23枚の三角縁神獣鏡を含む計34枚の銅鏡が出土した1998年。
これほど大量の三角縁神獣鏡が盗掘ではなく、発掘調査で出土したのは初めてであり、
出土状況が記録された意義は大きい。
(平成26年の1月17日、発掘時の現地説明会には、2日間で2万3千人が訪れたという)
三角縁神獣鏡はすべて棺の外に置かれ、
棺の北半分をコの字の形で取り囲むように配列されていて、棺内にあったのは画文帯神獣鏡であった。
卑弥呼の鏡と騒がれたが発掘した橿考研は、
「三角縁神獣鏡が魏の鏡、邪馬台国の卑弥呼がもらった鏡との説があるが、
今回黒塚でそれが出土したからといってすぐ邪馬台国に関わるものではなく、
今後の分析・研究が必要である」と書く。
(天理市立黒塚古墳展示館のパンフには「卑弥呼の里」と書いてあるが)
その他鏡に密着するように遺っている木材片や痕跡の分析から、
棺は桑の木をくりぬき、水銀朱で赤く塗られていることが分かった。
木棺は高野槇が一般的で、桑はほかに例がない。
「養蚕を把握した人物を葬ったと考える方が素直」
現代でも天皇が田植えするのに対し、皇后は蚕に桑をやる。
養蚕を女性の仕事という考え方があったとすると被葬者は女性かも知れない」
一方石室の北東部から出土したU字型鉄製品は、折り曲げた二本の棒の間に、
短い筒状の鉄板16本をV字形に取り付けたもので、用途は全く不明。
黒塚古墳は古墳時代前期の3世紀後半から4世紀前半の古墳と推定され、
古墳の規模は現状で全長134メートルの前方後円墳で、
その特徴は前方後円墳の主軸に直交して作られた竪穴式石室が全長8.2メートルの巨大な規模であること。
地震による石室の埋没のため盗掘されず、多数の鏡などが発掘できたと言われる。
石室の構造を見ると、床から三段は人頭大の石材を積んでいる。
この上からは割石が少しづつ内側にせり出すように積まれ、
最上部では左右の石が当たるような合掌式であり、
割石のうしろには栗石で控えの石としている。
内部の副葬品は、西側壁面の北半分に沿って27枚の鏡があり、そ
の前後には鉄槍や鉄ぞくなどが差し込まれている。
東半分もほぼ同様で15枚の鏡の間に鉄刀などがあり、
北側の小口にはU字型の鉄器をはじめ多数の工具類、1枚の三角縁盤龍鏡、南小口には小札類、本来は木棺内と考えられるところには鏡1枚と2本の刀があった。
鏡には呪力があり、その鏡の持つ呪力を期待した倭人は鏡を欲しがった。
また、発見された33枚の三角縁神獣鏡うち、 同じ黒塚のもので7種15枚の同型鏡があり、
全国各地には23種の同型鏡が分布している。
このことは三角縁神獣鏡が中央(ヤマト)から地方へ分散したことを物語っている。
又、三角縁神獣鏡の仿製(ほうせい)鏡(中国製を模倣した国産鏡)説とする人にとっては、
三角縁神獣鏡の配置がすべて棺外で、
棺内の鏡と区別していることから、仿製(ほうせい)鏡の根拠だとする。
河上邦彦氏は、中国では鏡は化粧道具として発達していて、それが手持ちであること。
平均的な中国の鏡を見ても直径17・18〜13・14cm、重さ600〜200gなのに対し、
三角縁神獣鏡は20〜25cm、重さ1300g前後。これは実用としての鏡とは言えない、と。
石室の基部と裏込めには地元の小河原などにある人頭大の川原石が使われているが、
石室の持ち送り部分の壁面と天井部では割石を使っている。
その割石は直線距離で18キロの二上山周辺の春日山や芝山の石を使っていて、
その9割が芝山の石。
このことは「日本書紀」にある「ヤマトトトモモソソヒメ」の墓(箸墓古墳)を作るとき、
大坂山(二上山)から手送りで石を運んだという伝説が反映していると見られ、
大和古墳群の石材が盆地の反対側から運ばれたことを実証している。
参考資料
朝日新聞社刊行 古代史発掘 新遺跡カタログVOL5
天理市教育委員会 天理の古墳100
インターネット検索
あと 2古墳について、書かねばならない。
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