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2019年12月14日02:22

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うるわしの 日出(ひい)づる國

  うるわしの 日出(ひい)づる國

      〜「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」〜


     神様のお誕生(かみさま  たんじょう)

   遠い遠い昔(とお とお むかし)

     考(かんが)えられないくらい 遠い昔

   尊い尊い(とおと とおと) 神様(かみさま)が お生(う)まれになりました

     わたくしたちの ご先祖(せんぞ)の 神様です


     わが地(くに)の 始(はじ)まり

   始めに お生まれになった

   神様は

   後(あと)からお生まれになった

   男(おとこ)の神様と

   女(おんな)の神様に

   後後(あとあと)までも栄(さか)えるように

   すばらしい地(くに)をつくるようにと

   お教(おし)えになりました

   そこで

   お二人(ふたり)の神様は

   日本の地(にほん くに) 豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の地(くに)を

   お生みになりました


     天 照 大 神(あまてらすおおみかみ)

   男の神様を

     伊弉諾尊(いざなぎのみこと)

   女の神様を

     伊弉冉尊(いざなみのみこと)

   と申(もう)し上げます

   お二人が

   ご一緒(いっしょ)になるとき 始めに 女の神様が

    おさそいになったので

   男の神様は

    わたしこそさきにと

   おおせられ

    あらためて

     ご一緒に

   なられました

   そして

     大空(おおぞら)に光(ひか)りかがやく うるわしい 日の神様

   天照大神が お生まれになりました

   わが国(くに)でいちばん尊(とおと)い 温(あたた)かく和(わ)を尊ぶ神様です


     天(あめ)の岩戸(いわと)がくれ

   天照大神は 日(ひ)の神様です

      弟(おとうと)の 素戔鳴尊(すさのおのみこと)が

   らんぼうなこと ばかりなさるので

   大神様(おおかみさま)は

    おかくれになりました

   すると  世(よ)の中(なか)がいっぺんに暗くなり

   多(おお)くの神神(かみがみ)は 

    たいへんに おこまりに なりました

   そこで 神神は ご相談(そうだん)なされ

   歌(うた)やおどりの 楽(たの)しい声声(こえごえ)で

   大神様の

   み心(こころ)を和(やわ)らげて

   また 岩屋(いわや)の外(そと)に お迎(むか)えすることが

   できました


     神様(かみさま)の お降(くだ)りと 三(みっ)つ の みしるし

   天照大神さまは

   おまごさまの

   瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に この国(くに)を おおさめになるようにと

   お申(もう)しつけになりました

   瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は そのお言葉(ことば)に従(したが)って

   神神の国(かみがみ くに)高天原(たかまがはら)から

   日向の国(ひうが くに)の 高千穂の峯(たかちほ みね)に

   お降(くだ)りになりました

   その時(とき)

   み鏡(かがみ)と み剣(つるぎ)と 勾玉(まがたま)の

   三つの みしるし

   三種(さんしゅ)の神器(しんき)を

   瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に おさずけになりました

   そして いつまでも さかえるようにと

   おおせられました


     神 武 天 皇(じんむてんのう)

   わが国の第一代(だいいちだい)の

   天皇様(てんのうさま)を 神武天皇(じんむてんのう)と

   申(もう)し上(あ)げます

   神神の国 高天原から

   高千穂の峯にお降りになった

   瓊瓊杵尊の ご子孫(しそん)です

   天皇様は 人人(ひとびと)の幸(しあわ)せを願(ねが)って

   都(みやこ)を 東(ひがし)にお移(うつ)しになろうと考(かんが)えられ

    十分(じゅうぶん)な用意(ようい)をなさって 激(はげ)しい戦(たたか)いを

   乗(の)り切(き)られました

   そして 

   大和(やまと)の橿原(かしわら)の 畝傍山(うねびやま)の ふもとで

   始めて 天皇の み位(くらい)に

   おつきになりました

   
     神のみ祭(まつ)り

   神武天皇さまは みくらいに おつきになって

   四年目(よねんめ)に お祭(まつ)りする所(ところ)を 

   大和の とみの山の中に お定(さだ)めになって

   遠い み祖(おや)さまの

   天照大神(あまてらすおおみかみ)を お祭りになりました

   第十代(だいじゅうだい)の 崇神天皇(すじんてんのう)も 

   人人が苦(くる)しみ また そむくようなとき

   ご先祖(せんぞ)の神神を お祭りになって

   人人と世(よ)の中(なか)にわずらいのないことを

   お祈(いの)りになりました

   感謝(かんしゃ)とまことの心をもって

   ご先祖を お祭りになることが

   世の中をりっぱに おおさめになるもと

   であるとの お教(おし)えです


     おほめ の こと

   神武天皇は

   み位におつきになった 次の年(つぎ とし)に

   ともに 苦労(くろう)された

   人たちを おほめになって

   すまいや 土地(とち)と

   いろいろな 仕事(しごと)を

   お与(あた)えになりました

   
     おとがめ の こと

   神神の昔(むかし)

   素戔鳴尊(すさのおのみこと)が

   らんぼうなことばかり なさいましたので

   神の国から 追(お)いはらわれました

   おほめや おとがめは

   きちんとしなければならない

   という 教えです


     国 の さだめ

   第三十三代(だいさんじゅうさんだい)の 推古天皇(すいこてんのう)は

   女の方(かた)でしたので

    聖徳太子(しょうとくたいし)が

   天皇さまに かわって

   人人の 位(くらい)や 役目(やくめ)を

   お定(さだ)めになりました

   人人がまもらなければならない

   心がけを おしめしになりました


     
     み光(ひかり) の 波(なみ)

   わが国の 代々(だいだい)の 天皇さまは

   天照大神(あまてらすおおみかみ)の み心を そのままに

   お受(う)けになって いらっしゃいますので

   その恵(めぐみ)の光の波は

   よその国まで とどき

   さまざまの国から

   わが国をしたって 多くの人人が

   海(うみ)をこえて わたって来(き)ました

   わが国の すぐれた国がらを

   よくよく 知(し)っておきましょう







     お父さんお母さんへ

   この本の原典となった「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」とはー

 「中朝事実」とは何でしょう。
 これは本の名前です。それも今の本ではありません。もう三百年も前に出された本です。
中味は漢文で書かれています。そのままでは、現代の人々には、とても読めるもの出はありません。
 それを解りやすく解説し、あらたに出版しようというのです。なぜでしょう。それは原典の「中朝事実」に、私どもが、日本人として、考えておかねばならない事柄が、くわしく書かれているからです。
 日本は世界で最も古い国の一つとして、その生命を持ち続け、今では世界の経済大国として、世界の平和に力を貸そうとしています。何よりも私どもは、日本の歴史上はもちろん、世界の歴史の上から見ても、これまでに無い繁栄と平和の恵を受けています。
 では、なぜ日本はこのような平和な国として存在しているのでしょうか。それにはさまざまな理由が考えられるでしょうが、その一つとして、これだけは見落とすことが出来ないと考えられる基本的なことがあります。政治家も、財界人も、一班の人々・大人も子供も、日本人としての正しい生き方として、この本はその基本を教えてくれているのです。
 
  だれが書いたかー
 それではこの本の原典である「中朝事実」は、だれの手によって書かれたのでしょうか。それは「山鹿素行(やまがそこう)」という人です。江戸時代を前期・中期・後期の三つの時期に分けますと、その前期に属します。素行は幼少の頃から神童(しんどう)の誉(ほまれ)れが高く、六歳から八歳までの間に、当時の学問の基本を学び終え、九歳で幕府の儒官(じゅかん)・林 羅山(はやし らざん)のもとに正式に入門し、十一歳の時には、早くも時の松江城主 堀尾 山城守忠晴(ほりお やましろのかみただはる)から仕官(しかん)の招きがあったほどでした。
 そのような優れた資質(ししつ)の上に、人一倍の勉強家でもありましたから、十六歳で初めての著作を出して、六十四歳で亡くなるまで、実に多くの著作を残しました。素行は四十四歳のとき、「聖教要録(せいきょうようろく)」という書物を著し、それが幕府ににらまれて播州赤穂藩(ばんしゅうあこうはん)に流罪(るざい)となり、以後十年間を罪人(ざいにん)として過ごすことになりました。
 「聖教要録(せいきょうようろく)」は、当時隆盛を極めていた朱子学(しゅしがく)に対して、学問はいかにあるべきかを、改めて問い直したものです。幕府の学問である朱子学と対立することになったのは当然です。
 この「聖教要録」はさらに練り上げて、完成したのが「中朝事実」です。赤穂に遠ざけられている間のことでした。素行は「日本書紀(にほんしょき)」に記されている神話・伝承に対して、自分の持つ和漢両学(わかんりょうがく)にわたる博大(はくだい)な学識(がくしき)を駆使(くし)して、その意味を探り、その中に日本の理想を見出そうとしたのです。私どもが、今こそ「中朝事実」を、というわけの一つはここにあるのです。





   「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」を彩(いろど)る三人の人物

     ー松陰(しょういん)・希典(まれすけ)・重剛(じゅうごう)ー

 吉田松陰(よしだしょういん)ー有名な幕末の志士であることはご存じでしょう。松陰は若いとき、すでに「松下村塾」という私塾で、当時の青少年の指導に当たりました。この中から、伊藤博文(いとうひろぶみ)や木戸孝允(きどたかよし)等の明治の元勲(げんくん)といわれる人々が輩出(はいしゅつ)しましたが、吉田家は代々家学として、山鹿流兵学を奉じていました。
特に「中朝事実」は松陰が一時も手離す事の無かったものといわれています。

 乃木希典(のぎまれすけ)ー陸軍大将。明治天皇から特に篤い御信任を受け、御大葬の日、夫人と共に天皇に殉ぜられた方として有名です。吉田松陰との縁続きということもあり、誠実一途の人柄から、「中朝事実」を特に愛読し、その精神の体得者でした。
 明治天皇は皇孫殿下(こうそんでんか)(昭和天皇様)の御教育には特に心を使われ、その大切な仕事をこの乃木大将に任ぜられ、学習院長として余生を尽くすよう命ぜられました。乃木大将はその御信任にお応えすべく努められましたが、乃木大将が亡くなる二日前、東宮御所に参殿し、殿下に将来においてこの書物は大切なものですゆえ、大きくなられたらお読み下さるようにと将軍自ら朱点を加えられた「中朝事実」をお贈りになりました。

 杉浦重剛(すぎうらじゅうごう)ー日本学園創立者、稱好塾(しょうこうじゅく)塾長。乃木大将亡きあと、要路の方々の推薦で、東宮御学問所(とうぐうごがくもんじょ)の御用掛(ごようがかり)として、当時の東宮殿下、後の昭和天皇様に倫理について御講義申し上げたのがこの杉浦重剛という方です。この方はこの重大な職務に精魂を尽くされたのですが、いまその記録「倫理御進講草案(りんりごしんこうそうあん)」を見ますと「中朝事実」において素行が訴えようとしたこころが、その全巻に満ち溢れているといっても過言ではありません。
 昭和天皇様の御仁徳、昭和の国民として敬仰感謝(けいぎょうかんしゃ)してやまない御資質(ごししつ)は、この優れた補佐の方々による御教養も大きく与っているのではないかと拝されます。
 この本は、昭和六十年、昭和天皇様御在位六十年を記念して、また奇しくも「中朝事実」の著者山鹿素行・三百年の年に刊行されたものです。そこで「中朝事実」の大切さを知って戴くために、乃木本「中朝事実」の覆刻(ふっこく)と普及本「中朝事実」(解説付)を刊行し、青少年向けとしてこの本の発刊となりました。
 「温故知新(おんこちしん)」(故きを訪ね、新しきを知る)と申します。素行の原書には時代の制約もあって、考え直すところもないわけではありませんが、それらを越えてなおこの本は読み返されるべき立派な価値があります。
 今上陛下に有らせられては、先帝陛下のみこころをふまえ、深くこの国と国民の事を思われ、祈りを先にして、先帝陛下のなしえなかったそのみこころを継いでいらっしゃる。このような皇室を戴いている幸せを今一度思い起こすことこそ、日本人としての心を奮い起こすときではないでしょうか。
 是非この機会に、お父さんお母さんが、この本をお子さまと一緒になって読んで戴き、日本の国柄と歴史から学ぶ大切な教えを伝え共有して戴きたいと思うものです。

     「中朝事実」によって、立派な日本人にーーー
       立派な日本人として、世界の平和にーーー

こんな願いを籠めて、この本を刊行致しました



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