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2015年10月11日01:12

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企業の不祥事に社員が違法と知りつつ関わる理由 by 山崎元

 すべてコピペ

ドイツを代表する企業であるフォルクスワーゲン社(VW社)の、クリーンディーゼル車をめぐる不正ソフト使用の問題は、まだ全貌が見えない。問題は、米国だけでなく、お膝元である欧州市場にも広がりつつあり、当局による制裁金に加えて、大規模な集団訴訟も準備されているようだ。VW社が今後支払う金額は途方もないものになりそうだし、イメージの上でのダメージも小さくはあるまい。ドイツの雇用や経済にも影響が及ぶ可能性がある。

 これほどの大問題だが、これまでの報道によると、2011年時点で社内の技術者が違法な規制逃れを指摘した文書を監査役会に提出しているなど、VW社内で問題の所在は以前から知られていたようだ。問題のソフトをVW社に提供した自動車部品大手のボッシュ社も、ソフトはあくまでも社内用で規制対策に用いるのは違法だと文書で警告していたという。

 VW社の問題はまだ始まったばかりだが、財政赤字に厳しく、過去のナチスに関わる歴史問題でも自国に厳しいドイツは、融通がきかないけれども正直な国民性なのかと思えば、ビジネスの世界では違うらしい。

 実は、1990年代には日本の金融機関が不良債権を隠すなどの会計操作をしていたことについて、市場による会社の監視が強力に働いているとされた米国との対比で批判されたことがある。

 しかし、その後、エンロン社、ワールドコム社などの大規模な会計粉飾が発覚し、米国の企業や制度の下でも大規模な不正は起こりうることが、事実をもって雄弁に証明された。

 ついでに言うなら、2007年に「サブプライム問題」として顕在化し、翌年のリーマンショックから金融危機に至る大問題のきっかけとなった、住宅ローン債権が「ヤバい」ことは、金融の当事者なら大なり小なり分かっていたはずだ。問題を知りつつも、自分だけは儲けようとした、個々の金融マンにとっては経済合理的な行動が、巨大なバブルとその後の経済危機を生んだ。

 日本企業・日本人、米国企業・米国人だけでなく、ドイツ企業あるいはドイツ人も十分汚いことをするのだという事実には、社会的には歓迎できないことながら、人間とビジネスの普遍性を感じて、ある種の感慨を覚える。
 付け加えると、日本型、米国型、欧州型、いずれのコーポレートガバナンス(企業統治)も、不祥事の誘惑の前には無力だったということは覚えておきたい。また、こちらも問題が現在進行形だが、我が国の東芝は、現在の先進的とされる日本型企業ガバナンスでもやはり無力であったという事例を付け加えている。

 不祥事は、国民性やガバナンスくらいで抑え込むことができるヤワな生き物ではない。

不祥事を育てる3つの心理
経営者・社員の倫理観はなぜ麻痺するのか

 経営者を含む社員が、不祥事に関わるのはなぜなのか。煎じ詰めると、個人にとってそれが合理的に思えるから、ということだろう。しかし、結果から見て合理的でない場合もあるし、判断に当たって特有の心理的な歪みが発生しているのではないだろうか。

 全ての企業不祥事に共通とまでは言えないが、多くのケースで共通する心理として、

(1)個人が組織から受ける重圧

(2)組織を建前とする個人の責任意識の希薄化

(3)問題を軽視する現実認識の楽観的歪曲

 の3つを挙げたい。

 例えば、東芝の不適切会計問題(そろそろ「粉飾決算」と呼ぶべき時期だろうが)では、上からの要求なので、各部門は「チャレンジ」(利益の水増しのこと)を断れなかったろうし、数字を作る現場の社員も部門のマネジャーの指示に従ったのだろう。そこには、彼らの、個人的な人事評価や出世、ボーナスなどを考えた利害だけには還元できない心理が働いていたのではないか。

 加えて、多くの不祥事にあって、不正を知る立場の社員は、自分がやっていることは、上の命令でもあり、「会社のため」にやっているのだから、悪くはあってもやむを得ない、自分個人が悪いわけではない、という意識が働いているように思う。考えてみるに、人間は、「お国のため」なら人殺しができるし、「会社のため」なら不正ができる、かなりいい加減な生き物なのだ。
 例えば、1980年代の末期にかけて、信託銀行ではファンドトラストと呼ばれる運用商品(信託銀行が顧客から資金を預かって運用する仕組みの商品)で、本来違法な「握り」と呼ばれる利回り保証を付ける営業が広まっていた。加えて、保証利回りを達成するために、資産運用の部署(「受託資産運用部」といった名称)にあっては、顧客の口座間で利益の付け替えを大規模に行っていた。

 営業から、運用に至るまで、多くの行員が関わっていたが、個々の行員は本来違法な行為であることを知りつつも、自分は銀行員として関わっているだけだという理解の下で、罪の意識は希薄だったように思う。

 信託銀行員だった筆者は、この問題について、社内のある会合の場で当時の社長に質したことがあるが、それは主として利回り保証の経済的なリスクの観点を問題としたもので、違法行為としての問題性に主たる関心があるものではなかった。振り返ってみると、筆者も、経済倫理的に適切な意識を持っていたとは言いがたい。

 なお、筆者自身は不正に一切手を染めなかったなどと言いたいわけではない。記憶にある限りでも、例えば、先物のトレーディングで利益が出た売買を後から重要顧客の口座に付け替えるような不正(通称「花替え」という)を行ったことが何度かある。「会社のためだ」と思うことで、倫理観が麻痺する心理には、身に覚えがある。

 ところで、ファンドトラストの利回り保証の運用リスク・経営リスクを問われた当時の社長(信託銀行では「頭取」ではなく「社長」と呼ぶ慣例だった)は、「そのリスクを何とかするのが、運用部門のノウハウであり努力だ」と答えた。経済的リスクに関しても、法的な問題に関しても、経営トップの現実認識は過度に楽観的だった。

 VW社のケースでは、問題を社内のどの範囲まで把握していたのかが今後大きな問題になりそうだが、「我が社の場合は、たいした問題にはならない」という楽観が関係者にはあったのではないか。

「飛ばし」で自主廃業に至った
山一證券を題材に復習しよう

 現在、WOWOWで自主廃業前後の山一證券を題材にしたドラマ「しんがり〜山一證券最後の聖戦〜」(日曜夜10時。原作は「しんがり 山一證券 最後の12人」清武英利著)が放映中でもあり、山一證券を題材に、前記の3つの心理について、復習しておこう。筆者は、詳しい事情を知る立場の社員ではなかったが、自主廃業が発表された1997年当時、同社に勤めていた。

 山一證券が自主廃業せざるを得なくなった直接の原因は、3000億円近い「飛ばし」(損失の意図的隠蔽)が発覚したことだった。「飛ばし」は、重要顧客に対する利回り保証付き運用の補填から発生したが、何年にもわたってこれが水面下に存在するにあたっては、当然飛ばしの面倒を見る担当者がいたはずだ。
 しかし、彼らは、違法だと思いつつも、「会社のためにやらねばならない」という重圧の下で、飛ばしを継続していたはずだ。

 一方で、関係する担当者も経営者も、「会社のためだ」あるいは「日本の証券市場・証券行政のためだ」といった理屈の下に、飛ばしを続けることに関して、個人的な罪の意識は希薄だったのではないか。山一が飛ばしを認めると、当時の大蔵省の証券行政にとっても大変な問題だ、という意識もあった。

 山一に「表面化させることができない巨大な含み損がある」というストーリーは自主廃業の何年も前からマスコミで記事になっていたし、多くの山一社員が「当社には世間に隠している何かがある」という認識を大なり小なり持っていた。

早い段階で表面化させて処理すれば
会社は潰れずに済んだ

 だが、自主廃業発表の直前まで、社員にとっては「大手証券だから潰れまい」(当時「四大証券」という懐かしい言葉があった)、「準大手証券など他社の方が先に潰れるだろう。当社はまだ大丈夫だろう」といった考えにリアリティがあった。当時の筆者の上司(本社の部長)は、「ウチに例の問題があるのは、ご存じの通りだが、もふ(「MOF」、当時の大蔵省の通称)もご存じなのだから、あいつらはウチを絶対に潰せないよ」と話していた。

 恥を晒すと、筆者も、当時、日本長期信用銀行がSBC(スイス銀行)の傘下に入ったように、山一も外資系の金融機関に買われるのではないかと、自主廃業を発表するぎりぎりまで、そう思っていた。外資系企業から見て、山一のビジネスには丸ごと買う価値があると思っていたからだ(上手く交渉すれば潰さずに済んだのではないか、潜在的買収者にとって潰すよりも存続させた方が経済的にプラスだったのではないか、という意識は今もある)。

 いずれも、「今日まで続いてきた会社が、明日も続くだろう」と、悪い可能性を十分に探ることなく楽観していたにすぎない。

「飛ばし」は、何年にもわたって存在した訳だが、初期の段階、あるいは山一に体力がある時期に表面化させて処理しておいたなら、会社は潰さずに済んだのではないか。今もそう思うと残念である。
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