mixiユーザー(id:67211516)

2019年12月16日18:13

48 view

聖 雄    乃    木  スタンレイ…8

斯くの如き人
 戦役終了後の乃木大将に就いて、私の語るべきことは少ない。将軍の日本に凱旋して、天皇陛下と、全国民とから、与え得らるる限りの栄誉を与えられたことはいうまでもなく、戦後乃木大将に捧げられた讃辞は、大山総司令官といえども或いは及ばなかった位である。
 天皇の崩御あらせらるるや、乃木大将の哀悼就中著しかった。しかし大葬の諸々の儀式に列して、乃木大将の不動の顔色を視守った人々は数知れないが、如何なる思いが其の仮面の蔭潜んでいるか、如何なる怖るべき覚悟が其の沈静厳粛の裡にかくれているか。それは夢みる人だになかったのだ。先帝の霊轜(れいじ)いよく東京を発して、御陵の地へ向かわんとする時、号砲によって普く其の時刻を報ずることになっていた。将軍は謹んで自邸に退き、第一発の号砲と共に、泰然として割腹した。そして古い武士の家の系図の最後の人となった将軍の霊は、登遐(とうか)し給うた天皇の神霊に随って、永久に現世を去ってしまった。吾人遠く英米に在るものよりみれば、這般(しゃはん)の行為は聞いてだに戦慄すべきことであろう。しかし乃木大将を知って、聊か将軍の理想を解し、先帝の対する崇拝の赤心を解するものよりもれば、何等怪しむべきことに非ず、ほとんど自然の進退とするほかはない。
 二人の令息が南山と旅順に於いて、祖国祭壇の犠牲となった時、将軍の既に現世に望を絶っていたことは疑うベくもない。有らゆる栄誉の雨の如く一身に降りかかる時、苟くもこれを眼中に置いたことは、将軍を知るものの信じ得ないことである。将軍の生涯は、其の理想の据え与うる職務を、純々として体現したものであった。戦時に於いても、将軍は其の本務に対して毫末も逡巡することがなかった。戦後に於いては陸軍と政府とのために、或る重職に就くこととなったが、同じく忠実と忍耐とを以てこれを遂行した。将軍は天皇陛下に赤心を捧げていた。陛下の崩御と共に、最早生き存う責務は終わった。乃ち従容として自殺して逝いたのだ。将軍は、日本古来の理想主義の焔が、西洋文明との接触によって衰え来ったのを、或いはこの殉死によって再び燃え立たしめることも出来ようと、胸中ひそかに思っていたかも知れぬ。兎に角将軍の生涯は、如何なる困難も危険も問うところでない。敢然身を挺して退かない男児の典型として、二つとないものであった。将軍は一切を甘受して何等の不平もない。生を重んずるのは唯だ、忠義と尊敬とを集中する其の対象に奉仕せんがためであった。乃木大将にとっては、天皇は日本帝国の権化であり、最後に生命を天皇に捧げるのは、則ち、日本帝国に捧げることであった。将軍既に自己の事業の終れるのを感じ、疾くにも平安静寂の境にはいるべきであったとして、其の機会を熱望していたのである。
 斯くの如き理想を抱いた斯くの如き人物が、今日のこの時代に現存したことは、吾人西洋の生活に育てられたものの愕かずにはいられないことである。偉大な人傑の生れ出て、位人臣を極めたり、大望を達したりすることはある。しかし其の影には、何処となく自己中心思想の潜在することが多い。偉大なる愛国者の興起することもある。しかし満身唯だ忠誠、個人的存在を没却して、純理想主義に立脚する点に於いて、近世誰あって此の日本の古武士乃木大将に匹儔(ひっちゅう)することが出来よう。古代希臘(ギリシャ)の勃興期に於いては、こうした人傑の輩出したこともある。しかしそれは全く環境を異にした時代の人々であったのだ。
 我が乃木大将は、其の後半生を近代産業国の多忙熱閙(ねつどう)の中に過した。其の間に処して将軍は徹頭徹尾変わることなき、古のスパルタ人であった。文明の進出する最前のものは、採ってこれを用いることが出来た。しかし如何なる国家的栄誉も個人的和t望も、祖先の樹立した古の武士道を服膺(ふくよう)する、其の鉄石の精神を動揺さすことは出来なかった。日本古来の理想主義は、深く将軍の胸底に燃えて、絶えて焔の細ることがなかった。生きては純真忠誠、只管天皇と祖国とに対する責務の一念を貫き、死してもまた純真忠誠「土うすき磽(いし)地に落す」べからざる教訓の種を遺した。吾人西洋に生まれ、齷齪(あくせく)として唯だ財宝と地位と名聞とを追求して止まぬ間にも、暫く退いて、斯くの如き人物によって表現せらるる所以の道えお思うべきである。日本帝国よりすれば、国民的理想の復興であり、諸外国よりすればまた、個人的生活の上衣をかなぐり捨て、全生命を捧げて、世のため国のために奉公の義を全うせんと志し、其の志を達すれば欣然として死に就くことの出来る人物の、現今の世に尚お存在する所以を悟るべき、一大刺戟となるのである。
 スパルタ男子としての乃木大将を想う時、スパルタ夫人としての乃木夫人のあったことを忘れてはならぬ。将軍従容として最後を遂げた時、夫人もまた武士切腹の古式によって、夫君の後を追うた。吾々米国人が、汽船タイタニック号沈没の際、其の夫と死を共にせんことを希ったストラウス夫人を讃嘆するとすれば、此の貞烈な日本婦人に対しても、同じく敬虔の念を以てせねばならぬ。乃木夫人は、其の天質、其の理想、共に夫君将軍に譲るところなかった。此の母あればこそ、両典はあったのだ、父と母と二人の児の、打ち揃って祖先の理想を固守し、其の比を見出すことが出来ない。然も其の最終の一章は一九一二年(明治四十五年)九月、実に東京に於いて成った者である。
 欧米の人々、恐らくは自殺誘発の精神には同情しがたいであろう。しかし此の偉大なる将軍の死を批判せんとせば、我々自らの標準を以てせず、必ず先ず将軍の宗教と、其の祖先の遺風との見地からせねばならぬ。見地斯くの如しとすれば、自ずから将軍の絶対無二の立脚地を認めなければならぬ。そは、旅順口の戦勝者としてに非ず、奉天戦の英雄としてでもない。ただ本務遂行のために生き、過去数百年伝来した理想の実現のために生きた、単なる人としてである。
 乃木大将は斯くの如き人であった。

              辞 世 の 和 歌
うつし世を神さりましし大君の
 みあとしたひて我はゆくなり     臣 希典 上

神あかりあかりましぬる大君の
 みあとはるかにをろかみまつる    臣 希典 上

出ましてかへります日のなしときく
 けふの御幸に逢ふそかなしき     希典妻静子上
     巻 末 語

                     訳者 目 黒 真 澄

 スタンレ・ウオシュヴァン氏の「乃木」という書物を私が初めて手にしたのは、大正十二年二月初、幣原男爵から示された時である。鞣革(なめしがわ)黒表紙に金文字で、上に表題と著者の姓名、下に「幣原男爵」と印したものであった按。男爵は、此の書物を我邦の青年学生が読んでくれたらと思うのだが、一読して考えてみないか、読んでみたらお前は必ず動かされるだろうだろうといわれた。拝借して一読すると果たして感動せずにいられない書物であった。
 「乃木」は一九一三年(大正十三年)二月、ニューヨークに於いて出版されたものである。其の頃幣原男爵は華盛頓(ワシントン)に在勤中であったが、或る日国務省を訪うた時、同省嘱託員ハミルトン・ライトという人から、其の義弟の著である原本の一部を贈られ、「試みに最初の頁を繙けば、感興頻りに湧き来って、遂に巻を掩うこと能わず、一気に全編を耽読し了った」ということである。
 ウォッシュバン氏は前回の世界大戦中倫敦タイムズの軍事特派員として、露軍に従い、其の通信は、報道の機敏と筆力の雄健とに於いて、嶄然(さんぜん)群を抜いていたという。大正九年幣原男爵は駐米大使の任に就いたが、華府会議(ワシントン会議)の開催された時、ウォッシュバン氏が、ルート全権委員秘書に任ぜられたため、男爵は親しく同氏に接触する機会を得て、「同氏の単に文壇の俊材たるに止まらず、理想識見共に凡ならず、其の居常乃木将軍に推服するの偶然でないことを知った」とのことである。
 私に示された「乃木」の原本は、華府会議中原著者から装幀を新たにし、改めて男爵に贈ったものであった。其の後同じ米国版と、倫敦出版と、二種の原本を珍しく市中に発見して入手することが出来た。英国版と米国版と異なるところは、前者が「永遠の力」の章の第一節及び最後の章の乃木夫人に関する一節を欠き、其の他若干の語句の異なったところもある。米国版挿入の写真は、悉く原著者自ら戦地に於いて撮影したものらしいが、英国版には巻頭の将軍肖像を異にするのみならず、他の写真は一枚も挿んでいない。
 大正十二年九月大震災の直後、思うところがあって、かねての幣原男爵からの言葉にも報いてみようと決心し、此の詞藻宏麗に、筆力緊張して、熱血溢るるばかりの原本米国版を取って、いよく未熟の翻訳を試みることとした。翻訳の終了する頃、友人が某が頻りに其の出版を希望するので、米国の原著者へ承諾を求めてやったところ、喜んでこれに応じてくれた。いよく出版となると翻訳進行中屡々訪問して教えを請うた一戸少将からは、乃木将軍の爾霊山七絶中の四字「万人斉仰」を題辞として贈られる。幣原男爵は序文を以て原著者を紹介される。徳富蘇峰先生からは訳書推薦の序文をも寄せられた。
 各章の題目は原本には附いていない。読後の印象によって、訳した後一々私がつけてみたのである。唯だ訳書の表題を、単なる「乃木」とすることを如何かと考えたが、もとく司令官としての、また将軍としての乃木大将を描くのでなく、故対象の人格の核心を掴んで、赤裸々にこれを伝えようとするのが、原著者の目的であったのだから、其の主旨を尊重する意味で、表題に変更を加えない方がよいではないかと思い、一応一戸大将にも諮(はか)ってみたところ、全然私に同意であったので、表題は原本のままとすることにした。
 幾許もなく私は任所東京高等商船学校練習船大成丸の学科を担当することとなり、続いて遠洋航海にも参加して、ほとんど拙訳修正のいとまがなかったが、十三年三月末一旦航海から帰って来ると、各方面から拙訳の注目されていることがわかった。就注阪谷男爵は、当時侍従武官長奈良大将よりの勧告として、是非、天覧、台覧に供し奉るようにと申越される。一戸大将からは、至急各宮殿下へ献上せよと勧められる。其の他各方面の有力者から賞賛推薦に預かったりして、深く感謝しまた恐縮したりしたのであるが、震災直後多忙の間に執筆したためか、翻訳に幾多の誤謬脱落等も発見し、更に恐懼して措くところを知らなかった。しかし間もなく再び長途の航海に出発することになったため、訳者としての責任を果たし、罪を江湖に謝することも、不本意ながら其の時を得ないでしまった。
 原著者へは、旧版出版と同時に一切の事情を書き送り、一戸大将題辞の説明と、幣原男爵、蘇峰先生の序文英訳とを添えて一本を寄贈して置いたところ、ウォッシュバン氏からも直ちに一書を寄せて来た。その書翰は今も手許に保存してあって、原本の成った当時の事情を一層明らかにし、故将軍と我国民とに対して抱いている、其の不変の心事を伝える好個の消息とみられるので、左に其の全文を訳して置く。

拝啓「乃木」上梓に関する御書面、並びに御同封の文書、両三日前に拝受仕り候。殊に二通の序文多大の興味を以て拝見致し居候処、右書籍亦今日到着いたし候。御計画に現れたる忍耐と熱心、御出版に表典雅な趣味、共に満足の至りに存入申候。
拙著の日本語訳出版の挙は、小生にとりては近来の快挙、実に之に優るべきもの無御座候。小生若年にして故乃木将軍の知を辱うし、而も初めて奉仕の真意義を理解するに到り候は、実に将軍の賜物に御座候。将軍の如き真正の理想主義者は今日まで曽つて其例を見不申、将軍の生活は犠牲献身の精神を其の儘移して、以て人の特性となしたるものと存申候。小生将軍に御別れ申上候てより以来、文明的偉人に一人として其の性格の今尚お胸中に鮮やかなるもの有之候は、日本帝国の、今日の世界的地位に達し候理想をば、将軍自ら意識せずして体現し居られ候故と存じ申候
一九一二年九月将軍逝去の当時、小生敵々総選挙のことに鞅掌(おうしょう)いたし居り、帰宅多々該小冊子に着手仕り候。一つは米国の為に故将軍の人格を闡明(せんめい)し、一つは故将軍の知遇により、小生の生活と性格との上に受け取り候恩義に対し、聊か御報い申し度しと存じ一頁として此の微意を以て執筆致さざりし所無之次第に御座候。
旅順口従軍中とても、将軍の偉大なるは独り其の軍事的手腕のみに止まらず、其の剛毅と質実と誠忠とにあるものと存じ居り候。実は拙著米国に於いて世の注目を惹くところ少なく、英国に於いても多大の注目を引きたるには無之候処、今日日米両国の、其関係恒久不変の友情を基礎とすべきに拘わらず、不幸にして緊張を見候時に際し、拙著の日本に於いて出版せらるるに到り候は、更に満足を加うる所以に御座候。日本読書界に於いて貴訳十分の普及を見、第一に日本帝国の実力が主として乃木将軍の体現せられたる理想主義に在って存すること、第二には満州出征当時の日本軍実力の源泉は、日本の指導者たる人々の徳性に外ならず、これ則ち全軍の士気と規律とを形成したる所以なるを理解いたし候者、米国人中にも少なからずこと、幸いに貴国一般読者の了知する所と相成り候様、切に祈上申候。貴君此度無私の態度を以て、小生二十年前の所懐を貴国国民の前に御披瀝下候は、深く感謝に堪えざるところ。若し尚お貴訳普及の経過、及び之に対する江湖の批評等、御報知被下候はば、幸甚の到りに奉存候。
故将軍肖像は、小生フィルム写真等取調べ候へ共御使用のもの以外に乍遺憾見当り不申候。
     一九二四年六月四日
               ニュージャーシー州レーク・ウッド
                   スタンレイ・ウォッシュバン
目 黒 真 澄 殿












 本書が、さきに畏くも、天覧、台覧の栄誉を賜るに至ったこと、各方面から推薦に預ったことは悉く記して、折返し原著者へ報告した。其の後、身辺の紛雑にかまけ、荏苒徒(じんぜんいたずら)に過ぎて最近に及んだが、支那事変勃発後、またく原著者から書面が来て、「現下の世界情勢に於いて、貴国のためにいうべきこと書くべきこと頗る多いのだが、お前は一体どうして居るのか」という意味の申越あったのに刺戟され、旧本を筐底から取り出して、出来る限りの補正を加えて置いたのが、今回創元社の手によって、改めて世に出ることとなった。訳者としての欣快は申すまでもなく、原著者の喜びも想像するにあまりあると信ずる。
 翻訳に初めて着手した後、一戸大将の門を叩いて、原著者のことを尋ね、本書の内容を大体述べてみたところ、大将の喜びは一と通りでなかった。
「ウォッシュバンという男は、当時二十七八歳の愉快な青年であった。非常に乃木さんを崇拝したばかりでない、Father Nogi と呼んで、父の如くに思っていたようだが、果たしてこうしたものを書いてくれたか」
といって、涙を流さんばかりに懐かしがるのであった。法庫門時代に、原著者が将軍を訪問してみると、靴を脱いで椅子の上に坐って居られたことが、一二度本文中に出て来る。それが不思議に思われたので、一戸大将に尋ねてみたところ、そうしたことまで書いてあるのかと言
って、左の如き物語をして聞かされた。
「明治天皇は出征軍人の労苦を思し召され、恐多くも宮中御座所の火鉢を廃せしめ給うたとのことである。そのことを法庫門陣中で漏れ承ったのであるが、乃木大将は陛下の此の思召を恐懼せられ、自分もまた司令部公室私室の火鉢を撤去させられた。ところが法庫門はなかく冷えるところなので、閑談の時など、平足を冷やさぬよう、靴を脱いで椅子に端座して、読書に耽られることがあった。そうした折りにウォッシュバン君が入って行って、その姿をみたのであろう。」
 一戸大将は身振り手真似を交えての話であった。私はそれを承って感激を新たにしつつ、思わず襟を正しうした。
 も一つ、一戸大将の話に下のようなことがあった。
「其の頃、私は参謀長で、司令官室の隣に私の室があった。毎日面会人が来る。夕刻になっても客が帰らなければ風呂に入れないので、よく乃木大将から風呂に入れと督促されたことがある。或る日の如き、二度も門の戸を開けて『参謀長風呂に入れ』といわれた。そこへまた面会人が入って来て風呂に入れないでいると、暫くしてまた戸が開いて、『参謀長、何故風呂に入らぬか』といわれた。『恐れ入ります、何分次から次と用事が出来ますので、つい後れました』というと、乃木大将は『そうであろう、しかし従卒が可愛そうぢゃないか。自分が入浴したあと、参謀長が入らないうちは、いつまでも風呂を焚きつづけていなくてはならぬ。可愛そうだから速く入ってくれ』といわれた。乃木さんはそうしたことにまで気を附けられる。それも非常に兵隊を可愛がられるからであった。」
「乃木大将は何事にかけても、決して粗枝大葉の人でなかった」、「大将の金言熟慮断行の如き其の熟慮の二字が最も意義あるものと信ぜらるる」とは、蘇峰先生から本書旧版のため贈られた序文中の言葉である。この一戸大将の語られたことも、如何に乃木大将の細かいところまで思いらちを用いられたかを示すもの、後昆に伝うべき美談の一つであろうと思う。
 尚お本文「暁天の星」の章末に、日露の平和克復して、原著者が第三軍に別れを告げて東京へ帰る時、一戸参謀長の途中まで見送って、手巾を打ち振っているのを認め、涙ながらに間道へ入って行く記事がある。一戸大将の前で私が此の一節の訳文を読んだ時、
「それは張喬の、故人に寄せた詩に『離別河辺綰柳条(りべつかへんわんりゅうじょう)。千人万水玉人遙(せんにんまんすいぎょくじんよう)』という句があるのを思い出したが、折あしくあたりに柳もなく、枝を折って輪にしてやることも出来なかったので、手巾を振っていたのだが、よく覚えていて書いてくれたものだ」
と言って、どかと椅子に倚(よ)って暫く眼を閉じていた。
 一戸大将も、今は亡き人の数に入っている。今まで大将の形見として忘れないでいた物語でもあり、茲にこれらのことを書き添えて置くこととする。
















     読 後 感 あ り
(二○三高地の殊勲・嗚呼・小野市松工兵伍長)
 後世の為に敢えて一筆しるす。
 左記写真は世界の奇蹟として列強諸国を驚倒せしめた日露戦争の大勝、旅順開城を決定的たらしめた爾霊山(にれいざん)堡塁正面を爆破した軍神小野市松工兵伍長以下七人の勇士の戦跡記念碑である。(爾霊山とは二○三高地のこと)
 小野市松氏は満面エビス顔のごきげんで当時を語る。「爆破第一回の成功は小穴ではあったが眼いち下に旅順港内のロシヤ軍艦の動静が手に取るように、わかるではないか。もとより生還の例(ためし)がない、万死を覚悟した勇士達は抱きあって声をかぎりに天皇陛下万歳と歓喜慟哭した。飛行機のない時代、爾霊山から機関銃の掃射の下(もと)肉弾また肉弾の総攻撃の連続、全滅また全滅・壮絶、血河屍山、以て、尚、難攻不落の爾霊山要塞も、正面の堅固を爆破され、まもなく、遂に、開城に至る」
 私は、今、スタンレイ・ウォッシュバーン氏の「のぎ」を拝読し、将軍の霊火に触れ、洗心、身きよまり読後の瞬間、われ、乃木大将の再臨かと錯覚する。威徳か感化か霊化か、気風に化する如く、この将軍にしてこの兵卒あり。私心なく、情義友情に厚く、正義美談にホロホロと幼児のように涙もろかりし、忠勇無双の権化は鬼神の如く、誠心(まごころ)一徹の剛毅は岩をも貫かざれば止まずの軍神、小野市松工兵伍長の御人柄を偲びて、こみあげる涙がとどめなくかく書きつつペンを休ませた。
 小野市松氏は永年、王子製紙株式会社朝鮮新義州工場の要職に勤務された私(新村晃彬)の心の友で恩人であった。天下泰平の驕り・世相・人心は神を失い軽佻浮薄の徒は国を埋めて、利欲に狂走し物心の中道を去って堕落す。誠神体当たりして大宇宙を三寸の胸中に呑む古代日本神道の創元(そうげん、はじめ)民族精神の気魄、道義国家の誇り、日本精神の伝統いずこにありや。不潔不浄にして徳義・道徳の不在なところは確かに迷土である。天の御中主の神ほど遠く、明らかに、天照大神、釈迦、イエスキリストも不在である。感謝なく驕慢なるが故に天佑神助なし。この祖国を憂慮し仰天切歯扼腕(せっしやくわん)(いかり・くやしがる)す。この人にしてさもあらん、大東亜戦争の末期、百年の遺恨(いこん、うらみ)を胸に秘め、悲憤慷慨(ひふんこうがい、かなしみ・いきどおる)しつつ憤死す。知るべし、永遠不滅の魂魄は怨霊となって天地をかけめぐる。
 ああ、勇士の霊よ、今は赤化し、激励、転倒、流転しつつ歴史は遠く人また歴史を忘れ去る。功績を飾る一片の記念碑も爾霊山上になかるべし。されど、聖雄乃木将軍の麾下(きか、指揮下)旅順開城の道を開きし小野市松工兵伍長の功績と赤誠なる心的全人の光は日本精神の粋にして子々孫々悠久敬仰の的に後世の心ある青年子女の胸の中に閃(ひらめ)かん。希くば、必ず、七生報告の生霊と化し祖国の危急を救い、皇国の光栄を長久ならしめ給え。恭敬恭敬、謹みて、この一書を小野市松紘平伍長の霊に捧げ後世を祈る。
合 掌
晴晃園精神文化研究所
乃木神社洗心会 会員    新 村 晃 彬

乃木将軍の徳風は一兵卒を神化す。
小野市松工兵伍長はこんな人柄であった(現存する友人はよく知る)
一、質実剛健にして、華美、ハッタリ、ホラふかず。

一、ウソツキを妄言せず。

一、恩を忘れぬ人。

一、至誠一貫。陰日向なくよく、働く人。

一、善行美談に感激し、すぐ、ハラハラと涙する人。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する