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アコースインミラクルズ ACIMコミュの「幻想は消えろ!」という戦い

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 コースを学び始めて少したった頃、少しからだの調子が悪かった時がありました。

 「体は幻想」「病気も幻想」と習っていた私は、(これは幻想なんだ。真実は他にあるはず。ホーリースピリットさま、私はこの幻想を手放したいと思います。どうか、真実を見させてください。)と祈りました。
 しかし、祈っても祈っても、体の調子はよくなりませんでした。

 そしてそれを実感する度に(もし、悪い病気だったらどうしよう。)と怖くて、益々ちからを込めて(真実を見させてください。奇跡を体験させてください。)と祈りました。

 癒しは全く訪れませんでした。

 こんなに祈っているのに、どうして?と、コースの先輩に相談しました。

 先輩はひとこと「病院行って、診てもらって来なさい。」

 。。。。これは、私が期待していたアドバイスとは違いました。
 私が期待していたのは、「奇跡を経験するために、どう、祈ればいいのか?」とか、「病気という幻想から開放される瞑想の仕方」なんかを教えてもらいたかったのです。

 「病院、ですかぁ?」
 
 気乗りのしない私に先輩は「そうよ。体調悪いんでしょ?心配なんでしょ?診てもらえばはっきりするじゃない。」

 私も心のどこかでそうは思っていたけれど、(病気というのは幻想なんだし、すべての問題は奇跡にしか解決出来ないんだし、病院に行くのではなくて、奇跡を求めることこそが、本当の癒しへの唯一の道なんじゃないの?)と、思っていたのです。

 しかしそれは違いました。

 私は「病気は(体は)幻想」だなんて考え、ちっとも受け入れていなかったのです。
 その証拠に私は、病院に行って診断されることを心の奥で凄く怖がっていました。
 そして、それだけではなく、他にもいろんな恐れを抱えていました。
 
 「酷い病気だったらどうしよう?」
 「もし、入院とかすることになったら?治療に時間を取られて日常生活に影響が出る。私にはやるべきことがいっぱいあって、そんなことしてる場合じゃないのに。」
 「(私はアメリカ在住で、その時は保険に入っていなかったので)高額の治療費が必要になったら?」
 
 などなど、様々な「恐れ」を抱えていました。
 
 そして、それらはとても不快なので、心の奥にぎゅっと押し込め、蓋をして、(嘘嘘。こんなの幻。恐れなんて無い無い。奇跡が解決してくれるはず!)と、思い込まそうとしていたのです。

 これは矛盾しています。

 口では「病気は幻想!!」と言いつつも、心の奥では病気を、自分の人生や幸せを左右する、強力で偉大な現実のものとしてしまっているのです。

 そして、それを直視しないことによって、私はその恐れをキープしているのです。

 「何でも手放しますから、奇跡を体験させてください。」と言いつつ、実際にやっていることは頑張って恐れを手放すまいとしがみついているのです。

 これでは奇跡も起こりようがありません。


 先輩はこういいました。

 「病気は幻想と、本当にそう信じるのなら、恐れずに向かい合うことが出来るはずでしょ?それをしないというのは、あなた自身が自分で癒しを体験することを先延ばしにしているだけよ。恐れをキープし続けようと頑張っているだけでしょ?病気は幻想だから無視してればいいなんて、それこそエゴの言い訳よね。」

 言い返す言葉もなく、私は観念して、病院の予約を取りました。

 予約の電話を切った時、やっと奇跡が起こりました。

 (どうして、今、私の体調が悪いのか。どうして、今、病院に行かなくてはならないのか。それが何を意味しているのか、私には解らない。解らないけど、これでいいんだ。何が起ころうと、私がそれに対して心を開いてさえいれば、それは全部『良きこと』に、『奇跡』になるんだから。もしかしたら、今病院に行くことで私が受け取るべきギフトが待っているのかもしれないし、私には解らなくても、全体にとって必要な何かがあるのかもしれない。私はただ、安心して、やるべきことをやってればいいんだ。行くべきところに行けばいいんだ。何も怖がる必要はないんだ。)
 
 大きな至福感と共に、そう思えたのです。

 
 久しぶりに大きな幸せと、安心感に包まれました。
 数日後に病院に行って検査を受けましたが、それはもう、「特別なこと」ではなくなっていました。
 「面倒なこと」「怖いこと」と、勝手に特別視していたのは私で、本当はこの世に「特別なこと」なんて何も無いんだと思い出しました。
 
 どんなことでもすべて等しく、「愛と喜びを経験するための機会」に出来るんだから。

 

 この経験から、「幻想は消えろ!!」と強く自分に言い聞かせなくてはならない時、実はそれを必死でキープしているのは自分自身なんだということを学びました。
 だから「消えろ!消えろ!」とどんなに強く思っても絶対に消えない。
 怖くても、勇気を持って向き合ってみないと「あ!本当に幻想なんだ!」とは実感出来ないようです。

 


 
 
 
 
 

 

コメント(722)

サマンサさん

>自我が想像の基盤なのでしょうか いえ 基盤というのは実在のはずです

>スピリット(真の自己:真我)である だから

>夢(自我自身も含め)は 自我が基盤なのではなく 実在が基盤なのです


コースの枠組みでいえば、

私たちほほんとうは神の子どもたちぴかぴか(新しい)(スピリット)ですよね。


イエスによれば、

スピリットぴかぴか(新しい)である私は、天国のベッドで、長いあいだ輪廻を繰り返すという夢を見続けています。

その夢のなかの 主人公である私はエゴ人影です、


スピリットぴかぴか(新しい)である私は、たくさんの悪夢のなかで、おそらく何千年も学び続けています、


スピリットの私ぴかぴか(新しい)が見ている、夢の中の主人公は私人影は、

幻の脳や体を本物だと信じ、幻の他者を裁いたり、疑ったり、憎んだりし続けます。


ほんとうの私ぴかぴか(新しい)は、何千年もずーっと天国のベッドで眠り続けているわけです。


私にとってはむずかしすぎるので、とりあえずここまで・・・


スピリットの私ぴかぴか(新しい)が見ている、夢の中の主人公人影である私は、

苦しみ続けていたとき、幾度となくさまざまな光ぴかぴか(新しい)の体験をしました。

その後しばらくして、「奇跡の教え」に出会いました。


そして、その教えを一生懸命学ぶようになりました。
サマンサさんのいわれている「現実の世界」というのは、

悪夢人影ではなく、奇跡ぴかぴか(新しい)にみちあふれた幸せな夢のことですか?
私は、最近は動画や映画をほとんど見ないのですが(若い頃はよく見たものですが)・・、

私たちはまさに、自分が主人公の映画を製作しているのでしょうね。


その映画が映されているのは、幻のスクリーン、つまり世界。

その映画は、私の心が制作し、私ひとりが見ている映像で、他者とは共有できないようです。

その映像は、私の心が寛大になるにつれて、恐ろしい映像から幸せな映像に変わっていくはず。


神の子どもたちが主人公で、自身によって監督・製作されたその映画は、

彼らの一生の物語をつづった映画なんでしょうね。


その数々の幻の映画はおそらく何千となくあって、どこかに保存されているのかもわーい(嬉しい顔)

私のこの幻の一生を、私の最高の名画にしたいですね。
私たちが主人公であり、監督・製作している映画というのは、

天国のベッドで、神の子どもたちが見ている、輪廻転生の夢の数々なんですよね。


イエスの「奇跡の教え」に出会ったからには、奇跡ぴかぴか(新しい)に満ちあふれた世界をみたいと思っています。
テキスト12章  「幸せな夢」がはじめてでてくるところです


神のやすらぎはあなたの過去の解釈を素通りしていきます。

神のやすらぎは今ここに在ります。

神は神の一人子を永遠に愛しておられ、神の一人子は父の愛に永遠に報います。


本当の世界(real world )は、まさに真実でありまさにあなたのものである、

この唯一のものを思いおこさせます。

というのも、あなたが時間を費やしてきた他のすべては消え去るからです。


しかし、その唯一のものは常にあなたのものです、神のギフトは神のひとり子のものだからです。

あなたの唯一の本質は、あなたに与えられています、

その本質によって、神は神と一つであるあなたを創造されたのです。
 

・・つづく・・・
ちなみに・・・

神のひとり子とは、キリスト(救世主)イエスのことです。
私は私の意識にはあまり興味がありません。

私の意識は、ホーリースピリットの声もエゴの声もキャッチするからです。

私はけっこう苦しみ続けてきたので、

エゴの声とホーリースピリットの声を区別できるようになりました。


エゴの声は、「私の考えが正しいよ」と言い続けます。

ホーリースピリットの声は、まさに天上から降ってくる、私にとってはとんでもないアイディアです。


そのおかげで、雑多な迷いごとに惑わされず、今しなければならないことをやり遂げられます。

今日も、ホーリースピリットに感謝の日でした。

瞬間、瞬間、見守られてるのって安心です。すべてはうまくいってます。




{707)のつづき

最初ののやすらかな夢を見れば、あなたはその夢に目覚めるでしょう。


あなたが作りだしたものを捨てて望ましいものを手に入れれば、

悪夢は『幸せな夢』に代わります。


その夢のなかにあなたが真に知覚したものがあるのです、

それはホーリースピリットが二種の知覚が存在する夢の世界を正すからです。


知っているものは正される必要はありません。

しかし、愛の夢は知っているものへ導きます。


そこでは恐ろしいものは何も見えないため、

愛の夢はあなたが知っているものを差しのべるのを歓迎します。


愛は迎え入れられるのを、時を待たず、待ち望んでいます、

『本当の世界』とは常にあったものを迎え入れることにすぎません。


喜びなさいと呼ぶ声は本当の世界にあるのですから、

あなたは嬉々として、失くしたものに気づきましたと答えるでしょう。


讃えなさい、父を、そして父の最も聖らかな一人子のまったくの正気を。
『本当の世界』 は real world の私の訳です。

奇跡講座では『実在世界』です。


私には、実在という言葉がなにか哲学的な、難しいもののように思えてしまうのです。


私たちにできることは、『幻の世界』から『本当の世界』へ移行することしかなくて、

それは、憎しみや悲しみや怒りや恐怖が存在するエゴの夢から、

思いやりや慈しみや奇跡(愛の発露)が交わされる、スピリットの夢へと移行する

ことではないかととらえています。


私たちの体の幻の目がみている世界は、まさに夢、幻なのですから、

私たちの心のありかた次第で、夢・幻である世界はどんどん変わっていくはずです。

私は、私の目にうつる小さな世界が幸せな世界になるよう祈り、ささやかな努力をしています。

たくさんの人がそうすれば、世界じゅうが幸せな世界になると思うのです。

それがイエスのが言われている 和解(Aeonement) ではないかと。
Atonement ・・打ち間違いしたので、ついでに・・この言葉は「贖罪」と訳されることもあるようですが、

at one ment のどこに罪があるのかちっともわからなくて・・・あせあせ(飛び散る汗)
 また、他のたとえを彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑に蒔いて置いた人のようなものである。人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。芽が生え出て実を結ぶと、同時に毒麦も現れて来た。

 しもべ達が来て、家の主人に言った、『ご主人様、畑にお蒔きになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦が生えてきたのですか』。主人は言った、『それは敵の仕業だ』。

 するとしもべ達が言った、『では行って、それを抜き集めましょうか』。主人は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。

 それからイエスは、群集を後に残して家に入られた。すると弟子たちは、みもとに来て言った、「畑の毒麦のたとえを説明してください」。 イエスは答えて言われた、

「良い種を蒔く者は、人の子である。畑は世界である。良い種と言うのは御国の子達で、毒麦は悪い者の子達である。それを蒔いた敵は悪魔である。

 収穫とは世の終わりのことで、刈る者は御使い達である。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもその通りになるであろう。人の子はその使い達をつかわし、つまずきとなる者と不法を行う者とを、ことごとく御国から取り集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。

 その時、義人達は彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くが良い」
                      
                                             マタイ13:24〜30、36〜43
臨死状態になって生還された三人の方から、そのときの体験を聴かせていただいたことがあります。


女性AさんとBさんは同様に死にかけていたとき、お花畑のなかを歩いていたそうです。ずいぶん前に聞いたお話なので詳細はあまり覚えていないのですが、それは幸せな体験だったそうです。

男性Cさんは、高校生のときバイク事故でやはり臨死状態になり、それは怖い閻魔さまに叱られたそうです。
生還されましたが、てんかん発作が起こるようになって、親元を離れて障害者施設で暮らしています。


「神と神が創造された魂たちは完全にお互いを頼みにしています。

魂たちの創造は完璧になされていますが、魂たちによる創造はいまだ完璧とはいえません。

神はご自身が頼みにするために魂たちを創造されたのです、神は彼らを完璧に創造なさったからです。

神は彼らにご自身の平安を与えられました、彼らが揺らがないよう、だまされなように。

あなたが恐ろしくなるときはいつも、だまされているのです。

あなたの心は魂に仕えていないのです。

それはまさに魂に日々の糧を与えないで飢えさせているということです。

神はただ慈悲のみを差しのべてくださいます。

あなたの言葉はただ慈悲のみを反射すべきです、

なぜなら、慈悲はあなたがすでに受領しているもの、そしてあなたが贈与すべきものだからです。・・」

(テキスト2章より)


ちなみに、閻魔さまに叱られたCさんは、ほんとうにおもしろくて優しく、潔癖で、親孝行です。

この世界には一人としてまったく同じ人がいないっていうのが、幻想世界の面白さですね。
>>[716]

>わたくしは以前 家来のいうことを信じこんでいて

>苦痛や罪悪感を 聖霊に「ポイ捨て」していた

>その結果 抑圧された恐怖がどんどんたまり

>いつのまにか 恐怖にふるえるような症状になってきた

>赦してるのに、なぜ?


恐怖ってなになのか・・私はよく分からないのです。

初めてフィンドホーンに行った初日の夕方、一人で街のお祭りに出かけ、海辺を歩き続けたときも怖くなかった。

海辺の道を歩きながら、西に沈む夕陽と東にのぼった満月がとても美しくて・・・

いろんな人に助けを乞い、助けを得て、カギのかかった真夜中の宿舎にたどりつき、真夜中のお茶会をしていたスタッフに頼んで中に入れてもらいました。同室の人たちは皆寝てました。

なんていうか・・・「聖霊に聴く」ことが一番大切で、そうすれば必ず目的地にたどりつくという体験でした。

私の目の前にいる人もみんな聖霊です。そう信じていれば、みんなが私を導いてくれてるのです。日々、感謝です。
そういえば、四国の叔母のお見舞いに行ったら、私がはいてるようなズボンがほしいっていうので、昨日やっと買いに行き、その帰り道で、偶然出会ったのが、離婚して小学生の女の子と暮らしている人でした。私を見つけてくれたみたい。わーーっ、お久しぶり!!

私が数年前に彼女をお寺の座禅会にお誘いしてご一緒したのですが、その後、私はとても忙しくなってずっとご無沙汰だったのです。ところが、彼女は欠かさず月二回の早朝座禅会に参加されてるんだそうです。

これもありがたいご縁、奇跡でした。久しぶりの座禅会楽しみです。

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