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2022年04月25日14:55

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未熟な私たち人間にとって、病と戦争は同じ本質をもっていそうです。 仲間たちの四月の投稿の一端です。

山崎 順子
「 ロシアは今日、こうした人々から際立って自由である。ロシアの多くの敵は、私はここでこの広大な国のことを言っていると推測したであろうが、そうではない。ロシアは大きな間違いを犯しているが、それは狂信的なイデオロギストの間違いであり、もしくは無知で、未成熟で、周囲の悪いことに憤慨して罪を犯すギャングと同じ間違いである。
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これは、私がこれまで述べてきた悪とは全く違うものである。ロシアは学ぶであろうから、それが長続きすることはない。一方、こうした人々が学ぶことはない。」
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( では、「こうした人々」とは、なにを指しているのか? )
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「犯罪者やギャングは不完全さが集中して現れたことによる結果である。彼らは、無知、子どものときに受けた誤った扱い、正しい人間関係についての時代時代を通しての誤解の犠牲者である。
再生誕の法則がやがて彼らを善への道へと導くであろう。
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真に邪悪な人々とは、悪い古い道へと戻るよう強いる人々であり、同胞を何らかの形の奴隷状態に保とうと努める人々、「四つの自由」の一つもしくはすべての表現を阻止する人々、搾取されている人々を犠牲にして物質的な富を得る人々、もしくは地球の産物を自分自身や利益のために保持することで、豊かさに恵まれていない人々にとって生活必需品の価格を法外なものにしようとする人々である。
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このようなことを行い、考え、計画する人々はあらゆる国に見られ、彼らは通常富と影響力があるため傑出した人々である。彼らは光に対して罪を犯しているが、それは無知からではない。
彼らの目標は霊的なものではなく、物質的なものである。彼らの数は、数えきれない大勢の人々と比べると比較的少ないが、ことのほか強力である。彼らには高い知性があるが悪辣である。
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悪の勢力は彼らを通して働き、進歩を妨げ、貧困を増長し、憎悪と階級差別を生み出し、自らの目的のために人種差を広げ、無知をはびこったままにする。彼らの罪は大きく彼らが変わることは難しい。というのは、力と(善をなさんとする意志に敵対する)力を得ようという意志が彼らの生活においてすべてを統御する支配的な要因になっているからである。
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こうした人々が今日、彼らの貪欲さ(石油、鉱物資源、食料のような)地球資源を自分のようなものにしようという決意を通して国際連合の結果に抵抗し、人々に十分な食料を与えずに弱いままにしようとしている。あらゆる国に見られるこうした人々はお互いのことを十分理解しており、人々を犠牲にして地球の富を搾取するために大きな企業合同という形で一緒に働いている。」
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私はいま、下記の投稿(私自身)と関連して、そのあてはめに正直をいい若干の迷いをもっている。
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著者は1949年に亡くなり、これは第二次世界大戦後に書かれている。よって「今日」とは当時のものである。
著述自体は霊的なエネルギーによるもので、マクロは太陽系の幾つもの誕生とまたがり、また逆に超ミクロの単位まで及ぶ事細かな目に見えないものも含む。
私たちの対応いかんで当然それゆえ誤差も生まれようし、同様すべての著作の予測がきっちりと(数は少ないが)あたっていたとはいえない。
ただ本質は、高度の知性で科学・論理に沿うものと強く感じられ、したがい、独断で決められることではないため、ようす(冒頭部)を伺う段階といえる。
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* ( )内記述は、私の付加、また改行も。
なお、現在のウクライナ問題に対応させ、「こうした人々」を単純に米国と解することは誤りなのは当然です。
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初台 太郎
同著書の最も難解な一つの点が、ウクライナ問題で、解決したと思っています。
(肉体的なものも心理的なものも)「(戦争を含む)病気の原因は」(聖なる可能性の歪められた反映としての)善いもの、美しいもの、真なるものにあるとし、「この文章を最初に読んだときには、このようなことはありえないと思えるが、注意深く研究すると、その本質的な真実性が明らかになる」としている点です。
もちろん「真・善・美」自体がいけないというのではなく、人類の方向性はまさしくそこにあり、それゆえ短絡されやすいので、注意深く触れなければならないと思います。
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人は「善」なる駆り立て意志が強すぎ、現在現段階における内なる進歩以上の物質的な混乱全般と、鬱や劣等・挫折感を生み出しているといえます。鬱は人間の防御的反応であることは周知のとおり、それらは(戦争や疾病の、歪みである)部位の不活発さがもたらす抵抗と摩擦に遭遇しているわけです。
すなわち、現在は、真の魂との接触と統御、将来必要な意志と神性のパワーの喚起を促す段階にあるとされています。
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地上と天(自然と宇宙)に神聖な「美」なるものがあり、その表現エネルギーへ愛と知恵により、いわば、カマキリ先生やさかなクンのように、生来的に求める進化的衝動と魂の世界の純粋な希求があるのです。
それは私たち生命の古代からの激しい欲求と特質でした。
それは必要なものですが、太陽叢からのフォースがハートセンターのエネルギーと正しく邂逅するまで、進化の状態として燃え上がる強い摩擦と苦闘の連続状態にあるとされるものです。
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人間生活に「真」なるものを、善や美と無関係に人は受け容れようとします。何ものかの真理と存在との一体感は、魂がたえず意識する生存の背景の人が生きる動機となっています。それを奪われたりそれにたどり着けないことが、死以上の人の潜在的な摩擦と哀しみとなっているといえます。
リウマチ系の病はそうした真の願望との隔たりから、生まれやすいものといわれます。
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「真・善・美」は未完の内に広がる世界のことであり、自我(各自のパーソナリティー)と強く結びついた外部世界での勝敗や優劣とは別のことです。
目に見えない世界ばかりか、無意識世界はもっともっと広いわけです。
病や戦争やコロナ禍は、(そうした)広い世界と関わることがらと思います。
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意識 つくろう
目先の現象的理解ですが、「痛み」との関連でいえば、もっと端的にわかるのではないかと思います。
著者の世界の理解を進めるという観点から書いているわけですが、(病で)の「痛み」が増すのは、「焦点化」し、肉体的な自然節理より、自分の判断と力、医科学的な現在の成果が万能で上に立つと「錯覚」していることによります。
全体に中心を向ける必要があるわけです。「魂」への接触はそれと流れを一にするもので、患部に「焦点化」はしません。
戦いや抵抗、外部の敵とすること自体に誤りがあるわけです。
「痛み」をとるために必要なことは、自分の未熟さを知ることです。それはプロセス段階に過ぎない宇宙の「真・善・美」へ臨んだ人の心の姿勢と同じです。
「自分が」「おれが」「私は」など、全体宇宙にはまったく必要ありません。「焦点化」というのは、そこでは自我へスポットライトをあてようとする意識と同じです。
「痛み」はむしろ、それらすべてを放り出し、象徴的にいえば、肉体の自然がどうだまいったかと迫りくる姿です。いわば、肉体的な自然節理へ屈服する(抵抗や摩擦を放棄した)姿といえます。
構造と特質、一段と深い意義と本来の姿への「理解」、「一体化」と生成への「信頼」や「愛」と「感謝」がそこでのキーワードになるでしょうか。
いま「心」への痛みがあると思います。
その痛みを、(人類世界は)もっと悪くするつもりでしょうか。
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