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2024年05月02日04:49

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忍と慈愛

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 家の大机上には所狭しと本、文房具メモ紙が散乱して置かれている。ネコの額の広さが読書スペースだ。本の山に三枚の色紙がある。座右の書というべき存在だ。すぐに手に取り自分の心を鼓舞するためと置いてある。二枚が梶浦逸外老師の揮毫である。老師は岐阜関の伊深正眼寺管主だった。これだけでは誰となろう。プロ野球巨人軍で偉大なバッター、そして監督で日本一9連覇した川上哲治の禅師匠だ。偉大さが理解できる。
 さて持っている二枚色紙の文字は一字だけで別々だ。「忍」と「夢」である。実に力強く太い文字が迫ってくるよう。梶浦老師はこちら岐阜の椎茸栽培を広め短大も作った。偉人だ。
 著書「耐える」は良い本だ。心に訴えかけるものがある。ここで耐える大切さを説く。人生の四苦八苦に耐える。これが受け身ではなくもっと自分を鼓舞し立ち向かう大変なことだと分かる。物事を成功させることからか始まりあらゆる面で「耐える」だ。思うに目標のため努力せよそのために耐えよは理解できる。ところが人は侮辱には耐えること難しい。何せプライド持ち感情の動物だからね。それでも我慢せよという。ハムレットの「To be or not to be(生きるべきか死すべきか)」。侮辱する、深い悲しみに耐えるのかそれとも自爆覚悟で暴れるのが良いのか。長い人生ではこんな場面にもぶち当たる。あなたにも身に覚えあろうて。
 「耐え忍べ」という梶浦老師に慈愛を感じた。歳とったからか自分の勝手な解釈からか。そんな苦しみを耐え悶え苦しむ姿を慈愛の眼差しで見ている観音様を連想した。忍と同じくらいな慈愛の重要さだ。キリスト教での聖母マリアか。人の悲しみにただ慈しみの眼差しで涙を流すマリア像もあるという。お金、権力もない何の世俗的な力は無い。無力を嘆く。僧侶、老人はただ悲しむ苦しむ人を慰めだけだ。解決できない苦しみを静かに受け止めてくれる人がいるだけで幸せ。
 小林旭「泣いて昔が返るなら」という歌謡曲があった。後悔して泣いて元に戻ればどんなに幸せなのだろう。色恋沙汰でこれだけ悔やみ悲しむならば人の生死はどうなるか。思っただけで悲惨。知人の介護職ベテランさんがいる。その人が訪れる先の90歳を超えた婦人は行く度に「五歳で事故死した息子はそれは可愛い子だった。」と繰り返し話すと。家を元気よく飛び出て車に撥ねられて即死した。この悲しみは母親が死ぬまで続くのだ。
 忍べといえない。もしも梶浦老師が説くならば慈愛の目でこの婦人に接されただろう。
 自分ではもはやどうしようもない悲しみがある。お釈迦様はそんな衆生に手を差し伸べる。 観音様を作られた。観音様は特に慈愛の気持ちで寄り添ってくださるのだ。観音様の生前は、孤島に捨てられ餓死した子供だったと由来はゆう。「生まれ変わったら、自分たちのように苦しんで人を救いたい。」と発願されたのだ。

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