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ドゥルーズ=ガタリコミュの【研究】 ジャック・デリダ

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ここでは、ドゥルーズ=ガタリと共にポスト構造主義に分類される哲学者ジャック・デリダを取り上げます。

◆ジャック・デリダ
1930〜2004
アルジェリア生まれ。
1962年、エグムント・フッサール著『幾何学の起源』序文つきフランス語訳を出版。
1967年、『声と現象』『グラマトロジーについて』『エクリチュールと差異』を刊行、西欧形而上学のロゴス中心主義および音声文字中心主義に対して脱構築を企てる哲学者として知られるようになる。
1972年、『散種』『哲学の余白』『ポジシオン』刊行。
1974年、『弔鐘』刊行。
1977年、『有限会社abc』刊行。
1980年、『葉書』刊行。
1985年、『シボレート』刊行。
1993年、講演「マルクスの亡霊たち」

コメント(12)

ジャック・デリダ著、林好雄訳『声と現象』(ちくま学芸文庫、2005)

※フッサールの現象学においては、現在(プレゼンス)に優位を置いた記号概念となっており、音声文字や記号は生き生きとした世界の提示を、表象=代理=再現前化させるための道具として捉えられている。つまり、フッサールにおいては、私が話すのを聞く内的独語状態が理想となっており、音声文字や記号は表象=代理=再現前化目的の派生的なものにされている。
一方、デリダはエクリチュール(書かれたもの)を、書いた人の意図とは異なる意味を産出すると考えており、そこからルプレザンタシオン(表象=代理=再現前化)批判を展開する。
ジャック・デリダ著、若桑毅+野村英夫+阪上脩+川久保輝興訳『エクリチュールと差異 上 ルッセ、フーコー、ジャベス、レヴィナス、フッサール』(法政大学出版局、1977)
ジャック・デリダ著、梶谷温子+野村英夫+三好郁朗+若桑毅+阪上脩訳『エクリチュールと差異 下 アルトー、フロイト、バタイユ、レヴィ=ストロース』(法政大学出版局、1983)

※『クリティック』や『テル−ケル』といった雑誌に書かれた評論をまとめたもの。
弁証法や現象学などの哲学、精神分析学、文化人類学に触れた文章以外に、人間に可能な思考のリミットに接近した文学者を論じた文章が目立つ。
デリダは、これらを題材に、ディストラクション(破壊)ではなく、ディコンストラクション(脱構築)を行い、一見閉ざされたように見えるテクストのうちに「開口」や「無底」を見出そうとしている。
ジャック・デリダ著、足立和浩訳『根源の彼方に グラマトロジーについて 上・下』(現代思潮社、1983)

※グラマトロジーとは、エクリチュールの学を指す。
第一部「文字以前のエクリチュール」では、西欧哲学全体が音声中心主義で、ロゴス中心主義であるとし、ここから逃れることが出来れば、直線的エクリチュールとしての書物の終焉が起き、多次元的エクリチュールが始まるとされる。
第二部「自然・文化・エクリチュール」は、ルソー論である。デリダは、自然状態にある無文字文化の無垢の人々のもとに、エクリチュールという文化を持ち込んだ人々を批判するレヴィ=ストロースを、ジャン=ジャック・ルソーと同型の「自然に帰れ」という思想であるとし、善としての自然と悪としての文化というエクリチュールの効果としての二項対立が見られるとする。
ルソーは文字は音声の表象=代理であるという考えを持っており、「代補」と表現していた。デリダによると、ルソーは言語を使って、言語の起源を言語の外に造りだそうとしており、「代補」とは「差延作用の別名」であるという。
ジャック・デリダ著、白井健三郎訳『尖筆とエクリチュール〜ニーチェ・女・真理』(朝日出版社・エピステーメー叢書<22>、1979)

※「真理とは女である」というニーチェの言葉を媒介に、哲学者を「男」に、哲学を「隠蔽−開示」の物語として読み取り、「女」の側から、哲学という物語に憑かれる「男」を侮蔑する挑発的な哲学解体の書。
ジャック・デリダ著、林好雄+森本和夫+本間邦雄訳『言葉にのって〜哲学的スナップショット』(ちくま学芸文庫、2001)

※フランスのラジオ局フランス・キュルチュールで放送されたデリダの発言を、書物の体裁にまとめ直したもの。現象学やマルクス主義、他者に対する絶対的責任、正義と法律の関係など、ラジオ番組を基にしているだけに、比較的判り易い。
ジャック・デリダ著、廣瀬浩司+林好雄訳『死を与える』(ちくま学芸文庫、2004)

※キルケゴールの『おそれとおののき』やパトチュカの『異教的試論』を読解しつつ、『旧約聖書』「創世記」のアブラハムとイサクの話における絶対的責任と倫理の主題に迫る。
ジャック・デリダ著、中山元訳『パピエ・マシン 上 物質と記憶』(ちくま学芸文庫、2005)
ジャック・デリダ著、中山元訳『パピエ・マシン 下 パピエ・ジャーナル』(ちくま学芸文庫、2005)

※パピエ・マシンとは、ワードプロセッサー用の用紙のことを指す。ジャック・デリダはこの意味を拡大し、ポスト・グーテンベルグ時代のメディア論を展開しようとする。
ハイデッガーは、手書きと機械による打ち込みに対し、人間/機械の二項対立を持ち出すが、デリダはワードプロセッサーによる書法にも、手仕事の側面があるし、一方羽根ペンによる書法にも、テクネーに属する面があることを指摘し、この二項対立を突き崩そうとする。
デリダは、コンピュータによるカット&ペーストを評価するが、満足しているわけではない。なにかのテクストから切り取り、別のコンテクストに貼り付ける程度では、まだ散種には至らない。
デリダベースというデータベースをつくるプロジェクトのことが語られる。ここには、デリダ関連のテクストが入っており、簡単な索引で自在に引き出すことができるという。デリダは、この方が面白いと考える。
ジャック・デリダ著、高橋允昭訳『ポジシオン』(青土社、1988)

※三つの対談「含蓄的からみあい(アンリ・ロンスとの対話)」「記号学とグラマトロジー(ジュリア・クリステヴァとの対話)」「ポジシオン(ジャン=ルイ・ウードビーヌ、ギ・スカルベッタとの対話)」を収録。膨大な原注と訳注がつけられている。
「アポリア」買いましたが、未だ読んでません。
アポリア:行詰りの意〔広辞苑 第5版より引用〕
哲学は行き詰まりから始まるのかな・・・。
ジャック・デリダ著、林好雄訳『雄羊〜途切れない対話:二つの無限のあいだの、詩』(ちくま学芸文庫、2006)

※2003年ハイデルベルク大学で行われたハンス=ゲオルク・ガダマー記念講演を収録。ここでは「対話」を巡って、ガダマーの思想との共通点と差異が計られている。共通点とは、芸術作品の自律性、詩における自己対話といった性質であり、差異とはカダマーがそうした対話を最終的に「話者の意図」や「相互理解の善意志」に回収しようとするのに対し、「人間が言葉を語る」のではなく「言葉が語る」とするデリダは、そうした回収をロゴス中心主義の原初的暴力と受け止める点にある。カダマーとの内的対話を通じて思索を深めるデリダは、パウル・ツェランの「雄羊」の読解を通じて、詩こそが真の「対話」であると考えるに至る。

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