甲州路なんですが、最近気になってて・・なのに思い出せない場所があります。それで、『お尋ね』ってトピもあって、どうしようかと思ったのですが、解りやすいタイトルを意識して、わたしもひとつ手(パー)

今の、甲州市の塩山ってとこの奥地なんですけど、江戸時代に京都から来たという旅のお坊さんが、村の一部のひとの、こころない行為で、全身にやけどを被い、亡くなってしまったそうです。

そのあと、お坊さんの復讐(たたり)にあって、たびたび火事に見舞われたって云う部落についてすこし詳しく知りたいのですが、どなたかご存知ないでしょうか。


かなり、難儀な質問なんですが、偉いお坊さんとだけ聞いています。

そのお坊さんが、どうゆう方だったのかを知りたいんですが、なんでもいいです。

地元の歴史に詳しい方がいらっしゃいましたら、どうかお願いします。

コメント(29)

聞いた話では塩山ではなく山梨市の三富村のほうではないかと思います。
たぶん、旧三富村の話かもしれません。
現在40歳の私が、子供のころ聞いた話だと
・・・えらいお坊さんを焼き殺したのか?熱湯をかけたのか?・・・で、いまの雁坂トンネルがなかなか開通しなかった・・・とか? 恨みをかなり残しているって感じの話でしたが・・・

みーちゃんさんのご存じの話とさほど変わらないですね。すみません。

ちなみに塩山の奥は「花魁淵(おいらんぶち)」と言って、戦国時代に渓谷に端を渡して花魁たちを舞わせ、橋の両側を切って花魁を落としたと言われる淵がありますよ。
皆さんどうも有り難う御座います。

どんどん解けていってうれしいです。

まだ地図では確認していないのですが、雁坂トンネルは、凄く長いのになって、有料トンネルなんだそうですね。

わたしが記憶しているのは、それほど長くなくて、トンネルのある山の頂上に、小さなお堂がありました。

トンネルの入り口と、山の上の、お堂が一緒に見えるくらいの、単純なものだったのですが、新道として、また別のところに建設したものなんでしょうか!?

メールでも、情報を頂いていているので、三富村に間違いないと思います。

江戸時代に京都から江戸あたりに進もうとしたお坊さんが、喉がかわいて一の家をた訪ねたとき、機嫌が悪かったのでしょうか、家の主人が、火に掛けてあった、「あわ粥」をお坊さんに掛けて払い、それがもとで、旅を続ける事ができなくなって亡くなったと聞いています。

昔は稲作が出来たとしても、年貢を納めなければならなかったかして、普通、白いおコメは食べられなかったそうです。奥まった三富の村であれば、そうゆうものしか採れなかったのかもしれませんが、「粥」というとべっとり「のり気」があるもので、お湯を掛けられるよりも、熱をもつものです。

なにか特別な仕事があったのかなあ・・・妄想の域に達していますあせあせ(飛び散る汗)

恨みから、その当家はもちろん焼かれ、ほかの村の家の火事も度々起こったりで、お堂を建てて供養を始めたのが、それなんだそうです。

多分、三富村なんでしょう・・そこの民宿のおばあさんが教えてくださいました。

民宿には、看板はあったけど、不思議なかたちをしていた感じで、普通の民家でした。鹿が捕れたからっていって、鹿料理を頂きましたよ。

次の朝、東京に戻ろうとしたとき、トンネルの上のお堂と向かい合わせになった瞬間、不思議な体験をしたのを、最近思い出して、急に知りたくなったんです。

今でも、旧い道は残っているんでしょうか!?お堂は!?

差し出がましい質問ばかりですみません。

>クリームプリュレさん

徳和地区ですか・・・だんだん狭くなっていきますね。

お堂はどうなっているんでしょう!?

トンネルくぐっちゃうから、ひと目には付かなくなっているのかなあ。

どうも有り難う御座います。
武田軍の軍資金の出所である金山があったんですね・・・・!?

石垣と例えるほど、部下を大切にする武田氏の思想から、おなじ武田軍の花○・・なんて読むんですか??とにかく花○を犠牲にしたというのでは、その花○は、最初から武田氏のみ方ではない人物達だったんでしょうか。

戦国の時代にも、強制労働は当然あったと・・・歴史家ではないひとの、やはり妄想ですが。

すこし、勉強してみます。

主題とはズレてってますが…花魁淵はヤバいです!
> クリームプリュレさん
横レス、失礼いたします。
おいらん淵は甲州市塩山地区と丹波山村の境に位置するようですよ。





余談ですが。おいらんは女郎、遊女のことですね。
もし遊女をそのまま逃がしたら、遊女は客を求めて各地に流れていく。
そうしたら、“武田の隠し金”金山の秘密が遊女の口からばれてしまうと考えた武田の家臣がこの行為をしたのではないかと伝えられているみたいです。
>たむさん

なんでヤバイんですか??

そんなにおっかないところなんですか??

>主題とはズレてってますが…花魁淵はヤバいです!

塩山の奥地となれば、ズレてない・・・そうゆうことにしましょう。

お坊さんの事件と花魁・・つまり女郎さんたちの恨みつらみは、時代的に差異がありますが、その土地に残っている怨念というのは、そこに留まっているものと考えます。

ただの怨念のまとまり・・というのではなく、女郎さんたちの恨みが、時を経て、修行するお坊さんに降り掛かり、お坊さんの恨みがさらに倍増して大火を起こした・・・・そんな流れがあったのではないでしょうか。

もっと、他に情報はないものでしょうか。
スイミーさんのお話、大変勉強になりました!!

おいらん淵は今は紅葉の名所として有名ですしね。

話を広げついでに…あせあせ

おいらん淵のある甲州市塩山地区の隣・甲州市大和地区(旧大和村)にある景徳院をご存じですか?
同じ大和地区の奥地・天目山栖雲寺を目指して北上する武田勝頼が織田軍に追いつめられ、正室、長男とともに自害した場所に徳川家康が建てさせた寺院です。
ここの場所には勝頼たちのお墓はもちろんのこと、勝頼がその上で自害をはかったという生害石、勝頼の首塚、勝頼の生首を洗ったという河原、家臣の土屋氏がツタに捕まって片手で千人斬りをした場所などが今も残っています。
また、塩山に戻って、武田の菩提寺である恵林寺。
僧たちは最後まで抵抗しますが織田軍に責め立てられて火を放たれてしまいます。
その中で一番偉いお坊さんが言ったのが「心頭滅却すれば火もまた涼し」なのですが。

武田氏最期の地と言うことで、甲州市にはそういう話は多いのですよね。
脱線しているのは覚悟で、こちらにいらっしゃる山梨の有識者の方々にお伺いしたいのですが・・・(伝説つながりで)
私は他県出身で、昨年まで山梨に住んでいたんですが、韮崎の新府城での怖い話を聞かされました。
落ち武者がでるとかなんとか・・・武田信玄公が好きなので、一度見てみたかったのですが、それを聞いて怖くなって結局行けませんでした。
たしか、新府城って、戦う前に勝頼が火をつけて逃亡したんで、落ち武者がでるとかならないハズなんですが・・・実際、そういう怖いスポットなんですか?
> あんずらさま

脱線にお付き合いいたします(笑)。
確かに、新府城は勝頼が火を放って逃げた場所なので大合戦の地、というわけではないのですが、幽霊の話は聞いたことがあります。
これは推論になってしまいますが、織田軍に責め立てられて火をつけたので、まったく被害がなかったわけではないでしょうね。ましてや築かれてすぐの「新府」ですから、それなりに抵抗はしたと思います。
そういう「失いたくない」「守りたい」といった気持ちがそういった話を呼ぶのかもしれません。

私も実際に新府城跡に立った回数はごくごく少ないのですが、現地は七里が岩の上でうっそうとした森に囲まれており、桜の季節には桜が美しく咲く、とても神秘的な場所ですよ。そういう雰囲気も、噂を呼ぶのでしょうね。

でも、さらに余談になっちゃうのですが、すぐそばの桃畑は開花すると、大変美しい景色になります。
緩やかな丘陵いっぱいに濃いピンクのじゅうたんが広がり、南東の視界が開けた場所では目線の先に富士山が見えるのです。
青い空、白い富士山、桃の花、場所によっては菜の花の黄色と目にも鮮やかな彩りで、見過ごすのは何とももったいないお話です!!
あんずらさん
新府城の話は母親が韮崎市出身のため聞いた事があります手(パー)
まずは新府城の簡単な解説から…
信玄公の亡き後、長篠の合戦に敗れた勝頼公は国の建て直しをしてました
負の流れを一新するため、真田昌幸の進言をうけて新府を甲斐の中心にしようとします
完成から数ヶ月、織田信長公の軍が武田の領地に進行してきます
郡内の豪族である小山田信茂が新府城で敵を食い止めるといい、城に入ると、信長側に寝返ります
そこで、勝頼公が城に火を放ったわけです
信茂は信長側に寝返ったわけですが、主君が滅亡寸前で寝返るとは何事だと言って、怒りを買い、自害させられます
そういった経緯から勝頼公と信茂のそれぞれの怨念があると聞きましたexclamation



余談ですが、土の中に城が焼けた時の焼き米が残ってるという噂が流れて、遠足の時にみんなで掘ったと言ってました(幼稚園の時の話みたいです)
まぁ今となっては笑い話ですよね手(パー)
みなさまへ
脱線にお付き合い頂きありがとうございます。
なんだか、そんなに恐れる場所でもないようですね。
また来月、山梨に里帰り予定なんで、今度こそ行ってみたいと思います。
山梨って最高ですよね。
皆さんどうも有り難う御座います。

夕べテレビをつけたら、ちょうど武田勝頼の話になっていました。『天地人』だった訳ですが、こんなとこで栄枯盛衰の歴史に興味をもつようになるのであれば、チャンと見ておけばよかったとイチマツ後悔しております。

スイミーさん・・知りたかった以上の事実がでてきたので感激でした。お坊さんのお名前、その土地柄、つなげていく事で、背景の歴史とあわせて、大河ドラマのように脚色したくなります。

お坊さんと遊女のはなし・・・伺っていると関連はないと思うようになりました。

それにしても、その時代、金のアリカを封じる為に滅亡とわかって家臣がすぐさま遊女を殺害したとなると、その家臣は後に、その場所を独り占めすることになります。

大概、独り占めなどできないで、首をしめた本人もまた首をしめられることになっていますので、失敗におわっていると思うのですが、金鉱跡などは残っているんですか?

私自身も、本題からずれてしまっていますが、あとでなんとか無理やりにでも、まとめたいと思っています。

できるかなぁ!?あせあせ(飛び散る汗)
右斜め上見出ししか見れませんでしたが、かなり参考になりました。

淵に突き落とされた花魁の数は55人・・・どうやって判ったんでしょうね!?

勝頼自身の判断だったのか、家臣たちの判断だったのか・・・口封じだって、金鉱で働く工夫が免れているのは、不思議です。

当然ばればれになりますよね。

江戸時代になって、採掘再開・・・ある程度して、鉱脈が枯れて閉山。

花魁の犠牲の意味が謎です。

生きたままで下流に流されついたとしても、人々は、お上の目を恐れて助けられなかったなんて・・・歴史って、けっこう凄い事をやっているんですね。



武田氏三代で終わっても、娘が上杉氏に嫁いでいるから、どんどん繋がっていくんですね。

血統と言うのは、あるにはあるんだけど、人間の場合は血統に関係がなく、肉体を越えた魂の部分で一致したりすると、妾の子であろうが、捨てられていた子であろうが、見方として迎えられる、そうゆう柔軟性みたいなものがありますね。

全然関係がなかったかもしれませんが。

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