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桂米朝コミュの桂米朝師匠はノーベル文学賞

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ぼくはかねがね、桂米朝師匠がノーベル文学賞を取ったっておかしくないと思っている。大体、ぼくからいわせれば村上春樹なんかより米朝師匠のほうがはるかに日本文化に対する貢献度が高いのである。米朝師匠の最大の功績は落語を文学の領域まで昇華したことにある。ぼくは米朝師匠に間に合って本当によかったと思っている。
大阪出身の芥川賞作家の町田康が大の米朝ファンである。彼の作品は落語の多大な影響が読み取れる。もちろん、ぼくの作品だって落語の影響は計り知れない。式亭三馬や夏目漱石、永井荷風、井伏鱒二、太宰治、詩人の田村隆一さんだって、作品に落語の影響が色濃く残っている。小津安二郎の映画だって完全な落語である。文化・文政の頃から明治・大正時代に育った江戸っ子はみんな寄席に通っていた。正岡子規や小林秀雄、池波正太郎などもみんな落語通である。特に小林秀雄は志ん生に深く傾倒しており、絡み出すと声が一層甲高くなり、志ん生の声そっくりになったという。ちなみに田村隆一さんは先代文楽の追っかけで寄席をはしごしていて、大体行く先々には安岡章太郎がいたという。エッセイストの中野翠さんも書いているように「この世は落語」なのである。彼女は自分でも書いているように落語歴は浅いのだが、視点がおもしろいのでついつい読んでしまう。これは以前も書いたが、漱石の「吾輩は猫である」は古典落語のパロディである。日本の近代文学は古典落語の素養がないと決して読み解けないのである。落語は文学と不可分である。
米朝師匠の創作した落語に「一文笛」という名作がある。これを最近は東京の噺家が米朝師匠の許可も得ずに勝手にやっているのがいるが、ぼくはとんでもないことだと思っている。古今亭志ん朝師匠は「火焔太鼓」という落語を勝手に若手の噺家がやっていると、「あんちゃん、誰の許可を得てやっているんだ」と詰問したというのは有名なエピソードである。しかし、「火焔太鼓」は確かに古今亭のお家芸ではあるが、別に志ん生師匠の作品ではない。志ん朝師匠がそういうのもいかがなものかとぼくは思っている。しかし、「一文笛」は米朝師匠の作品である。米朝師匠が健在のいまは、断りを入れるのが筋であろう。
米朝師匠の師匠である、先代米團治師匠には「代書」という名作がある。いまの米團治さんも師匠方に習って、後世に残るような落語を創作することが悲願である。しかし、ぼくは米團治さんならきっとできると思っている。
ぼくは米團治さんと米朝談義に耽ることが無上の楽しみである。いつも米團治さんは思いもかけない米朝師匠の話をしてくれる。米朝師匠の弟子であった桂枝雀さんが売れてきて、ついに人気の面でも米朝師匠を上回るようになったとき、米朝師匠は枝雀さんに嫉妬したそうである。こういう話を聴くと、席亭冥利に尽きるのである。米朝師匠はもう落語はやらず、半ば引退しているが、ぼくはこれからも米朝師匠と米團治さんを応援していく。
米團治さんはいまごろ、フランスでフランス語による落語会をやっている頃である。

コメント(3)

>>[1]

「まめだ」は、笑芸作家の三田純一氏がお作りになった新作落語です。
三田氏の作品を演出・脚色されたのが米朝師です。

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