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2019年07月20日00:00

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7月20日が誕生日である人々、忌日である人々

誕生日だった人々です。

BC356年、マケドニア王であるアレキサンダー大王ことアレクサンドロス3世が生まれました。コリントス同盟(ヘラス同盟)の盟主、エジプトのファラオも兼ねていました。その治世の多くをアジアや北アフリカにおける類を見ない戦役(東方遠征)に費やし、30歳までにギリシャからインド北西にまたがる大帝国を建設しました。戦いでは敗れたことがなく、歴史上において最も成功した軍事指揮官であると広く考えられています。紀元前323年、アラビアへの侵攻を始めとする新たな遠征を果たせないまま、首都にする計画だったバビロンで熱病にかかり32歳で死去。
1627年、儒学者の伊藤仁齋が誕生。古義学を提唱し、主著として、『論語古義』『孟子古義』『語孟字義』『中庸発揮』『童子問』『古学先生文集』などが挙げられます。仁斎は朱子学の「理」の思想に反して、「情」を極的に価値づけしました。客観的でよそよそしい理屈よりも人間的で血液の通った心情を信頼したのです。宝永2年3月12日(1705年4月5日)、死没。
1751年、第9代米沢藩主、上杉鷹山こと上杉治憲が生まれています。領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られています。会津120万石時代の家臣団6,000人を召し放つことをほぼせず、宝暦3年の寛永寺普請による出費、宝暦5年(1755年)の洪水による被害が藩財政を直撃していたのに対し、治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立し、1500両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすなどの倹約を行いました。治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行います。これらの施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済しました。享和2年(1802年)、剃髪し、鷹山と号します。文政5年3月11日(1822年4月2日)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去。享年72(満70歳没)。
1876年、初の職業漫画家、北澤樂天が生まれました。樂天は『時事漫画』や『東京パック』等の新聞や雑誌を中心として、多数の政治風刺漫画や風俗漫画の執筆で活躍しました。第二次世界大戦前に発行された楽天の『楽天全集』は、幼少期の手塚治虫に影響を与えた点で特筆されます。1955年、楽天は脳溢血のため、自宅で死亡。
1896年には奇術師のアダチ龍光が誕生。マジックも人気でしたが、まれにウグイスの物真似や擬声漫談も行なっていました。立川談志は龍光の物真似や漫談を絶賛していました。1982年(昭和57年)、10月13日に急性心不全のため86歳で没しました。
1912年、航空工学者の糸川英夫が生まれています。ペンシルロケットの開発者であり、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれています。著書『逆転の発想』はベストセラーになりました。2003年、小惑星 25143 が糸川の名にちなんでイトカワと命名されました。この小惑星が「イトカワ」と命名されたのは、日本の探査機はやぶさが打ち上げられて(命名されて)三ヶ月後で、探査機がこの小惑星を探査する事が決定した後のことです。1999年2月21日に多発性脳梗塞のため、長野県丸子の病院で死去。
1919年、エベレストに初登頂したニュージーランドの登山家、エドモンド・ヒラリーが生まれています。2008年1月11日に心臓発作により88歳で死去。
1931年、俳優・声優の穂積隆信が誕生。若い頃より脇役として各映画会社の作品に出演。テレビ全盛期にはテレビドラマへも進出し、腰巾着的な役どころや悪役として活躍。洋画吹き替えではイーライ・ウォラック、クリストファー・ロイドなどを主に担当しました。実の娘で後にタレントとなった由香里との家庭内での葛藤の記録をまとめたノンフィクション『積木くずし』シリーズ3部作(『積木くずし〜親と子の200日戦争』『続・積木くずし』『積木くずし崩壊 そして…』)の執筆でも話題を集め、連日、教育関連の講座・講演に多数出演しています。2018年10月19日、胆嚢癌のため神奈川県の病院で死去。87歳没。
1937年には俳優の緒形拳が生まれています。1957年、東京都立竹早高等学校卒業後、憧れていた新国劇の二大看板俳優の一人、辰巳柳太郎の弟子になるべく、1958年新国劇に入団。1965年、大河ドラマ『太閤記』の主役に抜擢され、新国劇の活動も兼務して1年活動しました。引き続き1966年の大河ドラマ『源義経』に弁慶役で出演し、2年続けて大河に出演する稀有な活動をし、その後も数々の大河ドラマに出演し、常連俳優の1人として活躍しました。1968年、新国劇を退団。映画・テレビドラマに活躍の場を移します。テレビドラマ『必殺仕掛人』シリーズの藤枝梅安を演じ、映画化もされ、『必殺必中仕事屋稼業』にも出演しました。1979年に『復讐するは我にあり』、1983年に『楢山節考』に主演。合間に出演した1981年の映画『魔界転生』では宮本武蔵に扮して、柳生十兵衛(千葉真一)と激闘を演じ、新国劇で培った殺陣を披露しています。2008年10月4日、自宅で体調が急変。獨協医大病院に運ばれ肝臓破裂の緊急手術を受けるも、翌10月5日の午後11時53分、肝癌により死去。71歳没。
1946年には歌舞伎役者の4代目市川段四郎が誕生。兄の先代・市川猿之助の片腕として、様々な役を演じましたが、現在は病気療養中。大敵役の役者が払底している現在の歌舞伎界にあって、一日も早い復活が望まれるところです。息子が当代の市川猿之助。
1947年、メキシコのギタリスト、カルロス・サンタナが生まれています。自身の名を冠したロック・バンド「サンタナ」を1960年代から率い、現在も活動中。
1949年には吉本新喜劇で売り出したコメディアン、間寛平が誕生。「アヘアヘアヘアヘ…」「ア〜メマ!」「かい〜の」などのギャグで有名。1975年にリリースした「ひらけ!チューリップ」は100万枚を超える大ヒット曲となりました。マラソン大会への出場でも有名。
1952年には女優の松坂慶子が生まれました。1971年(昭和46年)、映画『夜の診察室』で、主演予定だった渥美マリの降板により代役で映画初主演。1972年(昭和47年)、松竹へ移籍。1973年NHK大河ドラマ『国盗り物語』で濃姫を演じて広く知られました。1979年(昭和54年)の映画『配達されない三通の手紙』でも体当たりの演技を見せ、トップ女優に躍り出ました。同年放送のテレビドラマ『水中花』にも主演し、妖艶なバニーガール姿を披露します。さらに自身が歌唱したシングル曲・主題歌の「愛の水中花」も大ヒットと成りました。1980年代も『青春の門』、『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』、『蒲田行進曲』、『人生劇場』、『火宅の人』などの映画や、テレビドラマでは『春の波涛』などの作品に立て続けに主演・出演しました。この頃の松坂は深作欣二が監督する映画・テレビドラマに多く出演しています。1990年(平成2年)、ジャズギタリストの高内春彦(ハル高内)と結婚。
1952年、歌手の鈴木聖美が誕生。弟は鈴木雅之。「シンデレラ・リバティ」や雅之とのデュエット曲「ロンリーチャップリン」などがヒット。
1976年、ベースの弾き語り芸人、はなわが誕生。『佐賀県』『お義父さん』などという曲がヒット。漫才コンビ「ナイツ」の塙宣之は弟。

では忌日とまいりましょうか。古代、中世と漁ってみましたが、取り上げたくなるような人物は皆無でした。

1866年、ドイツの数学者、ベルンハルト・リーマンが1866年、旅の途中にマッジョーレ湖の近くで39歳で亡くなりました。リーマンは若い数学者をまず認めなかったカール・フリードリヒ・ガウスも高く称賛する真の天才数学者でした。1851年にガウスのもとで論文「1複素変数関数の一般理論の基礎づけ」を提出して博士号を取得、1854年には「幾何学の基礎にある仮説について」で大学教授資格を取得しました。二つの論文によって、複素解析の基礎づけとリーマン幾何学を確立したのです。リーマンは1851年の学位論文でコーシー=リーマンの微分方程式を複素関数の定義として(コーシーは複素関数の一種として定義し、単性関数と呼んでいた)、さらに写像やリーマン面など新たな成果を組み込むことで複素解析の基礎づけと共に理論的な発展をさせることになりました。1854年の教授資格講演「幾何学の基礎にある仮説について」では、初めて多様体の概念を導入して、リーマン幾何学を確立したのです。リーマンのこの研究がなければ、アルベルト・アインシュタインの一般相対性理論は成立することはなかったでしょう。三角級数による表現に関する論文では、リーマン積分の概念を提示することで、実解析の基礎づけに寄与しました。数論については1859年の論文「与えられた数より小さい素数の個数について」が唯一の論文ですが、彼の複素解析の方法の一つの応用です。ゼータ関数についてのリーマン予想を述べ、解析的整数論の重要論文の一つとなりました。この予想は21世紀になっても重要な未解決問題の一つとなっています。時代を完全に乗り越えた、真の天才、それがリーマンの幾何学と理論物理学です。
1883年、明治維新の元勲である政治家、岩倉具視が咽頭癌により57歳で亡くなりました。公卿・堀河康親の次男として京都に生誕。天保9年(1838年)8月8日、岩倉具慶の養子となり、伏原によって具視の名を選定されました。岩倉は安政の大獄が皇室や公家にまで拡大し、朝幕関係が悪化することを危惧していました。 そのため、京都所司代・酒井忠義や伏見奉行・内藤正縄などと会談し、彼らに天皇の考えを伝え、朝廷と幕府の対立は国家の大過である旨を説きました。この後、岩倉と酒井は意気投合して親しくなり、岩倉自身は幕府寄りの姿勢をとっています。安政7年(1860年)3月3日に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、安政の大獄は収束して公武合体派が幕府内で盛り返しました。岩倉の意見書でも知名度の高い『和宮御降嫁に関する上申書』はこのようなときに天皇に提出されました。内容は、天皇が岩倉を召して諮問した際に答えたものです。文久元年(1861年)10月20日、和宮は桂御所を出て江戸へ下向し、岩倉もこれに随行することとなりました。東久世通禧の回顧録によると岩倉が和宮下向の支度を万事手配したということです。11月26日、岩倉は江戸城で久世広周や安藤信正といった老中と面会。ここで岩倉は孝明天皇の勅書の質問はもちろん、それとは別に幕府が和宮を利用して廃帝を企んでいるという江戸市中の噂の真偽を問うています。老中らは下々の捏造であると回答したのですが、そのような噂が市中で立ったこと自体不徳として陳謝し、老中連署の書状で二度とないことを誓うと答えました。しかし岩倉は譲らず、誓書を出すなら将軍・家茂の直筆で提出せよと命じました。家康以来、将軍が誓書を書かされるなどということは無かったのでさすがに老中たちはその場での即答を避けましたが、結局3日後に将軍・家茂が誓書を書くことが岩倉に伝えられました。もちろん岩倉としても意味もなくこのような言いがかりをつけていたわけではなく、朝廷権力の高揚のためでした。尊王攘夷派の志士たちから佐幕派とみなされるようになっていた岩倉は一時、失脚しましたが、薩摩の大久保利通、土佐の後藤象二郎、公卿の中御門経之・中山忠能・正親町三条実愛らとともに慶喜に辞官納地をさせる計画に参加することで復権をいたしました。12月9日(1868年1月3日)に入ってから岩倉らが参内し、新政府人事と慶喜の処分を求める王政復古の大号令案を奏上します。慶喜の処遇についても山内容堂や松平春嶽から意見が出され、小御所において岩倉や大久保と再び激論となりました。しかし最後には岩倉らが春嶽・容堂を論破して慶喜に辞官納地返上を命じることが決まります。徳川慶喜は大坂に籠りますが、辞官と納地を渋るような動きを見せ始めます。1月7日、在京の諸大名が小御所へ集められ、岩倉がその場で大名たちに「帰国したい者は帰国せよ。大阪に行きたい者は行け。勤王の意思がある者はその旨明日までに誓書にせよ」と一喝すると、諸大名たちは岩倉の迫力に震えあがり、全員が誓書を提出しました。1月10日、曖昧になっていた徳川領の問題は、今回の反逆によって没収を明確に宣言され、そのすべてが天朝の御料となることが布告されます。さらに1月17日、政府の首脳部が分担方式の内閣制となり、総裁を首班にして内国事務、外国事務、陸海軍事務、会計事務、刑法事務、制度事務、神祇事務の七閣僚が置かれることとなりました。岩倉は海陸軍事務と会計事務という最も重要なセクションを任されるのです。この人事をもって日本に実質的に岩倉を首班とする政権が誕生したといえます。閏4月21日には政府機構の再編が行われ、アメリカ合衆国の政治制度が参考にされ、行政部・立法部・司法部にわかれた三権分立型政府へ移行しました。岩倉はこのうち行政官の中の輔相という国内行政全般と宮中の庶務を監督する役職に就任。三条実美とともに二人体制での就任でしたが、三条は徳川家の処分の全権を任されて西郷隆盛を従えて江戸へ出ていたので岩倉が実質的な首班でありました。東京城(旧江戸城)へ入城したものの、京都市民の感情に配慮して明治2年(1869年)1月に明治天皇は京都に還幸しています。岩倉も供奉して京都へ戻りましたが、岩倉は京都に戻った後に突然病を理由に補相の辞職を求めました。大久保や木戸は慰留しましたが、岩倉の意思は固く1月17日には辞職してしまいました。岩倉の辞任後、政府では版籍奉還が検討されるようになりました。岩倉は版籍奉還に関する意見書を政府に提出し、この中で藩主達は中央政府から任命された行政官(知事)ということにし、当分は知事に領地を管理させることとします。しかし支配の実態は確実に中央政府へ移し、知事個人には土地および人民は私有物ではないことを周知徹底させ、藩政と家政も明確に区分させ、混同させないようにすべきとしました。明治4年(1871年)2月、三条邸に岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛・木戸孝允・板垣退助ら政府首脳が集まり、廃藩置県に備えて藩の指揮権に属さない天皇直属の御親兵をつくる必要があるということで一致。薩摩・長州・土佐の三藩に兵を出すよう命じ、8,000人の親兵が急遽組織されました。7月14日には明治天皇が全知事を皇居に呼び出し、廃藩置県を宣告しました。政府の予想に反して全ての知事が賛同し、懸念された抵抗や反抗はまったく見られず、この日藩はひとつ残らず日本から消滅したのです。所領を失った「大名」たちは全員東京へ召集され、華族としての責務を果たしていくことになります。日本は一つの国家、一人の元首のもとで近代統一国家としてスタートを切ることとなりました。廃藩置県があった同じ日、岩倉は外務卿(外務省の長官)に就任しています。さらに7月には太政大臣が新設されて三条実美が就任したので岩倉が右大臣を兼務しました。外務卿になった岩倉には「条約改正」という難題が迫っていました。かつて徳川幕府が結んだ不平等条約・日米修好通商条約は条約改正についての両国間の交渉は1872年7月1日までできないとするとしており、それがもうじき切れるところでした。しかし今交渉してもアメリカ側が日本の法律・諸制度が依然として「万国公法」に準拠していないことを理由に不平等条約を維持しようとするのは目に見えていました。そこで欧米に使節団を送り、日本が依然文明開化していないことを欧米に伝え、それらの国々で近代化の様子を視察させてもらい帰国後それらを日本に導入し、文明開化を成し遂げた段階で条約交渉をしてほしいと要請して条約改正交渉を引き延ばすことが政府方針として決まりました。大隈重信らは国書の原案で延期の期限を3年としましたが、岩倉は無期限とすべきとしたので国書には期限は設けられませんでした。特命全権大使としてアメリカを訪れた岩倉はかの地での鉄道の発達による利便性にショックを受け、イギリスでは日本では考えられない工業技術にも圧倒されました。とりあえず岩倉は帰国後日本鉄道会社の設立に積極的に携わりました。明治6年(1873年)8月、岩倉不在の留守政府では征韓論が沸き起こっていましたが、岩倉はこれをお流れとしてしまいました。華族問題も乗り切った岩倉は、今度は立憲問題に直面することとなります。最終的に岩倉が憲法制定をまかせたのは急進派の大隈重信ではなく、漸進派の伊藤博文でした。しかし岩倉自身は、大日本帝国憲法の制定をその目で見ることはできませんでした。明治16年(1883年)初め頃には咽頭癌の症状がはっきりと出始めていました。明治天皇から数度の見舞いを受けましたが回復することはなく、最後の天皇の見舞いの翌日の7月20日死去。享年59。
1945年、フランスの詩人、ポール・ヴァレリーが73歳で死去。1891年頃、詩作が活発になり、ルイス主宰の同人誌『ラ・コンク』創刊号に『ナルシス語る』を投稿します。1894年から『カイエ』と呼ばれる公表を前提としない思索の記録をつづり始め、その量は膨大な量(およそ2万6千ページ)となりました。1895年に評論『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』を発表、1896年に小説『テスト氏との夜会』を発表。1917年4月、ジッドの勧めにより創作していた『若きパルク』をNRF誌上で発表し、一躍名声を勝ち得ます。1922年、『魅惑』発表。1925年、アナトール・フランスの後任としてアカデミー・フランセーズ会員に選出されました。1945年、73歳で死去。1930年から逝去した1945年にかけて、断続的にほぼ毎年ノーベル文学賞候補としてノミネートされましたが、受賞はかないませんでした。
1973年、香港の中国武術家、武道家、俳優、脚本家、映画プロデューサーであるブルース・リー(李小龍) が『死亡遊戯』で共演予定の女優、ベティ・ティン・ペイ(丁珮) の香港の自宅で頭痛を訴え、鎮痛剤(アスピリンを含むEquagesic)を飲んでベッドに横になりました。しかし、そのまま昏睡状態に陥ったため、ティン・ペイはレイモンド・チョウを呼び、そのままクィーン・エリザベス病院へ搬送されましたが、死亡が確認されました。32歳でした。1966年に、アメリカの「ロングビーチ国際空手選手権大会」で詠春拳の演武をしたフィルムが、TVプロデューサーの目に止まり、TVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役に抜擢されました。正義のヒーロー「グリーン・ホーネット」の助手兼運転手として、目の周辺だけを隠すマスクをつけた日系アメリカ人のカトー役を演じ、派手なアクションで人気を博しました。1970年に、香港の大手映画会社のショウ・ブラザーズ(邵氏兄弟有限公司)から独立したレイモンド・チョウ(鄒文懐)が設立したばかりのゴールデン・ハーベスト(嘉禾娯楽事業有限公司)と1本1万香港ドルで2本の映画出演の契約をします。翌1971年に、成人後の初主演映画『ドラゴン危機一発』が公開され、香港の歴代興行記録を塗り替える大ヒットになりました。リーは、一躍、香港のトップスターに躍り出ます。主演第2作の『ドラゴン怒りの鉄拳』(1972年)では主演と武術指導を担当し、3作目の『ドラゴンへの道』(1972年)では、自ら「コンコルド・プロダクション」(協和電影公司、ゴールデン・ハーベストとの共同出資)を設立し、製作・監督・脚本・主演の四役を担いました。この3作によって、リーは香港で不動のトップスターの地位を築き、ゴールデン・ハーベストは興行収入で香港最大の映画会社となりました。1972年秋から、リーの2作目の監督映画『死亡遊戯』の撮影がスタートする。しかしハリウッドのワーナー・ブラザースとコンコルド・プロダクションとの合作映画『燃えよドラゴン』の企画が持ち上がり、『死亡遊戯』の製作は中断されてしまいました。1973年1月から、アメリカと香港の合作映画『燃えよドラゴン』の撮影が始まる。かつて『燃えよ!カンフー』の主演が叶わなかったリーの意気込みは並々ならぬものがあり、エキストラへの武術指導に始まり、脚本や撮影にも詳細な意見を出しました。リーの死後、彼が待望していた主演作『燃えよドラゴン』がアメリカを皮切りに世界各地で公開され、ヒットしました。『燃えよドラゴン』でアクションスターとして世界的に知名度が上昇した時、すでにリーは亡くなっていました。死後、『ドラゴン危機一発』などの過去の映画が世界中に配給されました。
1987年、俳優の有島一郎が1987年6月1日頃から体調を崩し松平健主演の明治座舞台を降板し日比谷病院に入院するも、7月20日午後1時10分に心不全のため死去(享年71歳)。1933年、卒業後、俳優を目指して当時の人気スターだった田村邦男に弟子入りし、十代で軽演劇の世界に飛び込みます。1936年に上京。新宿のムーラン・ルージュに入り、次第に頭角を現します。有島一郎一座を結成するが長続きせず、小夜福子一座、水の江滝子率いる劇団たんぽぽと渡り歩くうちに終戦を迎えました。1947年に『若き日の血は燃えて』で映画デビュー。1955年から東宝と専属契約を結び、森繁久彌と三木のり平と並ぶ「名喜劇役者」としての地位を確立。

今日はこんなところでしょうか。
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