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2020年05月30日01:00

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5月30日の日記

今日の出来事:1431年−百年戦争:ジャンヌ・ダルクがイギリス軍により火刑、1863年−清河八郎暗殺、1877年−西南戦争:大野の戦い、1999年−西村博之が巨大掲示板群「2ちゃんねる」を開設

今日は、百年戦争:ジャンヌ・ダルクがイギリス軍により火刑です。ジャンヌ・ダルクは、フランスの国民的英雄です。ジャンヌ・ダルクは「オルレアン解放」に貢献し、イングランド軍を撤退させました。オルレアンは7ヶ月以上にわたる包囲網から解放されました。その後、ジャンヌ・ダルクはロシュ城にいた王太子シャルルの下に馳せ参じ、ノートルダム大聖堂で戴冠式を挙げさせました。フランス国王シャルル7世の誕生です。その後、ジャンヌ・ダルクは宮廷内で孤立してしまいました。首都であるパリを奪還する事なくしてシャルル7世の地位は磐石にはならないと考えるジャンヌ・ダルクやアランソン公などに対して、国王側近は現状の成果に甘んじてこの方針に反対したため、ジャンヌ・ダルクは孤独な戦いを強いられるようになりました。ジャンヌ・ダルクは「コンピエーニュの戦い」でフィリップ善良公のブルゴーニュ軍に捕えられました。その後、1万リーブルの身代金と引き替えにブルゴーニュ軍からイングランド軍に身柄が引き渡され、ルーアンのブーヴルイユ城に監禁されました。こうして、ルーアンで異端審問裁判が始まりました。実際に裁判を指揮したのはイングランド側の意向を強く受けた、代理裁判長ピエール・コーション司教でした。サン=トゥアン修道院の仮設法廷で判決が言い渡され、ジャンヌ・ダルクは火刑に処されるはずでしたが、判決読み上げの途中でジャンヌ・ダルクは異端である事を認め、教会の指示に従って改宗する事を告げました。ジャンヌ・ダルクは改宗に応じて悔悛したため極刑は免れ、永久入牢となりました。しかし、女性の服装に戻っていたはずのジャンヌ・ダルクは、再び男装に戻りました。ジャンヌ・ダルクは教会の牢ではなくイングランド軍の牢に監禁されていたため、看守らの性的脅迫に晒されていたのでした。一度改宗した者が再び異端に戻る「異端再犯」は、もはや説得し救済する事はできないとして、極刑を免れることはできません。ジャンヌ・ダルクは異端者として教会から破門とイングランド軍による即時死刑を宣告され、ルーアン市内のヴィエ・マルシェ広場で火刑に処されました。火刑は中世ヨーロッパのキリスト教的世界に於いて、処刑される者にとって最も苛烈な刑罰でした。遺体が燃やされて灰になってしまっては「最後の審判」の際に復活すべき体がなくなってしまう、という宗教的なものでした。ジャンヌ・ダルクの亡骸の灰は、セーヌ川に流されました。灰さえも残さず決して土に返さないという遺体の取り扱いも、当時としては最も苛烈なものでした。こうして、ジャンヌ・ダルクは19年の短い生涯を終えました。その後、シャルル7世がイングランド軍を打ち破り、ルーアンに入城しました。シャルル7世の命令でジャンヌ・ダルクの裁判の調査が行われました。調査の結果、ローマ教皇カリストゥス3世は裁判のやり直しを命じ、ジャンヌの母、イザベル・ロメの訴えによりジャンヌ・ダルクの復権裁判が行われました。かつてジャンヌ・ダルクと共に戦ったデュノワ伯ジャンや、オルレアンの市民たちを含めた115名の証人が呼ばれました。こうしてジャンヌ・ダルクが火刑にされた地であるルーアンにて、処刑裁判の破棄が宣告されました。それから、ジャンヌ・ダルクはローマ教皇ピウス10世によって列福され、次いでベネディクトゥス15世によって列聖され、聖人となりました。

次に、清河八郎暗殺です。清河八郎は庄内藩出身の志士で、浪士組(新選組・新徴組の前身)を結成し、「虎尾の会」を率いて維新の火付け役となった人物です。北辰一刀流の開祖・千葉周作の玄武館で剣を磨いて免許皆伝を取得、江戸幕府の学問所昌平黌で学びました。その後、清河塾を開設しました。当時、江戸市中で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけでした。「桜田門外の変」に強い衝撃を受け、倒幕・尊王攘夷の思想を強めました。この事件を契機に、清河塾に憂国の士が集まりました。その中には幕臣の山岡鉄舟・笠井伊蔵・松岡万、薩摩藩の伊牟田尚平・樋渡八兵衛・神田橋直助・益満休之助、同門であった安積五郎らがいました。また、池田徳太郎・中村貞太郎・西川練造・村上俊五郎・石坂宗順などとも交わりました。そして、清河八郎を盟主として「虎尾の会」を結成しました。発起人は山岡鉄太郎ら15名でした。横浜外国人居留地を焼き討ちし、尊王攘夷の精神を鼓舞する「倒幕」の計画を立てましたが、この密計が幕府の知るところとなりました。そして、罵詈雑言を浴びせてきた者を斬り捨てたため、幕府に追われる立場となりました。このとき、笠井伊蔵・中村貞太郎・西川練造らは捕縛され、獄死しました。その後、清河八郎は京に潜伏したり、諸国を回って「倒幕運動」を続けました。山岡鉄舟らを通して松平春嶽(幕府政事総裁)に「急務三策(1.攘夷の断行、2.大赦の発令、3.天下の英材の教育)」を上書しました。尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し、松平忠敏のもとに「浪士組」が結成されました。なんと清河八郎は上手く幕府を出し抜いて、今度は「佐幕派」を京都に集めました。将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として清河八郎は盟主として「浪士組」を率いて京都へ出発しました。京都に到着した夜、清河八郎は浪士を壬生の新徳寺に集めると、本当の目的は将軍警護ではなく「尊王攘夷」の先鋒にあると述べました。鵜殿鳩翁が「浪士組」隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留する事を希望する者の取りまとめを依頼し、「攘夷」に反対した根岸友山・芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが残留し、清河八郎と袂を分かちました。これが後の「壬生浪士組(新選組)」結成のきっかけとなりました。それでも清河八郎に従った200名は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て受理されました。このような「浪士組」の動静に不安を抱いた幕府は「浪士組」を江戸へ呼び戻しました。清河八郎は江戸に戻った後、「浪士組」を動かそうとしましたが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていました。幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎・逸見又四郎・高久半之助・中山周助・徳永昇の6名によって麻布一ノ橋(現麻布十番商店街)で討たれ、首を切られました。佐々木只三郎が清河八郎に声を掛け、佐々木只三郎が編笠を脱いでいたので、礼儀に則して清河八郎も取ろうとした瞬間に抜打ちに斬りつけ、後は残りの人数で囲み、斬り伏せました。清河八郎の死後、幕府は「浪士組」を「新徴組」と改名し、庄内藩預かりとしました。

その次に、西南戦争:大野の戦いです。5月5日、田ノ浦に政府軍が上陸しました。材木村は田ノ浦から人吉に通じる要路であったため、「鵬翼隊」は材木村に見張りを置き、大野口を守備しました。5月6日、政府軍が材木村の「鵬翼隊」を攻めました。薩摩軍はこれを迎え撃ち、佐敷に退却させました。5月9日、政府軍は再び材木村の「鵬翼隊」を攻めました。激戦が行われましたが、薩摩軍は敗れて長園村に退きました。この時、淵辺群平が本営より「干城隊」を応援に派遣し、政府軍を挟み撃ち攻撃で翻弄して塁を取り戻しました。また、一ノ瀬の「鵬翼隊」は材木村の薩摩軍と共に、塁の奪還に成功しました。さらに「鵬翼隊」、「干城隊」、その他諸隊は佐敷方面湯ノ浦の政府軍を攻めましたが失敗し、大野に退却しました。5月16日、政府軍が一ノ瀬の「鵬翼隊」を攻撃しました。薩摩軍は苦戦しましたが、大野からきた「干城隊」の参戦により政府軍を退けました。5月20日、別働第3旅団が久木野に進入しました。大野本営にいた淵辺群平は「干城隊」に命令して久木野の政府軍を襲撃させ、これを退却させました。この戦いは薩摩軍の圧勝となり、銃器や弾薬、その他の物品を多く得ました。5月22日、淵辺群平は佐敷口の湯ノ浦に進撃する事を決め、「干城隊」三・四番中隊、「鵬翼隊」六番中隊、その他2隊に進軍を命じました。またこの日、大野の本営にいた辺見十郎太は久木野に進撃する事を決意し、淵辺群平に応援を要求しました。淵辺群平は「干城隊」八番中隊を久木野に寄越しました。そこで、たまたま大野口から湯ノ浦に進撃していた「干城隊」三・四番中隊と合流し、政府軍を退けました。5月23日、別働第三旅団が倉谷・高平・大野方面の薩摩軍を次々と破り、大野に進入してきました。「鵬翼隊」五番中隊左小隊、「干城隊」二番中隊は防戦しましたが、敗れて石河内に退却しました。久木野にいた「干城隊」八番中隊も参戦しようとしましたが、大野の塁は政府軍に奪われてしまいました。淵辺群平は、塁を奪還するため夜襲を命じましたが、政府軍の反撃で退却しました。この日、一ノ瀬の「鵬翼隊」三番中隊の塁にも政府軍が襲来しました。三番中隊は大野口の敗報を聞き、左小隊を鎌瀬、右小隊を植柘に分けて退きました。その後、神ノ瀬方面も敗れたという報告を聞き、舞床に退きました。「鵬翼隊」二番中隊は岩棚より程角道三方堺に退却しました。5月28日明け方、政府軍が舞床の「鵬翼隊」三番中隊を襲いました。この日は防戦に成功しましたが、政府軍は5月29日に再び「鵬翼隊」三番中隊右半隊を攻撃しました。薩摩軍は塁を捨てて後退しましたが、「鵬翼隊」の活躍により塁を取り返し、銃器・弾薬を得ました。この夜、三方堺の「鵬翼隊」も襲われ、弾薬不足のため背進しました。このため、舞床の薩摩軍は鵯越に退きました。札松方面の「鵬翼隊」が人吉に退却したため、「振武隊」、「干城隊」は程角越の応援のために進撃し、「振武隊」は程角本道の守備を開始しました。「鵬翼隊」も同じく程角越に進撃しました。5月30日の夜明け頃、政府軍が程角左翼の塁を攻撃し、薩摩軍は敗北しました。政府軍は勢いに乗じて「干城隊」、「振武隊」を攻めました。薩摩軍各隊は苦戦し、次々と兵を原田村に引き揚げました。激しい攻防が続き、勝敗は決まらず夜になりました。翌日、薩摩軍各隊は原田村に兵を配置しました。6月1日早朝、諸道の政府軍が人吉に向かって進撃しました。諸方面の薩摩軍はすべて敗れ、人吉や大畑に退却しました。これを知った中神村の「鵬翼隊」、「雷撃隊」、「破竹隊」、その他2隊、鵯越の「鵬翼隊」、戸ノ原の「鵬翼隊」等の諸隊は大畑に退却しました。原田村の「干城隊」、「振武隊」、「鵬翼隊」、郷之原の「破竹隊」、深上の「雷撃隊」、馬場村の「雷撃隊」等は人吉の危機を聞き、戦いながら人吉に向かいました。

最後に、「2ちゃんねる」開設です。「2ちゃんねる」は、日本最大の電子掲示板サイトです。「2ちゃんねる」の前身は西村博之が1998年に開設した掲示板「交通違反の揉み消し方」と言われています。開設趣旨については、スレッドフロート型掲示板群「あめぞう」のサーバ不調をうけて、これを事実上引き継ぎ、「あめぞう」を1チャンネルとして、その次の掲示板である事により付けられました。「2ちゃんねる」の元となった「あめぞう」がスクリプト荒らしなどに苦しんでいた時期に避難所として設立されました。その後「あめぞう」が閉鎖され、多くのユーザーが「2ちゃんねる」に移動しました。2000年5月3日には「西鉄バスジャック事件」が起き、犯人が「2ちゃんねる」の利用者であった事から、マスコミで「2ちゃんねる」が取り上げられ、利用者が大幅に増加しました。西村博之(通称「ひろゆき」)、中尾嘉宏(ハンドル名「夜勤 ★」「FOX ★」)のほか、削除人などで構成される運営陣によって管理されていましたが、2009年1月2日に、エフェンディ・アハメド・ハリス・メリカンという人物が社長を務めるシンガポール企業「PACKET MONSTER INC.」に譲渡されたと発表されましたが、実態は不明でした。2012年3月になり、この「パケットモンスター」という企業は運営実態のないペーパーカンパニーであり、管理は引き続き日本で行われている事が判明しました。

今日の誕生日:大村益次郎、左とん平、大野雄二、高嶋仁、大林雅美、ヒロ・ヤマガタ、火野正平、中村公晴(元クリスタルキング)、三ツ木清隆、中村勘三郎(18代目)、中村久美、松本玲二(TUBE)、吉川十和子、満島真之介、ユナ(少女時代)、福士蒼汰、小嶋真子(元AKB48)、双子座のサガ、双子座のカノン

今日の記念日:消費者の日、ごみゼロの日、掃除機の日

今日の「今日訓」:本日は、1968年に「消費者保護基本法」が公布・施行された事で「消費者の日」、「ゴ(5)ミ(3)ゼロ(0)」の語呂合わせで「ごみゼロの日」、1986年から「お掃除の日」として実施され、1997年に「掃除機の日」に改称されました。
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