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2017年03月12日20:18

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亀岡市・保津城跡攻城レポ日記

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亀岡市保津地区の奥に「明智越え」という古道があります。亀岡から京都の嵯峨野へ抜ける古道の一つで本能寺の変の際、明智光秀の軍勢が丹波亀山城から京都本能寺へ向かった際に通った道の一つと言い伝えられている古道です。
この明智越えの道は古くから亀岡と嵯峨野を繋ぐ道として使われていたようで、その街道の亀岡側の入り口を防御するかのように造られたのが保津城跡でした。
保津城跡の歴史は詳しくは分かっていません。ただ、南北朝期にはあったそうです。
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明智越えの道に入ったすぐの場所。この左右がすでに保津城跡の城域です。
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明智越え入り口の前の市道側斜面にある石垣。保津城跡当時の物かは不明。
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明智越えの道に入って左手、西側に空堀らしきものがありました。
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折れを駆使した空堀は時代的に戦国末期、光秀の時代の改修が入っている?
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明智越え西側の曲輪。割と広い。
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明智越えの道にある保津城跡の看板。
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明智越えの道の右手、東側にはかなり立派な竪堀状の空堀が麓に向かってまっすぐ伸びてます。
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空堀の東側には雛段状に曲輪群が連なります。
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東の上段曲輪。
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中段の曲輪。中々高い切岸です。
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下段の曲輪。切岸のラインが明瞭に残されています。
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保津城跡はどちらかというと居館跡と言った感じの城跡でしたが、中々保存状態が良く薮化もそれほどではないため見学しやすくまた明瞭に残る空堀や切岸も見ごたえがあるものでした。
ただ、疑問に思う点も。
竪に延びる空堀はあるものの、本来あってもおかしくはない各曲輪に付属する土塁や曲輪間の堀切が一切ないこと。なんか田畑の跡にも見えなくもないような…
写真の空堀もそのまま麓の市道に繋がってますしただの道として作られた疑いも無きにしも非ず。
さらには保津城跡から奥に進んだ先に「空池」というため池跡もあるし・・・
日本城郭大系には保津城跡として記載されてますが、京都府教育委員会の京都府中世城館調査報告書には「城跡類似遺構」扱いされているのもそういった疑問が拭えないからなのかもしれません。
なので、今回はいつも引用している縄張図が存在しませんので写真のレポのみとなります。
まぁ、いずれ縄張図を描きに行ってもいいわけですが…
ただし、地元から古く言い伝えられてきた城跡だという点は無視できないものがあると思います。
それは今年1月に攻めた山崎城跡にも言えること…
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1957832200&owner_id=21015697
※山崎城跡攻城レポ日記

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ちなみに保津城跡へ向かう途中の保津地区の集落の中に保津五区集会所として移築され使用されているかつての丹波亀山城の新御殿の玄関棟がありますので、こちらも是非立ち寄られることをお勧めします。

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