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2018年08月29日02:09

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8月28日

 いつも窓の外をながめているおばあちゃんがいる。トイレに立つとき以外はいつもその決まった席に腰をかけ、何をするわけでもなくぼんやりとしている。こちらから話かけると、あくまで儀礼的な範囲でささやかな返答がある。かすかにほほえみを口元にたたえてはいるけれど、会話をつづけようという気配は感じられない。むしろ、きっぱりとした沈黙をつくって暗に退散をねがっているみたいだ。ぼくたちは立ち入ってはならない場所にきてしまったみたいに気が重くなり、何か用事を思い出したふりをしてすみやかにそこを立ち去る。
 ただ、べつに人が嫌いというわけでもなさそうだ。たぶん誰かと交流することに疲れてしまったのだとおもう。ふとした表情にそういった影がおちる。そこには人生を十分にやりつくしてしまったような、ある種の諦観めいた落ち着きが見受けられる。おばあちゃんは誰にも干渉されず、ひとりの時間を意味深いまなざしで穏やかにすごしている。もしかすると、その窓にこれまであった様々な出来事を映し出しているのかもしれない。
 「なんだか雲行きがあやしくなってきましたね」とぼくは同じ窓をながめる
 「そうね」とおばあちゃんは言う。
 「お茶でも淹れましょうか?」
 「ありがとう。でももうお腹がいっぱいなのよ」
 おばあちゃんの髪は真っ白い。よく櫛でとかしたようにまっすぐ額に落ちている。淡い緑色のカーディガンがとてもよく似合う。おばあちゃんはもう口を閉ざして久しく、過去を語ることはない。でもそこには何にも変えがたい品格がにじみでている。
 これまでに1度だけおばあちゃんが心を乱し、感情をあらわにしたことがある。
 その日は空が青くすみわたり、心地のいい風がふいていた。おばあちゃんはいつものように窓の外を眺めて物思いにふけっていた。ふと目をやると、ぼくは窓に細長い小さな虫がいることに気がついた。いつからそこにいたものか、窓に足を固着させて張り付き、腹をこちらに見せている。そしてよくよく観察してみると、2匹が重なりあっていることがわかる。つまり交尾をしていたわけだ。じっと動きをとめ、とく恥ずかしがる素振りもなく、その本能的な営みをガラス越しに見せつけている。おばあちゃんもそれに気づいたみたいだった。おばあちゃんは顔を近寄せて、その交尾を瞳に映しこんだ。ぼくは、おばあちゃんの息づかいがしだいに荒くなっていくのに気づいていた。頬も少しだけ紅潮してきている。「どうしましたか。具合は大丈夫ですか?」ぼくは心配になって顔をのぞき込んだ。するとおばあちゃんは、唐突に上体をのけ反らせて、「SEX!」と絶叫した。ぼくは唖然として、しばらく動けなくなった。「すみません。今、なんとおっしゃったのです?」。ぼくはおそるおそるたずねた。するとおばあちゃんは喜色満面の笑みでぼくを見つめ、今度はゆっくりと口を動かして「SEX」、と確実にぼくに聞き取らせた。それから「わたしにもあんな時代があったー」ととろけそうな声をあげた。これまで見たことのない薄いピンク色の歯茎が剥き出ていた。
 それからおばあちゃんはすぐにも落ち着きを取りもどしていった。一時のはげしい情動は、静かな午後に溶けこんであっという間に消えてしまった。そしてまるで何もなかったように、窓際でもの思いにふける日常がそこにつながった。でも、ぼくはたしかに見た。不意なはずみで波形が大きく乱れる瞬間を。時空がひるがえり、たぶん遊びまくっていた頃のはつらつとした青さを取り戻したおばあちゃんを。
 あれからぼくは、道を歩いていたりすると、ふいに「SEX!」と言ってしまいそうになり、慌てて口をふさぐことがある。それくらい強烈に脳みそに刻まれた言葉だった。ちょっとだけ、もて余しているけれど、大切にしていこうと思う
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