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◆京の歴史と文化と人 【京都】コミュの◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(六)

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◆祇園祭(祗園御霊会)とスサノヲの謎(六)

◆◇◆祇園祭(祇園御霊会)、「神祭り」としての祇園祭、神幸祭と還幸祭

 豪華絢爛な山鉾巡行(※注1)は、いうならば祇園祭の「表」の顔であり、人々はそこにこの祭りの華やかさと豪華さに魅了され、平安絵巻が繰り広げられたハレの空間に酔いしれる。

 実は、これは八坂神社の神事ではなくて、各鉾町の町衆の祭りだ。八坂神社の祭りは別に、同時進行してるのである。メインは、神輿が八坂神社を出発する七月十七日の神幸祭と、還って来る七月二十四日の還幸祭だ。祇園祭は、約一月間かけて行われる長い祭りである。

 祇園祭は、山鉾とそれを取り巻く華やかなイメージのため、本来の神事が見落とされてしまっている。山鉾巡行の興奮が醒めやらぬ七月十七日夕刻、三基の御輿が八坂神社を出て、四条寺町の御旅所まで氏子区域を回る、いわゆる御輿渡御が行なわれる。

 七月十七日の神幸祭や七月二十四日の還幸祭は、「神祭り」としての祇園祭(本来の祇園祭)にとっては、山鉾巡行以上に重要な祭りであるはずなのだが、氏子以外の人たちにはほとんど意識されることなく、どちらかといえばひっそりと行なわれている。

 ましてこの御輿の渡御に、上久世から一人の稚児が奉仕することを知る者は少ないようだ。この稚児は、木製の駒頭を胸に抱いていることから、古くから「駒形稚児」「久世駒形稚児」(※注2)と呼ばれてきた。これらは人々からはあまり省みられることなく続けられてきたもので、まさに祇園祭の「本来の部分」といえる。

(※注1) 御輿渡御や「馬上十二鉾」と離れ、鉾衆や作り山などの練り歩きは町衆の「イベント」として神事から独立した性格を持ち始めた。室町時代中期頃から、「山鉾巡行」と、祇園社の神の「御旅所」への渡御という神事は互いに独立していく。

 このようにして古代の祇園会はすっかり姿を変えたが、疫神を慰めるために楽を囃したて、舞い踊るという行為とその意味は保たれ続ける。

 初期の山鉾は小規模で人が乗るという形ではなかったため、囃子方や舞方は鉾や作り山と一緒に練り歩いたのだと思われる。やがて中世末期から近世初期にかけて山鉾は巨大化し、鉾には車がつき、囃子方も乗り込むようになり、現在に近い姿になった。その背景には、京都の商人が財力を持ちはじめたことにある。

(※注2) 七月十七日の山鉾巡行が終わった夕刻、八坂神社を出発する御輿渡御に、上久世から一人の稚児が奉仕することを知る人は少ないのではないだろうか?。

 この稚児は木製の駒頭(馬の頭)を胸に抱いていることから、古くから「駒形稚児」とか「久世駒形稚児」と呼ばれてきた。この稚児は、旧上久世村の氏神である綾戸国中神社の御神体とされている木製の馬頭を胸に抱き、馬に乗って御輿の渡御に奉仕する。

 十七日の朝、上久世では村人から「お駒さん」とよばれて崇拝されている御神体の駒頭が入った櫃を、神社からその年の稚児を出す家に運び、床の間に安置する。やがて稚児は父親と綾戸国中神社の神主とともに、かつてから「中宿」と定められている祇園花見小路の原了廓家に向う。そこで御神体ははじめて櫃から取り出される。

 稚児はこの駒頭を首にかけ、中宿から騎馬で八坂神社に社参に向う。この時駒形稚児は騎馬のまま境内に入り、拝殿を三周して直接本殿に乗りつけるのだ。

 十万石の大名の格式を持つといわれる長刀鉾の稚児でさえ、境内前で下馬して徒歩で本殿に参拝するのに(「皇族下馬」)、駒形稚児は騎馬のまま本殿に乗りつけるというのは、まさにこの稚児がそれ相応の位を持ち、また祇園祭において非常に重要な役割を担ってきたことを物語っているといえる。


スサノヲ(スサノオ)

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