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2019年10月20日16:27

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天皇が参謀総長を叱責!「太平洋はさらに広し」

 下記は、2019.10.20 付の 「昭和天皇の87年」 です。

                        記

 第168回 帝国国策遂行要領

 首相の近衛文麿が悲壮な覚悟で提案した日米首脳会談。だが、米大統領のルーズベルトはすでに開戦を決意し、その準備が整うまで日本を「あやして」おこうと考えていたことは前回書いた。ルーズベルトは、近衛の提案に「(首脳会談の場所は)アラスカでどうか」などと気を持たせつつ、回答を先延ばしした。

 近衛がやきもきしたのは言うまでもない。その間にも内外の情勢は急速に開戦へと傾いたからだ。

 アメリカが石油の全面禁輸に踏み切ったため、それまで開戦に反対だった海軍さえも態度を変える。昭和16年7月30日に参内した軍令部総長の永野修身が、昭和天皇に言った。

 「できるかぎり戦争を回避したいのですが、石油の貯蔵量は2年分のみで今後ジリ貧に陥るため、むしろこの際、打って出るほかありません」

 昭和天皇は憂慮した。翌日、内大臣の木戸幸一に《かくては捨て鉢の戦をするにほかならず、誠に危険であるとの感想》を述べたと、昭和天皇実録に記されている(29巻29頁)。

 陸軍も「開戦やむなし」だ。昭和天皇が30日、「南部仏印進駐により、やはり経済圧迫を受けることになったではないか」と指摘すると、参謀総長の杉山元は「当然予期したことで驚くに当たりません」と開き直った。昭和天皇は、《予期しながら事前に奏上なきことを叱責される》(29巻28頁)

                     × × ×

 開戦か、交渉継続か−。決断を迫られた政府は9月5日、「帝国国策遂行要領」を閣議決定する。

〈1〉自存自衛のため対米戦争を辞せざる決意の下、「概ネ十月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完整ス」

〈2〉戦争準備と並行して米英に対し、「外交ノ手段ヲ尽シテ帝国ノ要求貫徹ニ努ム」

〈3〉10月上旬頃までに要求貫徹のめどが立たなければ、「直チニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス」−という内容だ。

 その奏上を受けた昭和天皇は、《本要領は第一項に対米戦争の決意、第二項に外交手段を尽くすとあるため、戦争が主、外交が従であるが如き感ありとして、その順序を改めるようお求めになる》(29巻47頁※1)

 昭和天皇は、立憲君主の立場に縛られつつも、開戦の流れを懸命に食い止めようとしたのだ。以下、戦争の勝算について参謀総長の杉山にただした時の、昭和史に残る名場面を、昭和天皇実録はこうつづっている。

 《参謀総長より陸海軍において研究の結果、南方作戦は約五箇月にて終了の見込みである旨を奉答するも、天皇は納得されず、従来杉山の発言はしばしば反対の結果を招来したとされ、支那事変当初、陸相として速戦即決と述べたにもかかわらず、未だに事変は継続している点を御指摘になる。参謀総長より、支那の奥地が広大であること等につき釈明するや、天皇は支那の奥地広しというも、太平洋はさらに広し、作戦終了の見込みを約五箇月とする根拠如何と論難され、強き御言葉を以て参謀総長を御叱責になる》(29巻47〜48頁※2)

                     × × ×

 翌9月6日、重要閣僚と軍部首脳が参内して開かれた御前会議は、戦前の昭和史におけるクライマックスといえるだろう。そこで昭和天皇は、前例のない行動に出る。立憲君主の枠組みを超え、初めて口を開くのだ−−。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

                       ◇

(※1) 帝国国策遂行要領は9月3日に開かれた大本営政府連絡会議の方針に基づき閣議決定された

(※2) 近衛の手記などでは、南方作戦の見込みを「約五箇月」ではなく「三カ月位」としている。なお、昭和天皇の叱責に参謀総長は恐懼(きょうく)して返答できず、軍令部総長がかわりに「死中に活を求める手段に出なければならず、勝算はございます」などと奉答、首相も「最後まで外交交渉に尽力し、やむをえない時に戦争になります」などと助け舟を出し、昭和天皇は了承した

                       ◇

【参考・引用文献】

○宮内庁編「昭和天皇実録」29巻

○防衛研修所戦史室著「戦史叢書 大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯〈4〉」(朝雲新聞社)

○三宅正樹著「第三九代 第三次近衛内閣」(林茂ら編「日本内閣史録4」〈第一法規出版〉収録)

 https://special.sankei.com/f/society/article/20191020/0001.html
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