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カズオ・イシグロの名残りコミュの『充たされざるもの』について感想・意見・解釈等

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こんにちわ。

主題の件について文庫本発売のお知らせトピックはありましたが、
感想や意見、解釈の仕方等々を自由に述べるトピックがなかったので作らせていただきます。

ぜひみなさんの考えをお聞かせください。

私は先ほど読み終えましたが・・・
正直なところ、考えがまとまりません!

コメント(15)

感想失礼致します。
学部生の時読んだのですが、読めば読むほど迷路に迷い込んでいくみたいで気持ち悪くなりました。
一言で言えば「悪夢」ですね。
通常ならありえない感覚でも、夢だったらありうるかも、という感じがしました。
時間に気を遣うべきなのに、のんきに休憩しているなんて、普通じゃありえないなあ、とか、散々あちこちへ行ったようなのに、単に喫茶店の周りを回っただけとか、眠っている間に見る夢のような感じだと思いました。
救いようのない、と言いますか、最後ゾフィと別れた後もこの悪夢は続いていくんだろうな、と思わせるようなラストに何だか落ち着かなかった覚えがあります。
色々思うことはありましたが、長々ととりとめのない感じになるのでこの辺にしておきます。
最初にトライした時が200ページ、次にトライしたのが半分止まり。
文庫本900ページは長いので、未だ読了しておりません。
ドストエフスキーは読んだので、読めないことはないと思っていますが、
『話がよく見えない』というのが感想です。またいずれトライします。
迷路または迷宮という表現があたっているのかもしれません。

主人公の語りであるが故に、語られない重要なことがあると思います。間接的には、その事実は確認出来るように思います。
そのことに気づいた時、ある程度の不可解さは氷解します。
(ネタバレになるので伏せますが)。
美文で、読んでいて楽しかったですが、翻訳は大変だったろうなあと思いました。
みなさん、様々なご意見ありがとうございます。
みなさんのご意見からは「夢」や「迷宮」、「不可解さ」といったような言葉が見られますから、そういった点に焦点を当てる、つまり、意味や道筋みたいなものを直接的に追おうとはせず、nyagさんのおっしゃるように”語られない部分”から読み取れることに意識を向けたり、「不可解さ」を不可解さのまま、受け入れて読む姿勢もまた必要なのかなと思いました。

私は小説を読むときには、何かしら作者の意図的なものを読み取ろうとしながら読むくせがあるものですから、この作品にはどんな意図が込められているんだろうと、必要以上に勘ぐってしまいまして。(そしてまた、カズオ・イシグロの初期作品は私にとってはメッセージ性が強くて感じるところが多かったものですから。)

あとがきによれば、もうリアリストと呼ばれたくなくて、このような作品を書いたとありましたが、現実=不可解である、ということを描いているのかとも思うと、やはりリアリズムなのでしょうか。

とりとめもなくなってきたので、ここで違う質問をしたいと思います。

カズオ・イシグロの他の作品と比較してどうでしょう?

私の印象としては、カズオ・イシグロの作品や取り上げるテーマは最終的には同じところに行きつくのかな、と思いますが、この作品を機に”問題”に対するアプローチの方法に変化が生じてるのかなと。

いかがでしょう。

この作品に、私は「意図するところ」を読み取り、自分なりに把握しているつもりです。
端的に言えば、芸術論と芸術が置かれた環境です。
枝葉末節を挙げて証明も自分なりに出来ますが、あくまで個人的解釈です。

作品の手法としては、『日の名残り』と共通するような気がします。

アプローチの変化は、私は作者の視線が
「過去」から「現在もしくは起こりうる未来」に向かうようになったのかなあ? と。未読の作品も多いので、はっきり言えませんが…。
nyagさん
差し支えなければ、nyagさんの個人的解釈で構いませんのでnyagさんの考えるこの作品の意図するところをもう少し具体的な形で教えていただければと・・・。

過去から現在もしくは未来ですか。
私が思う所ですと、この作品以前の作品は、言うなればある概念とそれにとって変わりつつある概念を通して世界の在り方を表現している一方で、この作品以降では混沌の中から世界の在り方を表現しようとしているような印象を受けます。カズオ・イシグロ作品の日の名残にだいひょうされるような主観的な過去の語りはそれが事実であったかどうかは別にして、非常に確定的であるような印象を与える一方、充されざるもののように、過去の語りもありますが、現在進行形で進んでいく作品は非常に非確定的な印象を受けます。しかし、不思議なことに、過去の方に信頼が置けなくなったり、進行形で起こる出来事に頭が追いつかなくとも、そちらの方に実感を持てたりします。
彼の作品は翻訳されたものだけですが、すべて読んでいます。ただ自分が素人読者なのでそれぞれの作品がどう関連し合い、どんな世界を作り上げているかみたいな全体像に関することはちゃんと把握できていません。ただ『充たされざる者に』ついて言えば、自分は登場人物達の言動や行為にある種の滑稽みを感じ、その点に着目して読み進めました。あの年季の入ったポーターの奇妙なダンスやホテルの支配人(だったと思う。ずいぶん前に読んだので記憶が曖昧です)が時折見せる鏡の前での奇怪な仕草さ、それから主人公の子供の思わず笑ってしまう駄々こね(反面、この子は何かを背負っていて、それは主人公の子供時代の投影でもあるんですが)。それらの滑稽さが作品の中でどう機能しているのか、あるいはそれはあくまで副次的なもので作者が読者の肩の力を抜かせるためのものに過ぎないのか、気になります。イシグロの作品の中でこの『充たされざる者』はいちばん(なんて表現したらいいのか)暗澹たる気持ちにさせる作品であり、かつもっともユーモラスな作品であると思うんですが、その点に関してはどうでしょう?(これまでほかの作品との関連性についてお話しされていたのに、なんか関係ない話してすいません)
日の名残りでもカップを運ぶ練習をする父など、ある種の滑稽さを感じさせるシークエンスはありますよね。私はそれ(冷静かつユーモラスなシチュエーション)がカズオ・イシグロのほとんどの作品に見られる特徴だと感じています。
それはさておき充たされざるものに関しては、「記憶の曖昧さ」を非常にラディカルなかたちで表現した作品だと思うのです。すべてライダースの視点からは語られてはいるけれど、確実に彼には知り得ない状況すら鮮明に描写される場面がしばしば登場し、さらにゾフィーとのストーリーに象徴されるようにエピソードの連なりに合理性(前後の連続性)がほとんど見られませんよね。それはすなわち、作品世界の中で、現在形で語られていることがまさに今起きていることである、という確証が存在しない、ということではないでしょうか。もしかしたらライダース自身が経験したことかもしれないし、または想像したことかもしれないし、はたまた本当に起こっていることかもしれない。そんな風に、時間的(、空間的)制限を無視してこのうえなく自由に記憶の混沌とした状態を表現した素晴らしい作品だと僕は思っています。
カズオ・イシグロは元々カフカのファンなので、彼なりの不条理な悲喜劇を書きたかったのではないでしょうか。

カフカの作品に通底している「自分は虫かもしれない」、「無実の罪を晴らすために無駄な堂々巡りをしているだけかもしれない」、「城には一生は入れないし、城から認められることもないかもしれない」、という人生を俯瞰して見たときの運命への洞察は、そのまま『充たされざる者』のライダーが経験する、「人々から重荷を背負わされるが、何も解決できない芸術家」というメタファーに非常に近しい印象を受けます。

ではこの作品以前の、また以降のイシグロの小説と、この『充たされざる者』はまったくかけ離れてしまっているのかというと、そんなことはなく、主人公の固定された視点から物語が語られて、読者は自己欺瞞や限定された情報によってしか真相を測りえない、という技法は共通しています。
また、『充たされざる者』は、間違いなくイシグロ作品の中で一番の異色作で、それ以前の作品はよりリアリズムの要素が強いといえるとは思いますが、じつはイシグロのすべての作品は主人公の内面世界を描いた、寓話なのではないでしょうか。

『充たされざる者』においてブラックユーモアの描写が顕著なのは(やはりカフカ作品と同じに)、この作品で描かれているような理不尽で問題が何一つ解決しない世界を、絶望的なものとは捉えないで、そこにユーモアやペーソスを見出すことで、不条理な人生を肯定しているように感じます。つまり「笑い」は事象の副産物ではなくて、それ自体が一つの重要な「救い」なのかもしれませんね。

>6 ぺ・ロッシ様

差し支えあるので、細かくは申しません(笑)。
他の人が自分で考えて、自分なりの読み方をすることを尊重したいからです。
(単純に、現在学生が居たとして、検索してここにたどり着いて論文を書いたとしたら、落第しかねない、というのもあります(苦笑))。

すみませんー! m(_ _)m
あ、「落第しかねない」というのは、単純に、
「検索して論文を書く」
という行為だけの問題です。

他の方の解釈を拝読するのは楽しいです。

駄文失礼いたしました。m(_ _)m
駄文のままではあれですので、話を元に戻します。

カズオイシグロのユーモアは、ヨーロッパ的であると思います。上品で、心が暖かくなる上等のユーモア。
けれど、カズオイシグロのユーモアは、どこか「泣き笑い」をしているような、そんな笑い方であるように思います。
悲しくて、笑い方も分からないけれど、笑っていたい、というような…。

個人的な印象ですが。(^_^;)
nyagさん>
いえいえ、構いませんよ。

9のカネディビッチさんのおっしゃる、

「「笑い」は事象の副産物ではなくて、それ自体が一つの重要な「救い」なのかもしれませんね。」

この文章を一番端的に表わしているカズオ・イシグロ作品は、『日の名残り』の執事スティーブンスがアメリカ人主人のゴミ収集車に対するアメリカンジョークに懸命にイギリス流ユーモアで応えた場面に集約されているんじゃないかなと思いました。


『充たされざるもの』から外れてしまいましたね・・・


>ペ・ロッシさん

『日の名残り』のラストは印象深いですよね。好きだなあ。

『充たされざる者』の結びに、ライダーが街を離れる列車に揺られながら、勝手に乗客たちとの楽しい車中の朝食を妄想しているのも、不思議な可笑しさがあります。
そういう風に人は思い込みで希望を繋いでいけるから、やっていける、先に進めるのかもしれません。
>>[14]

そういう風に人は思い込みで希望を繋いでいけるから、やっていける、先に進めるのかもしれません。

この一文にすべて集約される気がします。
色々困ることや面倒ごとが起こるけど、なんとかやり過ごして生きていく、不手際もたくさんあるけど、完璧にこなせる人なんか居なくて、みんなそれぞれ不手際を披露しながらなるようにまかせていく、

Let it be, life goes on.

とでもいいましょうか…。

生きて行くことは喜劇、という…。
悲しいことが起こっているはずなのに、読後感は不思議と悪くない。私はイシグロの作品ではこの小説が一番好きです。

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