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2016年04月10日15:17

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第588回 札幌交響楽団定期演奏会

【プログラム】
1 プロコフィエフ: 交響曲第1番ニ長調Op.25「古典」
2 チャイコフスキー: ロココの主題による変奏曲Op.33(原典版)
       〜〜〜休 憩〜〜〜
2 ラフマニノフ: 交響曲第2番ホ短調Op.27

(アンコール)
J.S.バッハ: 無伴奏チェロ組曲第1番ト長調BWV1007より第3曲「サラバンド」

イェンス=ペーター・マインツ(Vc)
ドミトリー・キタエンコ(指揮)
札幌交響楽団

《ロビー・コンサート》
モーツァルト:セレナード第13番ト長調「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」より第1楽章,第3楽章,第4楽章
 河邉俊和,中村菜見子(Vn)
 青木晃一(Vl)
 小野木遼(Vc)

2016年4月9日(土),14:00〜,札幌コンサートホールKitara


キタエンコが登場する定期のプログラムは,すべてロシアの作品からの選曲だ。鋼のように強靭な響きの「古典交響曲」,西欧への憧れが滲みでる「ロココの主題による変奏曲」,そして爛熟したロマンチシズムが横溢するラフマニノフの「交響曲第2番」。それぞれの作品が目指す方向は異なるようだが,いずれも19世紀後半から20世紀初頭のロシアに深く根差す音楽ばかり。ロシア近代音楽の3つの側面を代表する作品であり,ヨーロッパの音楽が辿った道筋を追ったプログラムでもある。

3人の作曲家の個性に即した異なるスタイルによる多彩な描き分けを期待したのだが,どうやらこの予想は当たっていなかったようだ。キタエンコが採用したのは,もう少し別のアプローチによりロシアを表現することだった。

「ハイドンが現代に生きていたとしたら書いたような作品」と作曲者自身が言った「古典交響曲」は,ハイドンの交響曲の形式を忠実に踏襲しているが,プロコフィエフならではのスピリット(精神)が横溢する作品である。ストラヴィンスキーの新古典主義の器をショスタコーヴィチの響きで造形し,プロコフィエフの個性で味付けした傑作の域に達する習作といっていいだろう。

だが,キタエンコと札響は「古典交響曲」をドイツロマン派のように演奏する。その響きは渋く重厚であり,悠揚迫らざるテンポであり,ブラームスの楽想の演奏にも通ずるかのようなスタイルだ。プロコフィエフのエキセントリックに狂喜するような表情は影を潜めるない。鋼鉄とガラスでできた建築を先取りするかのような磨き抜かれた強靭な響きからも随分距離がある。ただ,このゆっくりとしたテンポや重心の低い渋く深いサウンドは,ロシアの大地との交感を表現しているようでもある。

一転して「ロココの主題による変奏曲」では,西欧のメロディーやハーモニーに憧れながらも,ロシア的な哀愁が知らないうちに紛れ込んでしまうチャイコフスキーの洗練されたチャーミングな音楽をキタエンコと札響のコンビは見事なまでに奏でていた。このコンビが,これほど明るく優雅でありながら,ロシアの民族色が調和した演奏をしてのけるとは予想外だった。おそらく,札響のポテンシャルをキタエンコが絶妙に引き出したからなのだろう。

キタエンコと札響のバックに輪をかけて印象的だったのは,イェンス=ペーター・マインツのチェロ独奏。惚れ惚れするようなテクニックに裏打ちされ,現代的センスあふれる洗練の極みをゆくマインツのチェロを聴いていると,ドイツの大都市の新市街に拡がる最新の技術が注ぎ込まれたビル群を思い浮かべる。あるいは,アウトバーンを余裕たっぷりに疾駆するベンツやBMWを連想させるといってもいい。最高の素材を最新の技術と感性で仕上げた最高級の製品の趣がある。

マインツの経歴をみれば,わずかに泥臭さの残る「ロココの主題による変奏曲」を高級車が駆け抜ける瀟洒なビル群の街並みに溶け込ませる術を心得ていることに納得する。ゲリンガス,シフ,ペルガメンシコフに師事し,9年間におよぶベルリン・ドイツ響の第一チェロ・ソリストを経て,アバドの招きでルツェルン祝祭管のソロ・チェリストに就く。彼のチェロ独奏を聴けば,アバドのお気に入りのチェリストであることに心から納得でき,ルツェルン祝祭管が目指すサウンドと方向と一致することが理解できる。

アンコールで演奏された「無伴奏チェロ組曲第1番」のサラバンドは,先週聴いた津留崎直紀の楷書体の対極にあるような肩の力を抜いた草書体の演奏であり,ある意味で卓越したテクニックを披露するかのようでもあった。

甘美な旋律と豊麗な色彩が織り成す熟れすぎた果実のような演奏を予想したラフマニノフの交響曲第2番もいい意味で裏切られた格好だ。

この交響曲に限らずラフマニノフの作品は総じて爛熟したロマンチシズムに彩られているという側面が強く,それがステレオタイプとして定着している感さえある。ただ,ラフマニノフに対するこのような見方では,滴り落ちるような美しい旋律や和声が際立つ箇所以外は音楽的に無価値なのかという疑問が生じる。この交響曲第2番でも,第3楽章の心を溶かしてしまうような退廃感さえ漂う旋律を除くと,他は無用な付け足しではないかとさえ思うこともある。

キタエンコの演奏からは,こうした疑問を一顧だにしていないかのような印象を受ける。広大なロシアの大地がもたらす恵み,そしてその底知れぬエネルギーを音楽的に表現した作品であるというのがキタエンコの解釈らしい。この作品の抒情的な性格も,秋の夕暮れの美しいひと時といった一つのエピソードに過ぎないと言わんばかり。ロシアの力強さと逞しさとが,ラフマニノフも含めてロシア音楽の神髄であることをロシアで生まれ育った音楽家として伝えたいという意欲に満ちた演奏だった。

こうしたキタエンコの姿勢が端的に表れていたのが第4楽章のアレグロ・ヴィヴァーチェ。エネルギッシュで躍動感あふれるスケールの大きな表現を聴いていると,ときに過酷な自然災害や他国の侵略,支配者の横暴に苦しむことがあっても,果てしなく続く平原の恵みに支えられ生活してきた人々の逞しさや敬虔さがこの作品の底流にながれていることに思い至る。こうした視点で第1楽章から第3楽章までを振り返ってみると,統一された視野でこの交響曲,ひいてはラフマニノフの音楽が描いているものを捉えることができることに気付く。この作曲家の作品を理解していなかったことを反省した。

こうしたことに気付いた一因は,ステージに所狭しと並ぶ3管編成のオーケストラを目にしたことも無関係ではないだろう。後期ロマン派によくある大管弦楽の視覚的効果が,それが演奏する作品の印象にも少なからず影響を及ぼすことはありうることだ。これも録音を聴くだけでは死角になりやすい。

札響はラフマニノフの交響曲第2番でもキタエンコの期待に応えて健闘していた。だがこの曲のもつエネルギーとスケールを十全に表現するパワーにはやや欠けるうらみがある。強奏する箇所では響きが荒くなりがちで,耽美的な箇所でもどこか醒めたような演奏に陥りがちなのは,気持ちのうえでの制約を取り払って大胆に振る振る舞うべきところで,臆病になってしまい無意識のうちにブレーキをかけてしまう癖とその壁を破らなければという葛藤の顕われなのではないだろうか。だが,今はできなくても,コツコツ努力を積み重ねて行けば,壁は乗り越えられると楽観していることもうかがわれる。

終わってみれば,豪放磊落なロシア音楽が支配的な演奏会だった。鬱屈したロシアではなく,骨太で健康的なロシアと言い換えてもいい。これはロシアに対して心を開けというサインなのかもしれない。
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