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2018年02月22日00:06

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2月22日の日記

今日の出来事:1467年−応仁の乱:御霊合戦、応仁の乱が始まる、1877年−西南戦争:熊本城攻撃、1905年−竹島が島根県に編入、1932年−第一次上海事変:爆弾三勇士

今日は、応仁の乱:御霊合戦です。京都市上京区上御霊神社で、畠山義就軍と畠山政長軍が衝突しました。この合戦が「応仁の乱」開始の契機となり、本格的な戦乱の幕開けとなりました。1454年から始まった畠山氏の「御家騒動」は、室町幕府八代将軍・足利義政の介入により、畠山義就が当主となりました。しかし、畠山義就は足利義政の命令を無視して、大和への軍事介入を繰り返したため次第に信頼を失い、反対派が管領・細川勝元の支援で畠山義就の従弟・政長を擁立しました。1460年、紀伊・根来寺と紛争を起こした畠山義就は、京都から紀伊へ軍勢を向かわせましたが、足利義政から見限られていた所を細川勝元に付け込まれ、足利義政から畠山政長への家督交代を言い渡されました。憤慨した畠山義就は拒絶して領国河内へ逃れ、嶽山城で畠山政長ら討伐軍を迎え撃ちました。1463年まで徹底抗戦しました(嶽山城の戦い)。嶽山城が落とされた後は吉野へと落ち延びました。畠山義就に代わって当主となった畠山政長は、1464年に細川勝元の後任の管領に選ばれ、畠山氏を取り込んだ細川勝元の勢力は増大しました。一方、斯波氏も畠山氏と同じく「御家騒動」で混乱していましたが、古河公方・足利成氏の反乱「享徳の乱」で戦乱が続いていた関東への遠征軍を整えたい足利義政の意向もあり、事態は複雑化していました。斯波義廉は堀越公方・足利政知の執事・渋川義鏡の息子という縁で足利義政から斯波義敏・松王丸父子に代わり、斯波氏当主の座に収められました。しかし、実父が政争を起こして失脚し、足利義政から見捨てられる事を恐れ、家臣・朝倉孝景と共に山名宗全ら諸大名と結んで足利義政の妨害に動き出しました。畠山義就もその中の1人で、朝倉孝景を通して畠山義就と提携し、1466年には山名宗全の養女と婚約して派閥結成を進めていきました。同年、斯波義廉が幕府の命令で当主を斯波義敏に替えられると、諸大名がこれに反発しました。山名宗全と細川勝元が結託して「文正の政変」を起こし、足利義政の側近・伊勢貞親、季瓊真蘂らを追放しました。山名宗全・斯波義廉らはそれに止まらず、畠山義就にも挙兵を促しました。これに応じた畠山義就は大和壺坂寺に出頭し、河内にも進出して畠山政長の諸城を落としました。大和では、畠山義就方の大和国人・越智家栄、古市胤栄らが挙兵しました。十市遠清の仲介で越智家栄らが畠山政長方の大和国人・筒井順永と和睦して「大和の争乱」は収まりましたが、河内の畠山義就はそのまま留め置かれ、山名宗全の要請で河内から上洛し、京都に辿り着くと千本釈迦堂に待機しました。危機感を覚えた畠山政長は屋敷の防備を固めました。畠山義就が足利義政と対面すると畠山氏当主は畠山義就に替えられました。畠山政長に屋敷を畠山義就に明け渡す命令が届きましたが、命令を拒否した畠山政長は家臣・神保長誠らと共に屋敷の防衛を強化しましたが、管領を罷免されて斯波義廉に交替させられるなど立場が悪化しました。こうして、山名宗全ら山名派は幕府の権力を握りました。足利義政が山名派に取られ、細川勝元の支援も打ち切られて追い詰められた畠山政長は、2月22日午前4時頃に屋敷を放火し、北上して京都郊外の上御霊神社に陣取りました。山名宗全も午後2時頃に後土御門天皇・後花園上皇らを内裏から「花の御所」へ避難させ、午後4時頃に畠山義就が上御霊神社へ進軍して合戦が始まりました。上御霊神社は西は川で、南は相国寺の藪大堀が引かれていたため、攻め口は東と北だけでした。畠山政長と家臣・遊佐長直らは畠山義就方と戦い、翌23日の午前4時頃まで持ちこたえましたが、上御霊神社の拝殿に放火して細川勝元の屋敷へ逃げ延びました。畠山義就には山名宗全の孫・山名政豊と朝倉孝景らが合流していました。「御霊合戦」は畠山義就の勝利に終わりました。しかし、両派は京都への軍勢召集を止めようとせず、細川勝元が山名派の領国に与党の軍勢を派遣し、細川派が戦端を開いた事により大乱が勃発しました(上京の戦い)。こうして約10年におよぶ「応仁の乱」が幕を開けました。

次に、西南戦争:熊本城攻撃です。西南戦争開戦で、西郷軍は熊本へ向かいました。西郷軍が熊本城下に着く前に、すでに政府側は征討の詔を出し、西郷軍の邀撃に動き出していました。西郷軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが2月21日でした。対して政府が征討の勅を出したのが2月19日でした。西郷軍が動き出してわずか4日で、熊本城を包囲する2日前でした。明治政府は有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に任じ、実質的な総司令官になる参軍(副司令官)には陸軍中将・山県有朋と海軍中将・川村純義を任命しました。これは、カリスマ的指導者である西郷隆盛に対抗して権威のある貴種を旗印として用いるためと、どちらか一方を総司令官にせずに同じ中将の2人を副官に据える事で、陸軍と海軍の勢力争いを回避するためでした。また、薩摩・長州の均衡をとって西郷の縁戚である川村純義を加えて、薩摩出身者の動揺を防ぐ意味も含まれていました。山県有朋もかつて西郷隆盛のもとで御親兵・陸軍省創設のために働いており、鹿児島私学校徒を激昂させた鹿児島スナイドル弾薬製造設備の搬出では、薩摩閥の大山巌に協力するなど薩摩閥内部の西郷隆盛vs大久保利通の争いに長州閥が便乗する構図となっていました。当初、第1旅団(野津鎮雄少将)・第2旅団(三好重臣少将)・別働第1旅団(高島鞆之助大佐)・別働第2旅団(山田顕義少将)の外に川路利良大警視兼少将が率いる警視隊(後に別働第3旅団の主力)などが出動し、順次、他の旅団も出動しました。中でも臨時徴募巡査で編成された「新選旅団」は士族が中心の旅団で、その名称から「新選組」が再編成されたと誤認されました(実際に元新選組隊士も所属していました)。2月20日、熊本鎮台が守る熊本城内で火災が起こりました。烈風の中、櫓に延焼し、天守までも焼失しました。この火災の原因は今も不明ですが、政府軍による自焼説が有力となっています。2月20日、別府晋介が率いる加治木の諸隊が川尻に到着しました。まもなく熊本鎮台から派遣された偵察隊が別府晋介の隊に発砲し、「西南戦争」の実戦が始まりました。熊本鎮台からの攻撃を予想していなかった薩摩軍は、相次いで大隊が川尻に到着した21日夜、川尻で軍議を開きました。軍議では池上四郎が主張する「熊本に抑えを置き、主力東上」策と篠原国幹らが主張する「全軍による熊本城強襲」策が対立しましたが、強襲策が採用されました。2月21日の夜半から22日の早暁にかけて薩摩軍の大隊は熊本に向けて発し、熊本城を包囲強襲しました。桐野利秋の第四大隊・池上四郎の第五大隊は正面攻撃、篠原国幹の第一大隊・村田新八の第二大隊・別府晋介の加治木の大隊、及び永山弥一郎の第三大隊の一部は背面攻撃を担当しました。一方、政府軍は熊本城を中心に守備兵を配置しました。この時の政府軍側には、司令官・谷干城少将、参謀長・樺山資紀中佐をはじめ、児玉源太郎少佐、川上操六少佐、奥保鞏少佐など、後年の大物軍人・政治家らが参加していました。この時の戦力比は薩軍約14000人に対して、鎮台軍約4000人でした。昔から攻城側は守城側の10倍は必要とされており、1対3での包囲強襲は無謀な作戦と言えました。この強襲中の昼過ぎ、遅れて西郷隆盛が川尻から代継宮に到着しました。同日午後、薩摩軍は政府軍一部の植木進出を聞き、午後3時に村田三介・伊東直二の小隊が植木に派遣され、夕刻に伊東直二隊の岩切正九郎が歩兵第14連隊(乃木希典少佐)の軍旗を分捕りました。一方、総攻撃をした熊本城は堅城で、この日の状況から簡単には攻め落とせないと見られました。この夜、本荘に本営を移し、ここでの軍議中に政府軍の第1および第2旅団は本格的に南下し始めました。この軍議では、一旦は篠原国幹らの強襲策続行に決しましたが、遅れて到着した西郷小兵衛や野村忍介の強い反対によって深夜に開かれた再軍議で、熊本城を強襲する一方で一部は小倉を電撃すると決しました。翌23日に池上四郎が村田三介らの小隊を率いて小倉へ向けて出発しましたが、途中で激戦の銃声を聞いて池上四郎は田原に転進し、村田三介の小隊だけが小倉方面へ進みました。しかし、この小隊も植木で政府軍と遭遇し、小倉電撃作戦は失敗しました。薩摩軍は少ない大砲と装備の劣った小銃で、堅城に籠もり優勢な大砲・小銃と豊富な弾薬を有する鎮台を攻めるなど、無謀この上もない作戦を採用しました。2月21日から24日の薩摩軍の攻撃は失敗し、剽悍な士の多くがこの攻城戦で消耗し、24日以後は両軍の対峙状態に陥りました。そこで、薩摩軍は南下してくる政府軍、また上陸してくると予想される政府軍、熊本鎮台に対処するために熊本城強襲策を変更して、長囲策に転じました。植木方面、木留・吉次方面、鳥巣方面、熊本方面では引き続き政府軍と薩摩軍の攻防戦が繰り広げられ、2月20日〜27日には熊本方面、3月1日〜31日には田原・吉次方面、3月10日〜4月15日には鳥巣方面、3月4日〜4月15日には植木・木留方面で激しい戦闘が行われました。なお、この間および後に薩摩軍に荷担した九州諸県の各隊は、「貴島隊(隊長・貴島清、薩摩新募の1箇大隊約2000名」を除くと、以下の通りです。
党薩諸隊
熊本隊:約1500名(隊長・池辺吉十郎、一番小隊長・佐々友房)
協同隊:約500名(平川惟一・宮崎八郎・崎村常雄、隊員・高田露、有馬源?、野満安親、野滿富記)
滝口隊:約200名(中津大四郎)、
飫肥隊:約800名(伊東直記・川崎新五郎・小倉處平)
佐土原隊:約400名(島津啓次郎・鮫島元)
人吉隊:約150名(神瀬鹿三・黒田等久麿・村田量平)
都城隊:約250名(龍岡資時・東胤正)
報国隊:約120名(堀田政一)
高鍋隊:約1120名(石井習吉・坂田諸潔)
中津隊:約150名(増田宋太郎)
延岡隊:約1000名(大島景保)

その次に、竹島が島根県に編入です。竹島は、日本海の南西部に位置する島です。日本、韓国、北朝鮮がそれぞれ領有権を主張しています。「竹島」は日本における呼称で、韓国・北朝鮮では「独島」、第三国では「リアンクール岩礁」と呼ばれています。竹島は、女島(東島)、男島(西島)と呼ばれる2つの小島とその周辺の総計37の岩礁からなり、総面積は約0.23km2で、東京の日比谷公園の1.4倍、東京ドーム5つ程の島です。最頂部は男島が海抜168m、女島が海抜98mです。周囲は断崖絶壁で飲料水に乏しく、通常は人の住む事ができる環境ではありません。島根県隠岐郡隠岐の島町の竹島は、1905年1月28日に島根県への編入を閣議決定し、2月22日に島根県知事が所属所管を明らかにする告示を行いました。これにより、2月22日は「竹島の日」となりました。1951年に韓国政府はアメリカ政府に対して、日本が全ての権利・権原及び請求権を放棄する地域に竹島を明記するよう要求しました。これに対してアメリカ政府は「竹島は朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から島根県隠岐庁の管轄下にあり、この島はかつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとはみなせない」として韓国の要求を却下しました。1951年8月10日に「ラスク書簡」によって「竹島は日本の領土」という米国政府の意向が韓国政府に示されました。その半年後の1952年1月18日に、大韓民国大統領・李承晩が自国の支配下にあると一方的に宣言し、同時に近海を含む「李承晩ライン」を設定しました。韓国政府によって「李承晩ライン」が一方的に引かれた後、日本政府は同月28日に「公海上の線引きに抗議するとともに、竹島に領土権を主張しているかのように見えるがそのような僭称または要求をみとめない」と述べました。この時点では韓国が本当に領土権を主張しているのかどうか不確実でしたが、2月12日に韓国は反論を提示し、以降は両国間で文書を交換するようになりました。1952年7月26日、アメリカ政府と日本政府は竹島をアメリカ軍の訓練地として日本国が提供する事を約する協定を締結しました。翌1953年1月12日に、韓国は「李承晩ライン」内に出漁した日本漁船の徹底拿捕を指示しました。これにより、2月4日に「第一大邦丸事件」が発生し、船長が韓国軍の銃撃を受けて死亡しました。4月20日には韓国の独島義勇守備隊が、竹島に初めて駐屯しました。以降、占拠を続けています。1965年の「日韓基本条約」締結までに韓国軍は、このラインを越えた事を理由に日本漁船328隻を拿捕し、日本人44人を死傷(うち5人が死亡)させ、3929人を抑留しました。韓国側からの海上保安庁巡視船への銃撃等の事件は15件におよび、16隻が攻撃されました。日本政府は当初より韓国側の不法占拠であるとの声明を出して抗議し続けました。また、国際司法裁判所への付託を韓国側に幾度も要請してきましたが、韓国側は「領土問題は存在しない」と言って付託を拒否し続けています。2006年にはウリ党の金元雄(キム・ウォヌン)議員が国際法上の領土紛争にするよう提唱しましたが、進展しませんでした。2012年8月21日、韓国の李明博大統領が竹島に上陸した事から、日本はこれに反発して韓国に対し、 ICJ(国際司法裁判所)に合意付託する事と日韓紛争解決交換公文に基づく調停を行う提案をしましたが、韓国政府より応じない旨を口上書で日本政府に回答しました。1953年の民間人への武力行使に始まる韓国の占拠に対し、日本は「不法占拠」として抗議しました。一方、韓国では「実効支配」としています。しかし、両者の主張は平行線をたどり、日本が国際司法裁判所への付託を検討しても、毎回韓国側が拒否をするため実現していません。国際司法裁判所への付託は、義務的管轄権がない紛争の当事国が拒否すれば裁判を行う事ができません。韓国側は1954年10月28日の公文で、以下のように述べています。「紛争を国際司法裁判所に付託するという日本政府の提案は、司法的な仮装で虚偽の主張をするまた一つの企てに過ぎない。韓国は、独島に対して始めから領土権を持っており、この権利に対する確認を国際司法裁判所に求めなければならない理由は認められない。いかなる紛争もありえないのに擬似領土紛争を作り上げるのは、まさに日本である。」

最後に、第一次上海事変:爆弾三勇士です。「第一次上海事変」中の1932年2月22日、日本軍が蔡廷鍇の率いる国民革命軍19路軍が上海郊外の廟行鎮に築いたトーチカと、鉄条網とクリークで守られた敵陣へ突入するために鉄条網を破壊をする作戦が決定されました。この作戦に36名が志願し、独立工兵第18大隊(久留米)の江下武二、北川丞、作江伊之助の3名の一等兵が選ばれました。3名は、突撃路を築くために点火した破壊筒を持って敵陣に突入し、爆破しました。自らも爆発に巻き込まれて3人は戦死しましたが、鉄条網の破壊には成功しました。一種の特攻隊でしたが、非常に危険性が高いが救う手段は考えられており、確実な死を前提とした作戦ではありませんでした。陸軍大臣・荒木貞夫がこの件を愛国美談に仕立て、「爆弾三勇士」と命名しました。大阪毎日新聞、東京日日新聞は「爆弾三勇士」を使い、大阪朝日新聞、東京朝日新聞は「肉弾三勇士」と称しました。3名は二階級特進して、陸軍伍長となりました。事件の直後の2月24日には東京朝日新聞で「「帝国万歳」と叫んで吾身は木端微塵」、25日に「西部毎日新聞」で「忠烈まさに粉骨砕身」、「大阪朝日新聞」で「葉隠れ主義の露堂々」など美談として広く報道されて反響を呼び、壮烈無比の勇士としてその武功を称えられました。軍国熱が高まって映画や歌にもなり、陸軍始まって以来とも言う弔慰金が集まりました。映画では、日活や新興キネマといった大手の映画会社から、河合映画製作社、赤沢映画、東活映画社、福井映画社といった群小のプロダクションの計6つの映画社が競ってドラマチックな愛国の美談として映画化しました。事件報道後10日足らずの3月3日に新興と河合が封切り、6日に東活、10日に日活、福井も3月17日と事件の起こった翌月3月中に7本の映画が封切られました。彼らを題材に顕彰歌の歌詞を公募し、大阪毎日新聞、東京日日新聞が与謝野鉄幹の作詞、辻順治の作曲による「爆弾三勇士の歌」、東京朝日新聞が1席が中野力の作詞、山田耕筰の作曲、2席が渡部栄伍の作詞、古賀政男の作曲による「肉弾三勇士の歌」になりました。三勇士人気に便乗して多くの図案などにも採用され、さらには三勇士グッズ(菓子・ヘアスタイル・和服のデザイン)まで出る騒ぎとなりました。小中学校の運動会競技にもなりました。当時の人気漫画「のらくろ」の1932年5月連載分で、「爆弾三勇士」がモデルと思われる3頭の犬が活躍するエピソードが描かれました。1933年には、大藤信郎によるアニメーション映画「蛙の三勇士」が公開されました。子供たちに「肉弾三勇士ごっこ」が大流行しました。教科書でも取り上げられ、1941年〜45年までの初等国語科と唱歌教材に取り上げられました。

今日の誕生日:ジョージ・ワシントン(初代アメリカ合衆国大統領)、ハインリヒ・ヘルツ、宮武外骨、高浜虚子、谷啓(クレージーキャッツ)、財津一郎、大藪春彦、加納典明、都はるみ、日高富明(元ガロ)、イッセー尾形、河内洋、濱田のり子(元セイントフォー)、佐々木主浩、鈴木早智子(元Wink)、渡瀬マキ(元LINDBERG)、菊池健一郎、陣内智則、堂島孝平、yuri(元m.o.v.e)、克哉(UVERworld)、狩野英孝、柴田あゆみ(元メロン記念日)、水沼宏太、横山玲奈(モーニング娘。)、ぐんまちゃん

今日の記念日:世界友情の日、竹島の日、猫の日、行政書士記念日、食器洗い乾燥機の日、おでんの日、ヘッドホンの日、駅すぱあとの日、頭痛にバファリンの日、太子会、2枚目の名刺の日、忍者の日、乃木坂46の日、温泉マークの日、スニーカーの日、猫背改善の日

今日の「今日訓」:本日は、ボーイスカウトの創立者であるロバート・ベーデン=パウエルと妻オレブの誕生日を記念して「世界友情の日」、竹島の島根県編入を記念して「竹島の日」、2月22日の「222」が猫の鳴き声「ニャン・ニャン・ニャン」と読める事から「猫の日」、数字の「2」が猫背の人を横から見た状態と似てる事で「猫背改善の日」、1951年に「行政書士法」が施行された事を記念して「行政書士記念日」、1988年2月22日に日本初の交通機関の最適な経路を提供する案内ソフト「駅すぱあと」が発売された事で「駅すぱあとの日」、食器洗い乾燥機により食後のゆとりができ、夫婦団らんの時間ができるとして「夫婦(22)にっ(2)こり」の語呂合わせで「食器洗い乾燥機の日」、熱々のおでんに「ふー(2)ふー(2)ふー(2)」と息を吹きかける事から「おでんの日」、ヘッドホンは2チャンネルの出力で音楽を楽しめる事から、2の重なるこの日を「ヘッドホンの日」、推古天皇30年(622年)2月22日に聖徳太子が亡くなった事から「太子会」、2012年2月22日に「AKB48」の公式ライバルとして結成された「乃木坂46」が「ぐるぐるカーテン」でCDデビューをした事で「乃木坂46の日」、「ず(2)つう(2)に(2)」の語呂合わせで「頭痛にバファリンの日」、2が重なる事で、社会人が本業以外に社会活動を行う2枚目の名刺を持つ事を記念する「2枚目の名刺の日」、数字の「2」と忍者の「にん」をかけて「忍者の日」、スニーカーの語源が「スニーク」(忍び寄る)から「スニーカーの日」、温泉マークの3本の曲線の湯気が逆から見ると数字の2が3つ並んでいるように見える事から「温泉マークの日 」となりました。
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