『「盛る」ことについて』
不特定の人に、姿を見せずとも、
自己紹介する機会が多くなったというのが、
SNSの普及した現代の特徴かもしれません。
そして、SNS上で好印象を持たれるために、
要となるのは、やはり顔写真となります。
なので、顔で持たれる印象を、
できるだけ良いものにしようと、
顔写真を加工する技術が普及しています。
加工されているとすぐにわかるような、
不自然に肌艶のいい写真を見かけると、
もっとありのままでいいのに、という事を、
私はいつも思います。
人間は何故そんなにも、
自然のままの姿を隠したがるのでしょうか。
傷とかシミとか汚れとか、
そういうものをたくさん持ってこそ、
人間は人間らしいとも言えるはずです。
傷を隠し合う関係よりも、
傷を互いに許し合える関係の方が、
美しいのではないでしょうか。
聖書の中には、歴史上で活躍した人物が、
たくさん登場しますが、
立派な事ばかり書かれているのではなく、
それぞれの失敗や欠点が、
隠される事なく記されています。
何より、最初の人間は、
食べてはならない木の実を食べるという、
大失敗を犯します。
箱舟を作ったノアは、洪水を生き延びた後、
酒に酔って息子たちの前に裸を晒すという、
不名誉なことをしてしまいます。
ダビデという聖書の中の英雄は、
一国の王となった際、
王宮に人妻を連れ込んで関係を持ち、
その夫を間接的に死なせるという、
恐ろしく悪い事をします。
聖書の中の偉人たちは、
傷ひとつなく素晴らしい人物とは描かれず、
良いことも悪いことも、ありのままです。
聖書に書かれていることはとても正直で、
だからこそ信頼に足るのです。
そして、その事実が現わしているのは、
神様は私たちの傷や失敗を理由に、
見放したりはしない、という事です。
神様は私たちの傷や汚れについて、
鼻をつままず、赦してくださる方です。
赦されていることを知っているなら、
誰かの汚れについても、寛容でいられます。
この社会が、汚れを許し合える社会なら、
どんなに素敵な事かと思います。
そうである事を、切に願います。
いつも聞いてくださり、
ありがとうございます。
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