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2019年07月06日07:03

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国際連盟総会への出席

関東軍参謀を離任した石原莞爾は帰国して、1932年(昭和7年)8月、陸軍兵器本部付となりました。同年9月、外務省事務嘱託に出向を命じられます。これは10月付で、ジュネ―ブで開かれる国際連盟総会の「帝国代表」随員となるための措置でした。代表(首席全権)には、元満鉄副社長で衆議院議員(政友会)の松岡洋右が任命されました。

シベリア経由でジュネーブに向かう途中、石原莞爾は、モスクワで赤軍トップのエゴロフ参謀総長と会見して、ポーランドでは中堅将校らに講演。ベルリンでも講演。ロンドンでは、イギリス陸軍関係者や各国駐在武官が多数出席し、満洲問題について、石原莞爾と質疑応答をおこなう会が開かれています。

この頃、石原莞爾の名は、軍関係者の間では世界的に知られていたのです。石原莞爾は欧州各地で歓迎を受け、講演会なども盛会で、本人も意気軒高たるものがありました。このジュネーブに向かう旅が、石原莞爾にとって生涯でもっとも華やかな時期だったでしょう。

周知のように、この時の連盟総会は1933年2月で、満洲での日本の行動を非難する決議が採択され、松岡ら日本代表団は即座に退場します。これを契機に、日本は国際連盟から脱退するのです。連盟脱退について、石原莞爾の発言は特に残されていません。

ただ、2月24日付の妻への葉書(総会決議採択当日)では、「総会も予想の経過をとりています。本日結末と相成り候」とあります。石原莞爾にとって、連盟との決裂は予想の経緯だったようです。なお、近年、連盟脱退について、陸軍中央は脱退に一貫にして反対だったとの見方があります。

確かに、1月31日付の「東京朝日新聞」紙上で、荒木貞夫陸相が「今すぐ脱退の要なし」との発言をしているのですが、2月22日には、「連盟の脱退もとより毫も恐るるに足りない。またあえてこれを躊躇するを要しない」とする「陸軍当局談」が発表されています。

また荒木陸相も、2月はじめ頃には、「連盟に入っていればこそ、すべての点で拘束されて自由がきかない。……連盟さえ出れば、どんなことでも思いのままやっていい。……この際思いきって連盟を出てこそ、むしろ自由な立場になって自由の天地を開拓できるのだ」と発言しています(原田熊雄述『西園寺公と政局』)。

荒木は、2月15日の閣議でも、「即刻脱退も決意」をうながしました。これからみて、松岡らが連盟総会に派遣された当初は、陸軍も必ずしも連盟脱退を考えていなかったが、2月に入る頃には脱退論となったものと思われるのです。
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