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2022年03月08日16:18

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日本は斉の国か呉の国か

ちなみに今キエフ攻防戦で苦肉の計が実行されているので
古い本をよく読むといいです。
このままいけばウクライナの勝ち。
孫子の冒頭、戦は国家の大事(兵站と地の利、天の利)
実行されています。生きているうちに見れるとは思わなかった。
さて日本も斉の国になりはしないか心配です。
今のところ大丈夫だとは思いますが
原発、原爆、自衛隊の悪口を言いたい人は下の文をよく読みましょう。
軍事装備は即座にはできない、10年、20年の準備が必要
今の日本は米国の50年の軍備を借りているに過ぎない。
それで侵略を受けた場合、自国の技術があまりないので、
太平洋兵站(米国の装備兵糧のリース)だけが頼みの綱となる。


秦の始皇帝が中国を統一した時、最後に残っていたのは遠い斉の国だった
太公望が創始し、孫子を生んだ兵法の国は、あっという間に滅んだ。
六国のはずれにあり、戦争を70年していなかった。
議論に明け暮れ、執権政治(田斉)になり、
だんだんと決められない政治なっていき、
最後は話し合いにこだわって餓死した。
戦国時代の地域紛争は慣れていても
100万の軍勢との組織戦に不慣れだったのもある。



前265年、襄王が死に、子の田建が即位した。母の君王后(中国語版)が輔政した。前249年、君王后がこの世を去り、君王后の族弟の后勝(中国語版)が執政した[1]。后勝は秦から賄賂を受け取り、秦の都合のいいように主張した[1][2]。田建は后勝の主張を聞き入れ五国(韓・趙・魏・燕・楚)の滅亡を傍観し、軍事を強化しなかった[1][2][3]。

やがて、五国が滅亡すると、田建は秦が侵攻することを恐れ、将軍や軍隊を西部の辺境に集結させた。
前221年、秦王政は斉の攻略を王賁に命じた[5]。蒙恬・李信も斉攻略軍に加わった[6]。

秦軍は斉軍の主力が集結した西部を避け、元燕の南部から南下し臨淄へ侵攻した。斉軍は秦軍からの突然の北面からの侵攻に、不意をつかれ瓦解した[4][7]。田建は降伏し、斉は滅亡した[8]。


■ロシアの非友好国指定に抗議=政府
(時事通信社 - 03月08日 12:02)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=6877526
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