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2020年08月12日17:13

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〈独自〉「回天特攻隊員の遺書」作者存在せず 元海軍士官が創作疑い

 下記は、2020.8.11 付の 産経ニュース の記事です。

                記

 先の大戦で日本軍が開発した人間魚雷「回天」の搭乗員が書いたとされ、インターネット上に流布している「18歳の回天特攻隊員の遺書」の作者は実在しないことが11日、回天研究者ら関係者への取材で分かった。元海軍士官の男性(故人)の創作だった疑いが強い。男性は戦後、特攻隊員の遺書の収集に携わっており、研究者はこうした複数の遺書を基に創作した可能性を指摘している。(大森貴弘)

 《お母さん、私は後3時間で祖国のために散っていきます。胸は日本晴れ。(中略)お母さん。今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。でもやっぱりだめだろうな。お母さんは優しい人だったから。お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。私が一番怖いのは、母さんの涙です》

 この元回天特攻隊員の遺書とされるものが世に出たのは平成7年。元海軍士官の男性が皇学館大の戦没学徒慰霊祭で講演し、大学が講演録として冊子にまとめた。この中で男性は自身を回天の元搭乗員と名乗り、先に出撃した仲間の遺書として名前を出して披露。遺書そのものは家族に渡したとして示さなかった。

 男性は立命館大在学中、海軍に志願。海軍辞令公報によると、昭和19年12月に一等巡洋艦「八雲」配属の後、富山県の伏木港湾警備隊で少尉として終戦を迎えた。防衛研究所所蔵の回天搭乗員名簿に男性の名前はない。男性が遺書の作者として名前を出した人物は搭乗員の中にいるが、戦死の状況が異なる上、遺書に書かれている家族構成も実際とは違っていた。そもそも別の遺書を残しており、今回の遺書とは関係がなかった。

 回天の元搭乗員でつくる全国回天会は平成12年、講演録をまとめた皇学館大に抗議した。当時は存命中の元搭乗員も多く、男性の話の矛盾を突き止めたという。大学側は謝罪し、講演録の絶版を約束した。

 しかし講演録の販売は継続され、男性は各地で同様の講演を続けた。皇学館大は「担当者が不在のため詳細は分からない」という。動画投稿サイト「YouTube(ユーチューブ)」に男性が遺書の話を語る動画が配信され、回天の基地があった山口県周南(しゅうなん)市の観光協会が遺書の内容を手ぬぐいなどに印刷して販売、事実として定着した。

 男性は戦後、広島県に住み、地元自治体の広報誌によると19年に死亡した。関係者によると、生前は特攻隊員の遺書の収集に携わっていた。

 回天研究家の山本英輔氏は「似た内容の複数の遺書を組み合わせて創作した可能性がある。戦争当事者が少なくなる中、資料の創作や改竄(かいざん)はどこでも起きると考えるべきで、受け手の意識も問われる」と指摘。回天記念館(山口県周南市)の三崎英和研究員も「さまざまな状況を考えると創作と断定せざるを得ない。この遺書を信じて来館する人もおり、正確な情報を伝えたい」と話している。

                ◇

■回天 通常の魚雷に1人乗りの操縦席を設けることで命中率を高めようと、日本海軍が開発した特攻兵器。「天を回(めぐ)らし戦局を逆転させる」との願いが込められた。先の大戦中の昭和18年末、2人の青年士官が考案し上層部に開発を直訴したとされる。19年7月から搭乗員を募集。9月以降、山口県や大分県の計4基地で訓練が始まり、終戦までの9カ月間で延べ148人が出撃、106人が命を落とした。回天を搭載した潜水艦が撃沈されるなど、回天作戦全体の戦死者は1299人だった。

 https://www.sankei.com/life/news/200811/lif2008110044-n1.html
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