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田中裕也コミュのカサ・バトリョ 1904-1906

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 正面に西陽が差す頃,きらきらゆらめく淡い反射光は,グラシア通りをいっそう宝石箱のように仕立て,モスグリーンの別珍の敷物のようなペイブメントは,そのきらめきを珠玉のごとく引き立てています。市民の多くは,これらが誰の作品なのかいまだに知らないようです。それほど、ガウディの作品が現代社会生活の中に溶け込んでいるのでしょうか。確かに今でもモニュメントといった大義名分だけで存在しているだけではなく,立派に人びとの利用する建築空間として成り立っているのです。
 この場所は,バルセロナで最も気品の高いグラシア通り43番で、隣には世紀末の華やかな時代に建てられた作品を配しています。一つは35番地にある“カサ・レオ・モネラ”(1905)で,もう一つは41番地の“カサ・アマトレル”です。前者は,建築家ホワン・マルトレルの門下生であったドメネク・モンタネルで,一時はガウディと一緒に1882年,バルセロナ大聖堂のファサード競技設計のためマルトレルの事務所で仕事をしていますが,1899年に,カタルニア国センターを結成した政治家でもあります。後者の作家は,ブーチ・イ・カダファルクで1907年に,征服王ハイメ1世生誕700年記念碑計画をガウディに依頼した建築家でもありますが,1902〜1903年にかけてバルセロナ市役所の議員も努めた政治家でした。彼らは,バルセロナ世紀末建築の先駆者たちでもあったわけです。
 一方、ガウディはこの華やかな建築家たちとは別に,ひたすら建築の世界,物を創造する世界でのみ生きたわけです。その彼が残した成熟期初期のこの作品は,1877年にルイス・サーレス・イ・サンチェによって建てられたごく一般的な5階建ての建物を,その後のガウディのサインと共に1904年,所有者ホセ・バトリョ・カサノバによって市へ改築申請が出されています。しかしその図面は,現在,目にすることができる正面ファーサードからは想像もつかないほどのラフスケッチで描かれていました。そのプロフィールは“グエル公園”の門番小屋に類似していますが,おそらく同じ日付で市に建築申請を出しているといった簡単な考え方では処理できないでしょう。しかし、同一時期に,まったく質の違ったアイデア展開が容易にできる物かどうかと考えた場合,むしろ何かしらの部分で一致することがあって当然ではないでしょうか。さらに,ガウディの弟子であり彫刻家であったホワン・マタマラのノートの中で,“カサ・バトリョ”は,“グエル公園”の反映であることを述べています。
 さて初めの調査は,建築家ルイス・ポネットによって描かれた図面と,ガウディ当時の申請図面に基づいて,中央パティオの階段室を実測しました。階段幅員1.2m,蹴上げ0.18m,踏面0.3mの寸法による階段で,その機能性は,実測中何度も昇り降りをしたのですが,あまり疲れさせません。
 手摺は,高さ0.85mで,この仮付けのとき,「スムーズに手が滑るかどうか,ガウディ自ら,手摺のカーブが滑らかになるまで二度,下から上まで往復した」ことをマタマラは述べています。階段桁は二重のT鋼を放物曲線上に使用していますが,その形はカタルニアボールトの手法による階段に酷似しています。中央エレベーターシャフトが配されたこの階段は,上部に昇るにつれ,そのスペースが狭くなっています。そのほか,中央パティオ面の窓も同じように開口面積が小さくなり,まだ壁面215mm角のスカイブルー色のタイルも,その彩度が低くされております。つまり各階への光の均一化が企てられたのだと思います。
 そのまま最上階に昇ると,放物線状のリブアーチが構成されて,その一部はペントハウス,つまり外からは恐竜の背中のような部分を支えています。ちなみに,この特殊な屋根瓦を作ったのは,セバスチャン・レボという人で,この出来には,ガウディも大変気に入ったそうです。
 この中央パティオの階段室は借家用ですが,次は所有者専用の階段室,つまり,入り口の奥,突当りに二重ドアがあり,それらを突き進むと,ムチなりの形をした木製の階段が納められた階段ホールがあります。それを昇っていくとサロン前室に出ます。今では,ある保険会社がこの建物を1954年にバトリョ家から約535万セペタ(823万円)で買い,その会社の受付として使っています。
 このあたりまでのサービススペースにおける自然光は都市計画の影響で中央パティオに面した部屋の採光が取りにくくなっていますが,この“カサ・パトリョ”については,所有者階つまり1階サロン前室と食堂部分がパティオ前に迫り出し,その部分の天井を滑り,波うたれた巾木や壁面のディテールを浮彫りにしています。ところで,その中にある4人用のアルコーブ型で,耐火性セラミックの仕上げがされている暖炉の排煙は,屋上にあるモザイクタイルで仕上げられている集合煙突兼階段室へと連絡しています。さて,さらに厚板ガラスが嵌められた唐戸をを開けてサロンに入ると,グラシア通りに面したギロチン窓が目に入ります。その波うつ開口は,うずまく天井・柱・壁,そして間仕切にまで影響しあっているかのようです。特にこの間仕切は,厚板ガラスが嵌められた可動式の間仕切で,うずまき天井による三次曲線は,木軸ステンドグラスの欄干によって干渉され,可動式間仕切部分では,山と谷が合うように折り畳むことができるわけです。ところで古文書によると,このサロンには祈祷所が設けられていましたが,1954年に,バトリョ家がこの家を売ったとき,ホセ・リモナの作による聖家族のタブローや天井のシャンデリアなどを,マドリードに引っ越した際に持ち出しています。
 さて,食堂の方を眺めてみますと,現在では,会社オフィスになっていて,当時の面影といったら裏パティオと間仕切,そして窓の傍に立っている二重柱があるのみです。実はこの二重柱は,ロマネスクの回廊によく使われる手法で,荷重の関係上,柱1本にするよりも2本にして柱の見かけのプロポーションをよくしているわけです。
 この柱の傍を通って裏パティオに出ますと,12角柱の植木があり、そのパティオの隣地境界壁には,底辺3m,高さ4mほどの放物線が描かれていてモザイクタイルや植木鉢などで装飾されています。ところが,この壁画装飾,それなりの理由があって,現在このパティオの底に当時設けられたと思われる壁面装飾の形状のバーゴラがあったことが,それらの形状と古文書によって判明しました。その中には前期の12角柱の植木が約1mピッチで両サイド合わせて12個設置されていたのです。この数字は“カサ・カルベ”のそれと一致します。またこのフラットバーで作られたと思われる放物線上のバーゴラは,ガウディ博物館の中庭に置かれている物に酷似しています。ところでこのパティオから裏面ファサードを見ると,最上階のファサードが他の階とは違って三次曲線で表現されていて,いかにも“カサ・ミラ”への予言にも見えます。
 またこの建物は二重構造になっていて,地階には当時換気口がグラシア通り面に3か所設けられていました。また壁も二重になっていて通気の便を図っているようですが,屋根についてはガウディ自身も「Les edificios han de tener doble cubierta, como las personalidades tienen sombrelo y sombrilla」つまり「建物は人々が帽子をかぶるように二重屋根でなければならない」と,ベルゴスの会話の中で述べているのです。スペインの太陽は不思議と強烈です。確かにアンダルシアの方では日中40度以上で農作業ができなくなるほどです。バルセロナでも夏場は35度以上が平均で,日射や通気対策は深刻な問題になっているのです。現在では,通気採光があった部分は撤去され,店舗のショーウィンドーになっています。
 普通,モニュメントとなれば,むやみに既存物を撤去するなど考えられないと思っていたのですが,それでは,時代の流れにそった利用する立場になっていないわけです。バルセロナには数えきれないほどのモニュメントや貴重な建築物があります。それらが市民の生活の中に溶け込んでいるとき,初めてその価値が評価されてきますし,建築については,保存も大切ですが,その市民に還元されていなければなりません。ガウディの作ったこの建物は,今でもモダンな雰囲気を醸し出しています。つまり,これが通俗的になるまでは,まだまだ年月がかかるということかもしれません。
 当時,この建物が作られた1904〜1906年は新芸術運動の真っただ中ではなかったでしょうか。彼はその中で世俗にとらわれずひたすら“サグラダ・ファミリア教会”のために,可能な限りの研究をし,その分身として民間建築の存在があったわけです。そのどれもが,伝統工芸に基づきながら,さらにそれらの特性を生かし可能性を追求していったと思います。そして“バトリョ”の外壁に利用されたモザイクタイルの効果,ボベタ・タビカーダによる二重屋根などは,“グエル公園”や“カサ・ミラ”と相互関係があるにしろ,それらのすべては“サグラダ・ファミリア教会”に還元されていったのではないでしょうか。
 しかし各作品どれもが通俗建築から逸脱するほどの特徴を表現していると思います。その当時のモデルニスタ(新芸術運動)たちの作品は,バロックとゴシックを合わせて半分にしたようなもので,どのモデルニスタの作品もディテールでは花の様式の装飾部分だけを変えられたといった形式のものが多いようです。一方ガウディはゴスペルとの会話の中で「El gotico es el abuso de circulo y un abuso es siempre algo fuera de ley y por tanto, no pued ser una armonia」(ゴシックは円の悪用であり,それは常に法則に反しているので調和していない)と述べています。彼はこのようにゴシックの欠陥を指摘しながらその改善を図っていたのです。そんなわけで“カサ・バトリョ”もその建築哲学の延長上に存在するのではないかと思うのです。

コメント(1)

へーーっ!知らなかったです。
もっと勉強してみますね。

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