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2018年08月10日00:37

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8月9日

 ぼくたちは肉体という、言わば死に向かって進む乗り物にのっており、この年齢になると、できることよりもできないことの方が多くなってくるように思います。プロアスリートのように肉体を磨き抜いてきた人たちですら、30代にはピークを過ぎているとみなされるように、これは肉体の宿命として受け入れるべき現実ではないかと感じます。
 ぼくの肉体がもっとも躍動的に機能していたのは、おそらく中学から高校にかけてだと思われます。日々、部活動などで体と向き合い、達成と挫折を繰り返しあじわいながら、ぼくはそこに生命の灯があかあかとともっているのを感じることができました。根拠のない自信だけはやたらと持っていて、ある種の万能感さえ覚えていたのは、ちょうど脳みそが未発達である時期と重なったゆえの錯覚だったとしても、今現在のみっともない体では到底できないようなことを当然のように行っていたのは確かです。それのひとつにバク転があります。当時、校庭の隅のほうに棒高跳び用のマットが置き去られ、雨ざらしになっていました。それは深く沈み込む柔らかいマットで、ぼくたちはその上で飛んだり跳ねたりして遊んでいたのですが、あるときふと思い立ち、バク転に挑戦してみたところ、意外にもそれが成功してしまうことになりました。もちろんマットの上という状況ではあったのですが、そこにはとくに恐怖というものも感じませんでした。それどころか、目をしっかりと開いて、ぐるんと回転する世界をながめている余裕すらありました。その時は、思い描いたとおりのことを実際に肉体が体現していく能力が、当たり前のように備わっていたのです。
 たぶんぼくは、その時だれかにバク転のことを褒められたのでしょう。それを額面通りにうけとって図に乗り、日がなマットの上でくるんくるんと回ってその技を披露していました。しかしそのうち、マットという保険をかけていることがどこかカッコ悪いようにも思えてきて、ではそろそろ一度、体育館の床で試してみようか、という気にもなり、実際にやってみることにしたのです。もちろん自信は十分にありました。マットの上での万能感は、そのままの形でぼくに訪れると思っていました。しかしながら、いつものように後ろへ向かって飛び跳ねたぼくは、中空において、魔法が解けたかのようにただの木偶となりました。どうしてなのか理由はわかりません。もしかすると恐怖とか迷いがあったのかもしれません。とにかくぼくは、まっさかさまに落下していきました。そして、まるでバックドロップをされる側の人間をひとりで演じているみたいな格好で、ぼくは床に脳天をうちつけました。情けないことに自分の記憶というのはそこで途絶えてしまい、ここからは一部始終を見届けた知人の言葉を借りることになりますが、なんでも床に倒れたぼくはその後ゆっくりと立ち上がり、なぜか首を右に少しだけ傾けて、その場で小さな円を描くように3周ほど回ったらしいのです。それから首を傾けたまま体育館の外へと走り出て、渡り廊下を進み、ふいに脇へ逸れると、花壇のところに逢着しました。そしてぼくはそこに居合わせた下級生の男子の肩に手をのせて、しばらく無言で立ち尽くしていたのです。
 繰り返しになりますが、ぼくはそれについてすこしの記憶も残っていません。あるのは、床が迫った時の一瞬の凍りつくような恐怖と、我に返ったときのみんなのバケモノをみるような表情、それだけです。それからぼくはバク転をやろうと思ったことは一度としてありません。あれから20年の月日が流れました。ぼくの肉体は確実にピークを過ぎ、なだらかに下降の一途をたどっています。今日、子供を連れ立った先にあったトランポリンの上で、冗談半分でバク転へ入る構えをしてみたところ、昔の古傷がうずくように首筋がぞわぞわとして、それからしばらく首を右に傾けて無言になってしまいました。ちょっとどきどきしてしまいました。

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