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2020年05月23日22:12

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ドゥーチュィムニー「重症だった少年はどこに?沖縄ジェット機墜落事故の“当事者”たちのその後」

 1959年6月30日、沖縄県、現在のうるま市にある宮森小学校に米軍のジェット機が墜落する事故が起きた。



あれから60年が経過し、この事件を風化させまいと立ち上がった当時の在校生たち。NPO法人「石川・宮森630会」と名付け、事故の「記憶」を「記録」する活動を続けてきた。

事故の当事者であり、メンバーである久高政治さん(71)、稲福晃さん(67)、伊波洋正さん(66)の活動に密着。

彼らが聞く当事者たちの声から事故後の惨状、そして事故がその後の人生に与えた影響が明らかになっていく。

後編では、当時のアメリカ軍の記録、パイロットの行く末、また、事故が人生にくらい影を落とした少年の消息を追う。


【前編】沖縄ジェット機墜落事故の記憶を残したい…事故“当事者”たちの思い
アメリカ軍の事故の記録は非公開…
「宮森小学校ジェット機墜落事故」は、児童ら18人が死亡、210人が重軽傷を負った。戦後沖縄の歴史の中で最大の被害を出した航空機事故だ。

当事者であるアメリカ軍は、事故をどのように記録していたのか。

アラバマ州にあるマックスウェル空軍基地では、アメリカ空軍すべての記録を保管している。

事故機が所属していたのは、嘉手納空軍基地。事故が起こった1959年6月の報告書の閲覧を求めたが非公開だった。

アメリカ軍の司令部は、半年ごとに年次報告書を作成している。

しかし、1959年1月から6月の報告書は非公開となり、「秘密扱い」で閲覧は不可。公開できるのは文書の目次のみだという。

公開された報告書の目次の第2章には、“石川の悲劇”と記されていた。ここには何が書かれているのだろうか。

通常アメリカでは、公文書は25年後をめどに公開されるが、60年経っても公開できない理由は何なのだろうか…。
当時のパイロットは今…
630会は、沖縄県内やアメリカの公文書館から資料を収集。証言集の発行とともに、事故に関するアメリカ軍の資料を翻訳しようとしているという。2000ページに及ぶ資料もまた、記憶のピースなのだ。

「航空機事故のパズルの大部分が埋まっていくことにもなると思う。これで事故の様子や状況が、形となって見えてくると思います」(久高)

手を尽くして集めたアメリカ軍の資料には、アメリカでは見ることができなかった、“石川の悲劇”が含まれていた。この資料は、地元うるま市の資料館が入手していたものだった。

そこには事故の経緯が、詳細に記されていた。

1959年6月30日午前10時27分。
事故機は嘉手納基地を離陸。
数分後に、エンジン室に異常が発生。
パイロットは25ポンド爆弾4個を、東シナ海に投下。
爆発を繰り返す機体。
パイロットはパラシュートで脱出。難を逃れた。

午前10時41分。
機体は猛スピードのまま、多くの家屋をなぎ倒しながら宮森小学校に激突。

爆発した事故機F-100は、当時最新鋭の戦闘機だったが、事故の前年となる1958年だけを見ても、168件の事故を起こしていた。

そして、アメリカ軍は事故から3日後、事故原因を「不可抗力」だと発表している。

しかし、うるま市の資料館が入手していた資料には、機体の部品などに緩みがあったと記されていた。

アメリカ軍は、事故の本当の原因がメンテナンスエラー(整備不良)だとわかっていた。それにも関わらず、「不可抗力」と発表し、誰の責任も問えないと結論づけてきた。

“石川の悲劇”とは、一体誰にとっての悲劇だったのか。

さらに、事故機のパイロット、ジョン・G・シュミッツ大尉のその後も追っていく。

アメリカ南部アラバマ州の小さな町でシュミッツは暮らしていたが、彼は2016年10月10日、93歳で亡くなっていた。

シュミッツは事故後1年半、そのまま嘉手納基地に残り、ベトナム戦争にも出撃していた。

シュミッツの息子の妻は「義父は思っていることを心に閉じ込めて、口にしない人だった。心に痛みや辛さがあったからかもしれない。その思いはわからないけれど…」と語る。

シュミッツは軍のパイロットだったことを生涯誇りに思い、周囲に退役時の肩書きである「大佐」と呼ばせていたという。

そして、息子の妻は「ジョンに会えば、あなたが求めるパズルを埋めるわ」と夫であり、シュミッツの息子であるジョンを訪ねるように言ってくれた。

電気関係のエンジニアをしている彼は、山火事の被害を修復するためカリフォルニアに来ていた。

彼が宿泊しているロッジを訪ねると現れたのは、父と同じ名前を引き継いだ息子、ジョン・G・シュミッツさん。

かつては陸軍のパイロットであったジョン。事故のことを、父はどう話していたのか、息子が初めて口を開いた。

「父は関わった戦争のすべての任務や情報について話せなかった。すべてはトップシークレットで、米空軍の管理下にありましたから」とジョンは明かす。

アメリカの軍人たちは、秘密を生涯漏らさないという契約を軍と交わしている。つまり生涯、軍人を貫いたシュミッツは軍の規律を守り抜いたのだ。

「事故のことは、偶然インターネットで知りました。父は事故のことも、小学校の子どもや住民が犠牲になったこと、沖縄のことを決して話しませんでした。けが人がいたことも語りませんでした。ショックでした。すごく傷つきました。まさに悲劇です。父も傷ついていたから、何も話さなかったのかもしれません」

ジョンにこのインタビューが辛くないかとたずねると、「もちろん辛いですが、いつも沖縄とつながりを感じているんです。沖縄で生まれ、故郷だと思っています。沖縄の人の痛みを和らげたい。それは事故を知った私の救いでもあります。私にできることなら何でもしたい」と話した。

ジョンは事故からちょうど3か月後の1959年9月30日に沖縄で生まれている。ジョンもまた、埋められないあの日のパズルを抱えていたのだ。
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