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2022年07月04日09:30

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ナマズ(地震)に殺されかけた豊臣秀吉。

昨日の日記では、文禄元年、豊臣秀吉が琵琶湖に生息するオオナマズを恐れ、京都所司代に「ふしんのなまつ(鯰)大事にて候まま(以下略)」と申し送り、伏見城の普請に取りかからせたところまでを書きました。
この伏見城は秀吉にとって隠居のための城でしたが、文禄3年には完成し、秀吉はこの城に移りました。ところが、この2年後、秀吉が最も恐れたことが起こりました。琵琶湖のオオナマズが暴れたのです。
文禄5年、閏7月1日、午前零時の真っ暗闇の中、突如として大地が揺れ動き、伏見城の石垣は音を立てて崩れ、五層の天守は跡形もなく崩れ落ちました。上臈女房73人、下女ら500人が建物の下敷きになって圧死する中で、悪運の強いことに、なんと秀吉は無事でした。
秀吉はほうほうの体(てい)で、小姓、ねね(政所)、側室の松之丸とともに本丸の大庭に逃れました。小姓らはこの白砂の大庭に屏風をめぐらせ、虎の敷皮を敷いて、秀吉らを中に入れ、その後、いくつもの篝火(かがりび)を焚いて、守りを固めました。
この混乱に乗じて、敵の暗殺者(忍びの者)などが襲来することを警戒したのです。実際、この伏見城の城下には、最大の仮想敵・徳川家康の屋敷があり、この日、家康はそこにいました。
庭の屏風の中で、しょんぼりしていた秀吉の前に、真っ先に駆けつけたのは、世渡り上手の細川忠興です。次に、子飼いの加藤清正が手勢300人を引き連れ、駆けつけてきたことで、秀吉はようやく生きた心地になりました。
その後、秀吉の怒りの矛先は、方広寺(ほうこうじ)の大仏に向けられました。「この大仏は伏見城を守れなかったのだ。役立たずめ!」と、八つ当たりぎみに大仏めがけて矢を放ったのです。

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