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2021年03月30日01:00

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AIESEC

2006年に書いた記事です。

アイエセック物語

1980年7月、私は生まれて初めて飛行機に乗って、ドイツのフランクフルト空港に降り立った。当時は冷戦が続いておりシベリア上空を飛ぶことができなかったので、私の便はシンガポール、ドバイ、ローマなど各地を経由する「各駅停車」。20時間の飛行による疲れと時差ぼけで私はヘトヘトだったが、初めて見る外国に胸は高鳴っていた。

この旅行は単なる観光ではなかった。私は世界最大の学生組織であるAIESEC(アイエセック=経済学、経営学を専攻する学生の国際機関)が主催する経済学と語学の試験を受けて、ドイツ企業で研修生としてアルバイトをするために、この国へやって来たのである。1948年にパリの創設されたこの組織は、経済学か経営学を勉強している学生に、外国企業で数ヶ月ないし1年間にわたり、研修生として働く機会を与え、国際交流を促進することを活動の目的としている。現在でも世界の80カ国に支部を持ち、日本でもいくつかの大学にアイエセックの支部がある。

私は西ドイツのルール工業地帯にある、オーバーハウゼンという町のドイツ銀行の支店で働くことになった。フランクフルトから電車で北へ3時間あまり。ライン川の美しい景色や、ケルンの大聖堂の巨大さに圧倒されている内に、列車はデュイスブルクという町に着く。重いトランクをプラットホームに引きずりおろすと、長髪でひげを生やしたドイツ人の学生が、「君は日本から来たトオルか?」と声をかけてきた。アイエセックの支部の学生が、おんぼろのベンツで迎えに来てくれたのである。ドイツでは学生でもベンツに乗るのだなあと感心した。初めての外国旅行で右も左もわからなかった私が、出迎えの人にぶじ会うことができて、どれだけ安心したかは、とても説明できない。

アイエセックのサービスは至れり尽くせりだった。彼は、私をデュイスブルクの学生寮に連れて行き、休暇のために学生がいない部屋に泊まらせてくれた。学生寮は殺風景だが、機能的で清潔である。バスルームは、2つの部屋の共用で、1人が使っている時には、反対側のドアの錠を中から閉める。台所、食器、冷蔵庫も共同で使う。毎週木曜日の夜には、寮生全員が参加する飲み会がある。

私は学生に感謝の言葉を言うと、泥のように眠りこけた。だがドイツに着いたのは土曜日で、当時すべての商店は、閉店法という法律により、土曜日の正午でしまってしまい、翌日私が空腹を抱えながら起きてみると、パンやバターはおろか水も買えない。ろくな食堂もない。ドイツ最初の外食は、駅の近くのファーストフード店で食べた、ソーセージと油でドロドロになった揚げポテトだった。あまりの脂っこさに気分が悪くなり、「ああ、これがドイツ料理なのか」とため息をついた。

1980年に私が初めての海外研修旅行で働いたルール工業地帯は、鉄鋼など重厚長大産業が多く、大気汚染がひどかった。また戦争中に、連合軍の空襲で多くの建物が破壊されたため、戦後に建てられた、安普請の無味乾燥な建物が多い。またトルコ人など外国人労働者も多く、ドイツ人に最も人気のない地域の一つである。(だからこそ、私のような東洋人に働き口があったのかもしれない)。私は当時そんなことも知らずに、似合わない背広を着込み、毎朝デュイスブルク駅からローカル線に乗って、隣のオーバーハウゼンという、やはり物悲しい町に通う「にわか銀行員」として働き始めた。

配属されたのは、ドイツ銀行オーバーハウゼン支店の国際課。当時外国への商品輸出の代金決済には、テレックスが使われていた。私の仕事は、まず原稿を穿孔(せんこう)テープに打ち、そのテープをテレックスに通して、情報を送信することだった。ドイツ語で仕事をしたことにない私だったが、ヤーコブさんという初老の銀行員が辛抱強く業務の内容を教えてくれた。ドイツ企業の研修では、研修生が積極的に質問をしないと、ただ放っておかれるだけで、何も教えてくれない。私はテレックスの仕事がない時には、銀行業務についての本を読んだり、行員たちに質問したりして、時を過ごした。

研修生の世話役であるアイエセック(経済学・経営学の学生のための国際機関)のドイツ支部の学生たちは大変親切で、毎週末ライン川下りや、ボン近郊のワインの産地への小旅行、郊外での焼肉パーティーなど、外国人研修生が退屈しないように、様々な催し物を企画してくれた。こうした催し物を通じて、私は同じ町で働いていたフィンランド人、英国人、オランダ人の学生と仲良くなり、毎晩のようにビールを飲みに行って、つたないドイツ語で議論をしていた。この時に知り合った友人たちとは、26年経った今でも付き合いがある。多感な時代に独りで外国生活をすることは、極めて貴重な体験であり、渡航を許し、飛行機代を出してくれた私の両親には、深く感謝している。

特に印象に残っているのは、アイエセックがベルリンへの、1週間のバス旅行を企画してくれたことである。当時東西ドイツが分割されていたため、西ベルリンへ行くには、東ドイツを通過しなくてはならなかった。壁で二分されたベルリンでは、国境の検問所「チェックポイント・チャーリー」で、1日ビザの発給を受け、初めて社会主義国に足を踏み入れた。ドイツが米ソ間の冷戦の最前線である厳しい現実を、目の当たりにした。西ベルリンの大学教授たちとの討論会では、ある教授が「私たちは今でも東西ドイツが実現することを望んでいます」と言ったのを覚えている。それから9年後に本当に壁が崩壊するとは夢にも思わなかった。

観光旅行ではなく、企業で研修生として働くことによって、外国を知る機会を経済学・経営学を勉強する若者に与える国際学生機関アイエセックは、グローバル時代に必要な人材を育成するために、重要な組織である。20歳になる前に外国文化に触れ、価値観や哲学が異なる世界に身をおいて、葛藤することは、その人の一生に大きな影響を及ぼすだろう。若い頃に外国で暮らすことは、異文化への寛容さや、異郷での適応能力を高めることにもなる。日本は島国なので、この国に住んでいると、異なる文化に接する機会は少ない。

海の向こう側に、日本の考え方が全く通用しない世界が広がっていることを、学生として頭がやわらかい間に経験することは、国境の意味がどんどん小さくなっている時代には、とても大切である。外国で博物館を見たり、名所旧跡を訪れたりすることも重要だが、それだけでは、日本人以外の人々が何を考えているのかを理解することは、むずかしい。また外国で暮らすと、日本という国を客観的に考えることが可能になるので、自分の国を理解する上でも助けになる。異文化の中に住んでいると、「日本的なるもの」に対する感覚が研ぎ澄まされるからだ。ゲーテが自国の文化を理解するには、外国語を学ぶことが重要だと指摘しているのは、そのためである。

外国企業で働く場合には、その国の言葉を使うことを余儀なくされるので、外国語の能力は否が応でも高まる。外国語習得の近道は、その言葉を使うことを強制されるような状況に自分を追い込むことだ。1980年には、携帯電話がなかっただけではなく、ドイツの公衆電話から日本に電話することはできなかった。このため、私はドイツで働いたり旅行したりしている3ヶ月の間、ひとことも日本語を話さなかった。私のように帰国子女ではない人間は、そうした状況に自分を追い込まないと、言葉の感覚が、自分の血液の中に溶け込んでこないのである。また、アイエセックの研修ではわずかながら給料もくれるので、外国で旅をする時の、旅費のたしにもなる。私もドイツ銀行で働いて受け取った給料で、ドイツからパリ、フィンランドまで列車とフェリーで旅行した。

日本が外国から必死でなにかを学ぼうとしていた1970年代、1980年代に比べると、特に若者の間で、外国に対する関心が低くなっている印象を受ける。もちろん日本の伝統文化を重視することは重要なのだが、世界が広いことを忘れるべきではない。その意味で、経済学や経営学を専攻している学生には、アイエセックを使って世界をどんどん見てきてほしいと切に願っている。




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