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2017年10月09日08:10

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NHK刈屋富士雄アナウンサー、講演会

母校 杏林大学の学園祭で聞いてきたNHK 刈屋富士雄アナウンサーの講演会。概要を書いておきます。
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御殿場で生まれた刈屋アナウンサー、1968年のメキシコオリンピックで黒人運動のアピールが行われた場面を見てオリンピックの影響力の大きさを実感。それを伝える道を志した。
1992年バルセロナでオリンピックデビュー、2004年アテネ大会、体操での「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ」の名実況で一躍有名になった。この実況を生んだのは「言葉の選択とタイミング」。膨大な取材資料の中から様々に価値判断を行い、さらに現場の状況から判断した計算しつくされた実況だったのだ。
同じく2006年のトリノオリンピックでも、本命のスルツカヤ、サーシャコーエンが調子を落とし、ダークホースの荒川静香が調子を上げていく過程を冷静に分析、「トリノの女神がキスをした」という独特の表現に成功した。
一方、2001年のフィギュア世界大会におけるエフゲニー・プルシェンコの圧倒的な演技の前では、「うーん・・・、プルシェンコ」しか言葉がなかった。が、ファンの共感は得られたそうで、言葉は共感によって命を持つことを実感したといい、アナウンサーの仕事は説明ではなく、伝えることにつながる。

いま、若いアナウンサーに伝える立場になり、大先輩の志村正順アナウンサーが自身の野球殿堂入り表彰パーティーで語った話を語り継いでいる。
かつてNHKのエースアナウンサーだった和田信賢氏が、戦時中に学徒出陣式の実況を担当したが、当日に体調不良で急遽欠席。代わって志村氏が担当した。これを機会に志村氏がエースになり、和田氏は一線を退いたが、後日、和田氏の体調不良は若者を敗戦濃厚な戦線に送ることへの抵抗だったことを知り、志村氏自身もアナウンサーを辞し、世間の表舞台からも姿を消した。
その志村氏が久しぶりに顔を出したパーティーで、若いアナウンサーに語ったこと。「NHKは二度と国民を戦地に送るような放送をするな」、「アナウンサーは上司のために喋るな、視聴者のために喋れ」。
この2点は、NHKのアナウンサーが
今も語り継いでいる。

この後、大相撲に関する話題を少々と、質疑応答ではスポーツ選手の名言としてミシェル・クワンと武蔵丸の言葉、先輩アナウンサー志村氏のエピソード、NHKと民放のスタンスの違い〜NHKが報道であるのに対して民放はエンターテイメントであることなどを話されました。
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さすがは喋りのプロフェッショナル、ときにユーモアを交え引き込まれる話術に聞き惚れる、あっという間の一時間でした。
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