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2020年08月06日00:30

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8月6日の日記

今日の出来事:1439年−「二十一代集」の最後の勅撰和歌集「新続古今和歌集」が完成、1547年−舎利寺の戦い、1578年−上月城の戦い:尼子勝久が自刃し尼子氏が滅亡、1868年−戊辰戦争:天童藩家老・吉田大八自刃、1869年−戊辰戦争の官軍側戦死者を祀る神社として「東京招魂社(現・靖国神社)」が創建、1945年−第二次世界大戦:広島市へ原子爆弾投下、都城大空襲

今日は、「二十一代集」の最後の「新続古今和歌集」が完成です。勅撰和歌集は、天皇や上皇の命により編集された歌集の事です。905年の「古今和歌集」に始まり、1439年の「新続古今和歌集」まで、534年間で21の勅撰和歌集があり、総称して「二十一代集」と言います。この他に、1381年に南朝で編纂された「新葉和歌集」を準勅撰集としています。また、編集時期による分類として「三代集(古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集)」、「八代集(古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集、後拾遺和歌集、金葉和歌集、詞花和歌集、千載和歌集、新古今和歌集)」、「十三代集(新勅撰和歌集、続後撰和歌集、続古今和歌集、続拾遺和歌集、新後撰和歌集、玉葉和歌集、続千載和歌集、続後拾遺和歌集、風雅和歌集、新千載和歌集、新拾遺和歌集、新後拾遺和歌集、新続古今和歌集)」としています。

次に、舎利寺の戦いです。舎利寺の戦いは、摂津・東成郡の舎利寺周辺で行われた「応仁の乱」以降、鉄砲が伝来するまで畿内最大の戦いと言われる戦いです。「両細川の乱」で、細川氏の家督を細川高国と細川晴元が争っていました。細川一族で高国派の細川尹賢は、細川高国の家臣・香西元盛を謀殺しました。激怒した香西元盛の2人の兄・波多野稙通と柳本賢治に反乱を起こされ、「桂川原の戦い」で敗れました。その後、「大物崩れ」で細川高国が細川晴元に敗れて処刑され、翌日に摂津で細川尹賢も晴元派の木沢長政に殺害されました。その木沢長政も、細川晴元への反乱の末に「太平寺の戦い」で討死しました。対抗勢力を駆逐した細川晴元は畿内最大の大名となりましたが、高国派の残党が抵抗を続けていました。1542年、細川尹賢の子・氏綱が和泉で挙兵し、堺を包囲しましたが落とせずに三好長慶軍によって敗北しました。その後も、他の高国派と共に抵抗を繰り返しました。1546年、今度は河内守護代・遊佐長教が細川氏綱と組み、高屋城に迎え入れる準備を整えました。細川晴元は、家臣・三好長慶に討伐を命じました。三好長慶は、堺で細川・遊佐連合軍を攻撃する準備中に逆に包囲されてしまいましたが、会合衆らが仲立ちして退かせました。細川・遊佐連合軍は北上して大塚城を包囲しました。遊佐長教は計略を巡らし、三宅城の三宅国村、池田城の池田信正へ書状を送って、細川晴元を裏切らせました。三好長慶は大塚城の救出を断念し、弟・安宅冬康の水軍や阿波の細川持隆に援軍を要請し、2人の弟・三好義賢(実休)、十河一存らと合流する事にしました。その後、大塚城が落城して三宅国村や池田信正が謀反した事で、細川晴元は京都を離れて神尾山城へ避難しました。細川・遊佐連合軍は芥川山城を攻撃しました。三好長慶の同族・三好政長軍が細川・遊佐連合軍を後方から攻撃しましたが、城主・芥川孫十郎は開城してしまいました。ここまで連敗続きの三好軍でしたが、細川晴元軍が丹波・神尾山城から摂津に入国し、三好長慶の居城・越水城へ移動、安宅冬康の水軍や阿波から三好義賢軍や十河一存軍の援軍の軍船500船、兵2万が続々と集結すると状況は一変しました。1547年に12代将軍・足利義晴は、方針を変更して細川氏綱を支持しましたが、三好長慶軍は原田城、三宅城、芥川山城、池田城と摂津の諸城を落としていきました。近江守護・六角定頼が細川晴元に援軍を出し、三好軍が圧倒的に有利になりました。三好軍は丹波から畑に到着すると一帯を焼き払い、相国寺に2万の軍勢で陣を張りました。8月4日、足利軍は勝軍地蔵山城に自ら火を放ち、近江坂本へ逃亡しました。こうして、細川晴元は再度、京都を奪取しました。畿内をほぼ制圧した三好軍の残る敵は、高屋城にいる遊佐長教と細川氏綱となりました。8月6日、三好軍は榎並城に集結しました。各諸隊が高屋城を攻撃するため南下しました。この行動を察知した細川・遊佐連合軍は、高屋城を出立して北上しました。そして、舎利寺周辺で両軍が遭遇して激突しました。この「舎利寺の戦い」は矢戦から始まりましたが、後に総攻撃となって松浦興信隊が一番に前進、数時間で槍合戦となり、河内衆400名が討ち死に、四国衆も50名以上が討ち取られました。最終的には2000人が討死しました。この「舎利寺の戦い」で三好長慶の軍事力、才覚が畿内に知れ渡りました。「永正の錯乱」から始まった細川氏の争いが三好長慶が中心となる争いに変化し、以後は織田信長が畿内に侵攻するまで三好氏の軍事力が畿内に及ぶ事になります。

その次に、上月城の戦いです。上月城は播磨・美作・備前の三国の国境に位置する堅牢な山城です。毛利氏に属していた赤松政範や宇喜多直家が播州方面の軍事拠点としてこれを押さえて、毛利勢力圏の東方で事実上の最前線となっていました。しかし、織田氏が中国攻略に着手して播州に入ると、羽柴秀吉の攻撃を受けて陥落します(第一次上月城の戦い)。尼子勝久を担ぐ山中鹿之助ら、尼子氏再興軍がこの上月城の防衛を任されました。その後一時は、宇喜多氏が反攻によって奪還しましたが、再度織田軍の手に落ちました。別所氏が毛利氏側へ離反すると、東播磨の諸豪族の大半がこれに同調し、別所氏の本拠・三木城を中心に籠城戦を展開しました(三木合戦「三木城干殺し」)。吉川元春・小早川隆景の毛利軍は宇喜多直家の上月城再奪還に応じ、羽柴軍を牽制する事にしました。総大将の毛利輝元は吉田郡山城を出陣、山陽方面を担当する小早川隆景が三原城を出陣、山陰方面を担当する吉川元春も日野山城を出陣し、上月城攻略に向かいました。備前の宇喜多直家は出陣せず、弟の宇喜多忠家を派遣しました。毛利・村上水軍は播磨灘に展開し、海上の封鎖も完了しました。総動員兵力は3万以上、播州・姫路城に駐留していた羽柴軍を遥かに凌ぐ規模でした。別所長治の離反と毛利軍の出陣を受け、羽柴秀吉は直ちに織田信長へ援軍を要請しました。まず摂津の荒木村重の軍が合流しました。そして、秀吉は三木城の攻略を開始し、支城の野口城を陥落させました。毛利軍は毛利輝元軍が戦線から遠い備中高松城に本陣を置き、吉川元春・小早川隆景の主力が上月城へ進軍して包囲を開始しました(第二次上月城の戦い)。上月城を守るのは尼子勝久を総大将とする山中鹿之助・尼子氏久・尼子通久・神西元通ら3000でした。毛利軍が上月城に向かったとの報を受けた羽柴秀吉は、三木城の攻撃を継続させつつ、自らの手勢を率いて尼子軍支援のために高倉山に進出しました。圧倒的大軍で上月城を包囲した毛利軍ですが、積極的に攻撃に出ようとはせずに陣城を構築し、深い空堀や塹壕を掘り、塀を巡らして柵や逆茂木で防備を固めるという徹底ぶりで、完璧なまでの防御線を敷きました。さらに連日、法螺貝や太鼓を鳴らして威嚇行動を行って、兵糧攻めで城兵の戦意を喪失させる方針を取りました。織田軍にはさらに織田信忠を総大将として滝川一益、佐久間信盛、明智光秀、丹羽長秀、細川藤孝といった援軍が到着しましたが、信長の意図は三木城の攻略と毛利軍の足止めであり、神吉城・志方城・高砂城といった三木城の支城攻略に力を注ぎました。このため秀吉も上月城に手を出す事ができず、後詰めの見込みがない尼子軍は絶望的な状況に立たされました。秀吉は京都へ向かうと織田信長に指示を仰ぎました。しかし、あくまで播州平定を優先する信長の方針は変わらず、上月城の尼子軍は事実上の捨て駒として扱われました。やむを得ず高倉山の陣を引き払う事になった秀吉は、尼子軍に上月城の放棄・脱出を促す書状を出しました。しかし、尼子主従はこれに応じませんでした。滝川一益・丹羽長秀・明智光秀が毛利軍に備えるため、三日月山に布陣しました。羽柴軍・荒木村重軍は高倉山から書写山へ陣を移しました。こうして、尼子軍は城兵の助命を条件に開城・降伏し、尼子勝久・尼子氏久・尼子通久、そして勝久の嫡男である尼子豊若丸らが自刃しました。尼子再興軍の中心的人物であった山中鹿之助は捕虜となり、備後国鞆に送られる途中、備中国成羽で殺害されました。こうして上月城攻防戦は幕を閉じ、尼子氏は完全に滅亡しました。

その次の次に、戊辰戦争:天童藩家老・吉田大八自刃です。天童藩は、高畠への陣屋移転の経費や飢饉による税収減に悩まされていました。年貢の前借や藩士からの俸禄引割、紅花の専売制実施などを試みましたが、藩財政の改善には至りませんでした。特に下級藩士の生活は苦しく、吉田大八は救済策として駒作りの指導者を米沢藩から招聘し、将棋駒の内職を奨励しました。藩内には、武士が内職を行う事に批判的な勢力もありましたが、吉田大八は将棋が用兵の技量を育成するのに適した遊戯であり、駒を作る事は武士の本分に外れないと擁護しました。こうして、将棋駒の製造は明治時代以降も続けられ、後に全国生産量9割を占める天童の特産品へとなります。1868年、朝廷は「鳥羽・伏見の戦い」の首謀格とされた会津藩の追討を仙台藩など東北諸藩に命じ、奥羽鎮撫総督・九条道孝、副総督・澤為量らを東下させました。これに先立ち、天童藩は織田宗家という家格を評価されて鎮撫使の先導を任じられました。しかし、藩主・織田信学は病弱、世子の富久之助(後の信敏)は若年であった為、名代として家老・吉田大八が先導役に任命されました。先導役となった吉田大八は、薩摩藩、長州藩、仙台藩らの連合軍を率いて庄内藩と交戦しました。この「天童の戦い」の結果、陣屋は庄内藩兵の攻撃を受けて炎上しました。一方、鎮撫軍の内部では、戦闘を避けて穏便に和解を図ろうとする東北諸藩と、会津藩を討伐しようとする鎮撫総督との間で亀裂が生じていました。この亀裂は、会津藩や東北諸藩に対して厳しい態度をとった鎮撫軍参謀・世良修蔵の暗殺や「奥羽越列藩同盟」の結成に繋がりました。その結果、奥州は反鎮撫軍一色となりました。天童藩も先導役を辞退し、加盟せざるを得なくなりました。吉田大八は責任を取り、漆山村(現・山形市漆山)に蟄居しました。親交のあった長州藩士・桂太郎が蟄居中の吉田大八に逃亡を勧めましたが、「藩主に迷惑がかかる」と断りました。その後「奥羽越列藩同盟」からの圧力に対し、天童藩は吉田大八に死を賜る事にしました。吉田大八は、8月6日に天童・妙法寺の観月庵で絶命辞を残して切腹しました。「我のみは、涼しく聞くや、蝉の声」亨年27でした。吉田大八の業績は「戊辰戦争」終結後、高く評価されました。鎮撫軍総督・九条道孝が天童を訪れ、吉田大八の業績を称えて感謝状と100両の祭祀金を下賜したのをはじめ、太政官より200両が祭祀金として下賜されました。翌1969年には、明治天皇より200両の祭祀金が下賜されました。これらの祭祀金を元に吉田大八を祀る「素道軒守隆祠(現・天童護国神社)」が1871年に建立されました。さらに、1881年の「明治天皇東北巡幸」では、東村山郡郡役所で吉田大八の絶命辞を天覧し、遺児・吉田逸瀬と拝謁を行いました。1891年12月には「正五位」が追贈されました。1912年6月18日、老朽化した妙法寺観月庵の補修を契機に「吉田大八遺跡保存会」が結成されました。これは郷土の英雄・吉田大八の事跡を後世に伝える事を主目的とし、遺跡「観月庵」の保存・遺物の収集、講演会の開催、事績の編纂を行いました。2005年4月には、舞鶴山山頂に銅像が建立されました。

そのまた次に、東京招魂社(現・靖国神社)が創建です。東京招魂社は、幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり、嘉永6年(1853年)のペリー来航「黒船来航」以降に日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」と称して祀り、その柱数(柱は神を数える単位)は計246万6532柱にも及びます。「戊辰戦争」終戦後に、東征大総督・有栖川宮熾仁親王が戦没した官軍(新政府軍)将校の招魂祭を江戸城西丸広間で斎行しました。その後、太政官布告で京都東山に戦死者を祀る事が命ぜられました(現・京都霊山護国神社)。京都の河東操錬場で神祇官による嘉永6年以降の殉国者を慰霊する祭典が行われ、幕末維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが活発になりました。それらを受けて、大村益次郎が東京に「招魂社」を創建する事を献策すると、明治天皇の勅許を受けて現社地での「招魂社」創建が決定されました。新暦8月6日に五辻安仲が勅使として差遣され、時の軍務官知事・仁和寺宮嘉彰親王を祭主に戊辰の戦没者3588柱を合祀鎮祭、「東京招魂社」として創建されました。但「吾以靖国也(吾以つて国を靖んずるなり)」を典拠として明治天皇が命名し、1879年に「靖国神社」と改称されました。当初、祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていましたが、「日露戦争」を機に新たに「英霊」と称されるようになりました。この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていた事に由来します。本殿での祭神の神座は当初は1座でしたが、1959年に創建90年を記念して「台湾神宮」および「台南神社」に祀られていた北白川宮能久親王と、「蒙彊神社(張家口)」に祀られていた北白川宮永久王とを遷座合祀して1座を新たに設けました。現在の神座は、英霊を祀る1座と能久親王、永久王を祀る1座の2座です。祭神(246万6584柱)の内訳は、以下の通りです。
戊辰戦争(新政府軍のみ):7751柱
西南戦争(政府軍のみ):6971柱
台湾出兵:1130柱
江華島事件:2柱
壬午事変:14柱
京城事変:6柱
日清戦争:1万3619柱
義和団事件」1256柱
日露戦争:8万8429柱
第一次世界大戦:4850柱
青山里戦闘:11柱
済南事件:185柱
霧社事件:19柱
満洲事変:1万7176柱
日中戦争:19万1250柱
太平洋戦争:213万3915柱

そのまた次の次に、第二次世界大戦:広島市へ原子爆弾投下です。アメリカのトルーマン大統領が原爆投下の指令を承認し、ハンディ陸軍参謀総長代理からスパーツ陸軍戦略航空軍司令官(戦略航空隊総指揮官)に原爆投下が指令されました。グアム島の第20航空軍司令部からテニアン島の第509混成群団に、野戦命令13号が発令されました。B−29エノラ・ゲイ号は最後の原爆投下訓練を終了して、マリアナ諸島テニアン島北飛行場に帰還しました。第509混成部隊の観測用B−29が広島上空を飛び、「翌日の広島の天候は良好」とテニアン島に報告しました。そして、第509混成群団司令部から出撃命令35号が発令されます。ポール・ティベッツ陸軍大佐がエノラ・ゲイ(名前の由来になったのは彼の母親の名前)の搭乗員に出撃命令を伝えました。「今夜の我々の作戦は歴史的なものだ」 まず気象観測機のB−29が3機離陸しました。ストレートフラッシュ号は広島へ、ジャビット3世号は小倉へ、フルハウス号は長崎へ、その後、予備機のトップ・シークレット号が硫黄島へ向かいました。続いて、MK−1核爆弾リトルボーイを搭載したエノラ・ゲイが離陸しました。その離陸後、原爆の威力の記録を行う科学観測機(グレート・アーティスト号)が、更にその後に写真撮影機(ネセサリー・イーブル号)のB−29が飛び立ちました。この日、6機のB−29が原爆投下作戦に参加し、内4機が広島上空へ向かっていったのです。7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B−29の1機が広島上空に到達しました。クロード・イーザリー少佐のストレートフラッシュ号です。7時15分ごろ、ストレートフラッシュ号はテニアン島の第313航空団に気象報告を送信しました。この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、投下目標が広島に決定されました。原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要でした。8時すぎ、B−29の3機が日本側によって捕捉されました。8時13分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定しましたが、各機関への警報伝達は間に合いませんでした。8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認しました。中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していました。高度は9632m、まず原爆による風圧等の観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ落下させました。青空に目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されています。8時12分、エノラ・ゲイが攻撃始点(IP)に到達したことを、航法士カーク陸軍大尉は確認しました。自動操縦に切り替えられました。爆撃手フィアビー陸軍少佐はノルデン照準器に高度・対地速度・風向・気温・湿度等の入力をし、投下目標(AP)を相生橋に合わせました。相生橋は広島市の中央を流れる太田川が分岐する地点にかけられたT字型の橋です。特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できたため、目標に選ばれました。そして、8時15分17秒、原爆「リトルボーイ」が自動投下されました。3機のB−29は投下後、熱線や爆風の直撃による墜落を避けるためにバンクして進路を155度急旋回しました。再び手動操縦に切り替えたティベッツはB−29を激しい勢いで急降下させ、キャビンは一時無重力状態になりました。リトルボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下しました。間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約43秒間落下した後、相生橋よりやや東南の島病院付近高度約600メートルの上空で核分裂爆発を起こしました。14時58分、エノラ・ゲイ号は快晴のテニアン島の北飛行場に帰還し、戦略空軍総司令官カール・スパーツ少将から、ティベッツ大佐には栄誉十字章が、他の12人には銀星章が与えられました。その日は夕方から、第509混成部隊の将兵や科学者らによって、深夜まで盛大な祝賀パーティが催されました。さて、原爆が投下された広島ですが、爆心地500m圏内では閃光と衝撃波が殆ど同時に襲いました。巨大な爆風圧が建築物の大半を一瞬にして破壊しました。木造建築は全数が全壊しました。鉄筋コンクリート建築である産業奨励館は垂直方向の衝撃波を受けて天蓋部は鉄骨を残して消失、一部の外壁を残して大破しました。相生橋や元安橋の石の欄干も爆風で飛ばされました。また強力な熱線により屋外にいた人は、内臓組織に至るまで全身の水分が蒸発・炭化し、遺体が道路などに大量に残されました。爆心地を通過していた路面電車は炎上したまま遺骸を乗せて、慣性力で暫く走り続けました。吊革を手で持った形のままの人や、運転台でマスター・コントローラーを握ったまま死んだ女性運転士もいました。投下直後は一寸先も見えない闇の世界でした。原子雲と爆風で舞い上げられた大量の粉塵が太陽の光を完全に遮断したためです。その闇の中で、高温に熱せられた木造建築物等の発火が始まりました。その後猛烈な火と煙の中、中島町を北進し相生橋を経て西方面の己斐方面へ脱出、その後、高熱・下痢・歯茎からの出血などの放射線の急性症状で死線をさまようも奇跡的に生存しました。以上は、野村英三の証言です。野村英三は、唯一の爆心地からの生存者として1982年に亡くなるまで貴重な証言を残しました。爆心地から500m以内では、即死および即日死の死亡率が約90%を越え、500m〜1km以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60〜70%に及びました。さらに生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25%が死亡しました。11月までの集計では、爆心地から500m以内での被爆者は98〜99%が死亡し、500mから1km以内での被爆者は、約90%が死亡しました。1945年の8月から12月の間の被爆死亡者は、約12万人と推定されています。原爆が投下された際に広島市内には米軍捕虜十数名が収容されていましたが全員が被爆死しています。この米軍捕虜は7月28日に呉軍港空襲を行って戦艦「榛名」に撃墜された米軍爆撃機B−24(タロア号・ロンサムレディ号・その他)の乗組員でした。彼らは憲兵隊司令部がある広島市に移送された直後に被爆しました。広島の原爆は実戦で使われた世界最初の核兵器となりました。この一発の兵器により当時の広島市の人口35万人のうち約14万人が死亡しました。原爆ドームの名で知られる広島平和記念碑は、日本の広島市に投下された原子爆弾の惨禍を今に伝える記念碑(被爆建造物)です。元は広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていました。1996年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。このとき、アメリカ合衆国は原爆ドームの登録に強く反対し、調査報告書から、「世界で初めて使用された核兵器」との文言を削除させました(アメリカ国民の中では「原爆使用は百万人のアメリカ軍将兵をダウンフォール作戦での戦没から救った」とする原爆投下を肯定的に捉えている傾向が強い)。また、中華人民共和国は、「日本は戦争への反省が足りない」として審議を棄権しています。この原爆ドームは「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、負の世界遺産と呼ばれています。

最後に、第二次世界大戦:都城大空襲です。米軍は沖縄本島への上陸に先立ち、南九州全域の軍事施設を攻撃しました。都城は、昭和20年3月18日早朝に初めて空爆され、以降終戦までの無差別爆撃によって多くの人命が奪われました。8月6日の正午過ぎから始まった空襲は、市街地の西部地域に焼夷弾を投下した第一波から、消火活動の妨害のための機銃掃射を繰り返した第四波攻撃まで続き、松元・八幡・牟田・宮丸・姫城・大王・上町・中町・前田・平江・小松原の各町が焼失しました。都城駅も全焼しました。街は戦後いち早く復興しましたが、空襲犠牲者については半世紀余も放置されてきました。戦後50年の行事を機に「都城空襲犠牲者の掌握なしに、都城の戦後は終わらない」と調査が始められ、44名の子供を含む88名の犠牲者が判明しました。そして、心から犠牲者を悼むとともに恒久平和を誓い、平成11年8月に追悼碑を建立しました。

今日の誕生日:後鳥羽天皇(第82代天皇)、林子平、アレクサンダー・フレミング、結城貢、市川團十郎(12代目)、堺正章(元ザ・スパイダース)、三遊亭好楽、高橋克彦、辰巳琢郎、古田敦也、秋田豊、丸岡いずみ、星田英利(旧ほっしゃん。元チュパチャップス)、椎名純平、さかなクン、奥菜恵、久保康友、夏目三久、渚(尼神インター)、窪田正孝、二階堂高嗣(Kis−My−Ft2、舞祭組)、中田花奈(乃木坂46)、石田佳蓮(元アイドリング!!!28号)、山本彩加(NMB48)、ハム太郎

今日の記念日:広島原爆忌・広島平和記念日・原爆死没者慰霊式、雨水の日、太陽熱発電の日、ハムの日、ハンサムの日、バルーンの日

今日の「今日訓」:まずは、広島へ黙祷! 本日は、1945年8月6日午前8時15分に、米軍のB−29爆撃機「エノラ・ゲイ」により、原子爆弾「リトルボーイ」が広島に投下されました。これにより、一瞬のうちに14万人が死亡し、市街は壊滅しました。この歴史的悲劇から目をそむけないために、犠牲者の霊を慰め、世界平和を祈るために、広島市では「原爆慰霊祭」が行われます。この事から「広島原爆忌」、「広島平和記念日」、「原爆死没者慰霊式」となりました。1994年、東京都墨田区で「雨水利用国際会議」が開かれた事で「雨水の日」、1981年、香川県仁尾町(現 三豊市)の電源開発・仁尾太陽熱試験発電所で世界初の太陽熱発電が行われた事で「太陽熱発電の日」、「ハ(8)ム(6)」の語呂合わせで「ハムの日」、「ハ(8)ンサム(6)」の語呂合わせで「ハンサムの日」、「バ(8)ルー(6)ン」の語呂合わせで「バルーンの日」となりました。
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