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2019年06月14日23:12

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本めも(粘土に書かれた歴史 6-10)

前記事。 1−5章分
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1971895016&owner_id=3960876
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●6:商業生活(63頁〜)

筆記技能を持つ書記は重宝され秘書的な私人書記が商売でも活躍して
いたそうであるが、限られたものが読み書きをしていたにも関わらず、
どんな小さなものでも商取引の契約書や契約者同士に加え証人の署名
の必須が定められており、ここで署名の代わりに円筒印章が使われた。

「シュメル」でも紹介されていたがバリバリのハンコ文化なのである。
円筒型なので転がして使う。
(宗教系か風景系が多かったらしい)
それ以外に現代の日本の個人名印と違う点は、区別が出来ればいいの
で、人によっては気に入った古い印章を使うなど。
各人が押したら、文字が十分に書ける書記が代わりにそれぞれの名前
を書き込んだ。
(別の章に書いてあったが、重要度の高い人物が最後に捺印したので
幅が足りないと柄が半端になってることとか結構あるらしいが(研究
者は見たいものがそうなってると「ぁああー・・」てなる)、証書的
には問題無かったらしい)
護符を兼ねていることもあり、基本的に首飾りなど身に着けて持ち歩
くものだったようだ。
私設秘書を雇うような立場でなくとも人の集まる場所には代書屋がい
て、契約成立すると書類作成を頼み同様に書いてもらえたようだ。


65頁に片手で持てる程度で模造してみた粘土板の写真。
この見本にも印章が押されているんだけど、
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1971315736&owner_id=3960876
この↑図鑑の写真の粘土板の絵も円筒柄なのかな。


「シュメル」では学校で学ぶ書記はエリートであり習得しなければな
らない技能と知識が非常に多いというあたりが書かれていたと思うん
だけど。
書記と言っても幅が広く、求められる技能の幅が違うんじゃないだろ
かと思った。
13章で読み書き関係について言及してます。


66-68頁。
勝手な書き替えを防いだり、証明のための封筒。
ここで説明されているのは封筒と中身が同文の例。
(「シュメル」だとラベル書き的なものもあったが、あれは契約書以外
や保存管理用向けなのかなー)
同文の場合は、封筒上にも契約書と同じ文面、印章、名前書き・・を
行う。直ぐ目にするものがオモテなのでむしろオモテの印章のが重要
だったみたい(何か起こらないと封筒は壊さないしな)。

で、学者はずっと、そのまま包んだら粘土板と封筒くっついちゃうの
では??と思って考えてたみたいなんだけど、実際にはそのままで大
丈夫らしいです。
粘土の塊を二つに分けてまず契約書を作り、残りの半分を薄く伸ばし
て包んでから再び契約文をそこに書く(書いてから包む、ではない)。
それで時間が経つと粘土板と封筒が同時に乾いて縮んでいくんだけど
(5分の1くらいまでになるそう)、同じ時に合わせて包まれたものは
丁度良くいくそうで。

68頁でキエラ氏が乾いたものに封筒を掛け直そうとして試したのが書
いてあるけど、小さくて硬い欠片に厚い封筒を掛けようとしてみても
封筒のほうが壊れたんだと。
(※中身が固いと外側が縮めない→包み破損。
仮に5分の1を見当付けて緩い封筒を造ってもそう上手く縮まないとか
歪んだり、余裕が出来たら中身動いちゃうしな。)

というわけで、契約書を造るには契約者と証人が必要であり、きちん
と造られた書類の偽造は困難(同じ三人を集めないと印章が)だし、
仮にオモテだけ乾く前に一部書き換えてあっても何かあって封筒壊し
て確認すればバレるし、包み直すことも出来ないっていう。

 ねんどしょるいつよい。

封蝋はやろうと思えば普通に開けちゃえるようです。
(知識と器用さは必要だと思われますが)


69頁。
情報の内容と価値の話。
シュメルの服装については余り情報が無いらしい。
当時もお金持ちの御婦人の衣装代は高価だったらしい、とか。
それだけだと誰々に渡したというパンの支払い書でも、複数の宛先のも
のが沢山纏まれば差出人についての情報となるとか。

72-73頁。
ハンムラビ法典の成立状況とか。
(一見矛盾しているように見える部分や、厳しすぎるようにみえる刑罰
などの理由)



●7:宗教生活(76頁〜)

古代メソポタミアの大神殿は、宗教(信仰)だけではなく、共同体の中心
であり、神殿付きの書記学校があり、工業分野を取り扱い紡績を大規模
に行い織子(女性)を雇って日当を払っていたそう。
女性書記もいた。


80-81頁。
粘土の性質上、書き物は一気に書き上げる必要があり大変だったが、
元帳的なものは都度メモを作って籠に入れておき、週の終わりに整理し
纏めて記載する→月末に週の元帳を纏めて月のを作り、年末には大きな
粘土板に月記を纏めて分野ごとに分類表記されている年記を作る。
物々交換・供物(神殿)なのですごく複雑。

↑のようなものは当然非常に沢山あるので、市場価値や学術価値は既に
知られている程度のものには無いのだが、古いものですよーとか見た目
がよい状態ですよー、という売り文句で無駄買いをしないように、とか
いうことを書いてある。
(趣味としてなら見た目やら気に入ったとかの理由で買ってもいいだろ
うけど、お値段が見合うかどうかはよく考えろてことですね)



●8:国王の物語(83頁〜)

冒頭83頁。
「数年前までならわれわれは古代史については何でも知っていた。
というのは古代についてはなんでも旧約聖書で」
から84頁、
「われわれは今や古代史の多くの部分が書き直されねばならないのみ
ならず、また完全に説明しなおされねばならぬことを知っている。」
までのくだり。

これが、序文のとこにメモっといた(西欧的な)“従来の(固定的な)認識
を覆す”あたり。認識順的に、エジプト→バビロニア→周辺イモヅル、
みたいな感じのようです。

85頁。
刻印の入った大きな煉瓦の上の犬足スタンプの写真w
コレ、そのまま配置されてたのか?w


現在の政治家や政党の誇大広告に同じく、古代の王たちも自身の功業
を出来る限り後世にも拡大して知られるようにしたがったそうで。

神殿の建築や修復時に粘土(でないこともある)樽に記して礎石に埋め
たり、スタンプ的に刻印を入れた煉瓦を量産して道や側溝の蓋に敷い
たり、粘土釘に記して焼いて壁に1m間隔で打ち込んだりした(修理や
取り壊し時に発見して、見た者が誰が建てたものかわかるように。
で、後の王が自分のやった追加や補修部分に同様に・・とか)。

↑特にこの道路用煉瓦は当然量産品なので。
文字確認中の発掘主が見掛けてない記載のあるものだとチップが貰え
た発掘現場で、現地の人夫たちが、見分け付けずに度々拾ってきては
「×」とされて、王に向けて罵倒していたようである(笑)

まぁ単体での価値はさておき、前に出てたように刻印煉瓦やこれらの
表示物は、設置された場所に在ることで学者の識別自体には非常に助
かるもので、時には様々な推移を見て取ることも出来る。

91頁。
周囲から常に狙われていたアッシリアは、順調に発展したと思わせた
くて碑文の類では戦争記載がデフォ。“強い”と思わせたかったので
(威嚇?)実際には戦士ではない王や臆病であった王もいたらしい。
(不向きでも王にはなれちゃうのですね)

92頁。
で、↑と逆に、彼らが外に喧伝したいと考えていなかった情報の記録
は稀で、文治方面などは書かれていない。

逆に、安定した場所では軍事才能は喧伝されず記載される内容の方向は
逆転していたようである。
(ネブカドネザルは名のある王で征服者だったが、神殿建立や供物など
敬虔な信仰者だという面を遺そうとしたそうで。)

92頁〜。
人物的にも色々嘘ぶっこいたり偏ったりしてるが、書いてある分にも、
敗戦は書きたがらないので、勝ったことだけについて書いたり、勝った
こととして書いたりするし、連勝しているのに戦い続けなければいけな
いのは・・とか記載を合わせて照合するとバレるらしい。

94-97頁。
当時の年号的表記とか王の治世表記の話。
初期の伝説的王がふっとんだ時間延ばしになるのって年表的編成しようと
する場合のテンプレなんだな。
7万二千年。



●9:祭司の物語(98頁〜)

「シュメル」だと“個人神”と書かれていて個人ごとみたいな感じだった
のがあったが、ここでは“家族神”。
古代には類似の信仰がよくあったものらしい。

ここでは、大神たちに直接人々に目を配るには大きな物事のことで忙し
いので、詣でて崇めるのは当たり前のことだけど、日常のことは家神様
にお願いする・・みたいな感じなんかな。
当たり前のように沢山あったため、余り書いた情報は残っていないらし
い。(皆知っていることはそうそう書かれない)
通常、家主である父親が祭司となっていたようだ。
残っている契約書などからわかることは、母親が子供たちに分霊?的に
小さな神殿を分けたり、父親が自分が亡くなったら長男に祭司を譲るが、
家を出た他のきょうだいたちが変わらず供物を捧げに訪ねるのを許すよ
うに、のような但し書きとかあるそう。

99-100頁。
↑の家族神は「テラピム」と呼ばれるらしいのだが、聖書においてこれ
を盗み出して隠しおおせたラケルという人物のエピソードがあるらしい
んだが、これがなんのためにかというと、
「もし義子が義父の家族神像を持っていれば、真の息子と認められた証
拠であって遺産相続にあずかれるのである。神像を盗むことによってラ
ケルはその夫を父の家族の一員となし、こうして父の遺産分配にあずか
らせようとしたのであった。」(100頁)

えーとラケル検索しても婚姻と子供の問題しか書いてないしヤコブも
似たようなもん・・でラバン(父)のほうみてみると、一家逃亡がどうの
が「創世記31章44節」とあるので検索・・・あーあった。
ええと、ラバンの甥のヤコブがトラブルから逃れて叔父の家に来たんだ
けど、従姉妹の姉妹のうちの妹のラケルと結婚したいと思っているのを
利用して色々約束を違えて搾取し続け、とうとう一家で逃げ出した際に
ラケルが(要するにこれまでヤコブが叔父の為に長らく苦心して働いた分
やらの正当な権利を夫に与えようとして)テラピム(別表記あり)を盗み出
して持って行ったらしい。


100-104頁。
によると、シュメルがアモライト人に征服された際、その王ハンムラビが
法律を纏めて整え自国語のセム語を共通語にしようとした。
その際に、それまではまだ楽人達の口承だった賛歌や古詩(サガ)を記録
しようとし、この際に様々なものが記され遺されたらしい。
歌い手から記録されたものは、最後に「誰某の歌うところによって」と
書かれていて、吟遊詩人や楽人たちそれぞれ、伝えたりそれぞれに歌った
りのバリエーションがあたりまえだったのをそのまま保存したようです。

その知識が生きていた時代にとってはそれらは豊富なバリエーションと
いうものだったが、後世の学者にとっては、ぱっと見ただけではわから
ないほど様々な語り方による“同じモチーフ”の差異同素を区別するの
にも、ひっくり返って粉々になった書庫の粘土板を繋ぎ合わせるのに悩
み続けたりする難題となっている。

ただ、価値を認められていたものには多くの写しが作られていること
がよくあり、繋ぎ合わせて再構築が可能になったりもする。
キエラ氏の例は医学テキストだったが、ペンシルバニア大学で研究した
部分に欠けがあったが、後にコンスタンチノープル博物館で同書の同じ
部分の欠けだった部分が読めるものを見付けたそうだ(109頁)。


えーと。
あと、長いものを分断して続ける場合、
『粘土板の終わりに「某々シリーズの第×粘土板」と誌し、その後に
つぎにつづく粘土板の最初の行を書き込む。』(106頁)
そうである。ほー。見出しというか次頁予告というか。
これが残っていると学者は順番がわかるので助かるそう。
まぁ当時の人も内容知らなきゃわかんなくなるだろしな。



●10:バベルとバイブル(110頁〜)

聖書に書かれていることと、粘土板などの古文書に残されている記録
は証明か反証か?というようなところ。

このへん↑のくだりは纏めづらいので置いといて。


114頁。
「ヘブライの神学者はバビロニア型の物語を彼らの神の観念より遥かに
低いものとしてしりぞけたが、一般民衆はそうは思わなかったらしい。
創世記第一章の物語はいまでもその高い観念で孤立した地位を保ってい
るが、聖書の他の諸書はいたるところで、エホバが怪物レヴィアサン
(巨大な海の怪獣。時に竜、時に鰐魚。ヨブ記四十一章、イザヤ書二十七
章、詩編百四等)と戦った有名な物語をこだまさせているのである。
神学者がしりぞけようとしりぞけまいと、これは確かに民衆の好んだ創造
物語だったのである。」

このあと神話のエピソードを紹介してるんだけど。

117頁。
えーと。ここでは混沌の具象化であるティアマトを倒した最後の神は誰だ
かわからない(エンリルかニヌルタあたりかと推定している)と書いている
のだが、この物語がシュメルからバビロニアに伝わると、新しい都市神
マルドゥクに権威を与えようと、物語を書き変え、竜殺しの任をマルドゥ
クにかけて彼を英雄としようとした。

↓一寸ここの部分纏めて読まないとわからんのでちょい長いが写します。

「怪物ティアマットがやってきたとき、神々は恐れたと古い物語はかたっ
ている。パンテオンを守るべき義務を持った古い神々のどの一人も、敵に
立ちむかう勇気をふるいおこせる者はいなかった。最後にすべての神々が
失敗したのち、バビロンの神、若いマルドゥクが姿をあらわした。もちろ
ん彼はこの戦の適任者ではなかった。しかし事は急を要したし、神々の運
命は危機に瀕していたので、古い神々は喜んでマルドゥクを救い主として
受け入れた。こうして彼は古い年とった神々の知恵、力およびその他の能
力全部を自分のものとして戦いに出かけ、そして勝った。勝利によって
また彼が獲得した特別な力によって、彼は当然パンテオンの首座にすわる
にふさわしかった。かくて古い神々の統率者は退けられ、マルドゥクが
そのあとをおそった。
 何世紀かたってバビロンの権力は衰えた。さらに北方で強力なアッシリ
ア帝国が発言権を主張した。アッシュールの軍隊は勝利に勝利を重ねて
進軍した。今や古いティアマット殺しの問題が再燃した。アッシリア人
たちは、あの恐ろしい戦を戦った神が、なぜ彼らの神アッシュールであっ
てはならないのかと問うた。」(117-118頁)

このくだりまだまだ続くんですが、広範にこのモチーフ人気なんですねw

しかし、きちんと設定を考えて調整したマルドゥクの例と違って、アッシ
リアは超テヌキ!で、マルドゥクの粘土板を複写して彼の名前だけ書き換
えて気が済んだらしいのですが、やっつけ仕事すぎてところどころ書き換
え忘れた部分があるそうです。

で。
更にヘブライ人のところまで伝わったんだけど、先に書いてあったように、
祭司たちはそれがエホバにはふさわしくないとお好みではなかった。
でも民衆にはとても人気・・・。
で、引き摺っていった結果、後に竜殺しとして「セント・ジョージ」が
あてられた。とキエラ氏は書いています。

戦う神の力を示すには強大な存在が不可欠でしたが、あくまで人間が立
ち向かうものとしては原初の混沌の竜はあまりにも巨大な存在だとリア
リティが無いとなって、次第にそれらでイメージされる竜は小さく、海
も関係無くなってったんだろうか・・。


更に、現代にもあるものとして、科学者の像の実例を挙げてるんだけど。

「立像が除幕されるとそこには科学者の左の足の下に十分成長したトカゲ
がふみつぶされているところが彫られていた。私はその優れた科学者が
これはいったい何を意味すると思っているのだろうと考えた。もちろんそ
れは科学が無智の悪影響を打殺しているところをあらわしていた。しかし
その科学者が、ここで自分がエンリル、マルドゥク、アッシュール、エホ
バの直接の後継者であることが分かっただろうか? こうして立像の前で
感慨に耽っていたときつぎのような考えが頭をかすめた−−今度竜と戦う
のは誰だろうか?」(120頁)

これも、識別できる目を持っていると気付くもの、ですかね。



ところで。
マルドゥクの場合は最後の希望的な存在であり周囲が望みと共に力を託す
という状況ですが・・。
これ、状況変えるとまんまウガリトのバアル(ハダド)ですよね。
ウガリトはマルドゥク版のこのエピソードを引き継いでウガリト仕様に
書き換えたのかなぁ。
(マルドゥクも、あるじ、主神の意味でバールと呼ばれた)
周囲が味方してくれない代わりに、限られた強力な味方がいるというのも
また別の王道のヒロイックである。
このエピソードの影響力的に、非常に重要になるこの場面のパートナーに
コシャル・ハシスを据えたのも面白いですし。
交易都市国家ならではのヒーローなのかもしれんなウガリトのバアルは。

(元版のマルドゥクが“新しい神”であることも関係してるのかもだが。
外の力との同盟力(当時の言い方でいうと同盟相手は兄弟姉妹だそうなの
で義兄弟かな)を重視していたという象徴表現なのかもしれない。
理想を表しているのでコシャル・ハシスはスゴいしバアルを熱心に助けて
くれる。でもベッタリではない。みたいな。
あーやっぱ神でも異国人の幼少時ウガリト滞在の幼馴染設定ありかもしれ
ん。同盟比喩の場合、コシャルさんが異国人(神)のほうがより強調される
気がする)

しかしこうなってくると矢張り、イルウとヤムに関わる状況説明が書かれ
ていたのだろうバアル三連冒頭が欠けまくっているのが大変惜しい!
どこかに写しがないものか・・。外部でもいいが。



で、更にこの後ノアの話になるんだけど。
洪水の際のエピソード紹介してて、

『愛の女神イシュタルは、この洪水の主たる責任者である大神の前に立ち
はだかって猛烈にその罪を批難する。神は、と彼女は宣言する。全人類を
滅ぼす権利を持たない。人間のうちある連中は悪い奴かもしれないが中に
は善い人たちもいる。もし人間が罪を犯したなら、飢饉を送ってこれを罰
するのもよかろうし、ライオンを送って人間の数を減らすのもよかろう。
しかし全人類を破滅させるような大洪水などを送ってはならない。そして
この激しい批難の言葉は、聖書では決して達せられたことのない高い言葉
で終る。「罪は罪人の上に!」
これは各人は正に彼自身の行動にのみ責任を持つべきであるということを
いっているわけであるが、ヘブライ人は決してこの真理を理解しなかった
であろう。』(122頁)

ものすごく見覚え感あるものが。
これがヤム討伐後のアシュタルトの台詞の元か?
とすると、「ヤムは我々(神々)を殺しはしていないのだから、命を奪うの
は正しくない!」とバアルを批難していたと考えれば状況にも合います。
そーすっと他に何か理由がない限りは、非難.verが正当っぽくなるな。

あの場面は、荒ぶるヤムを津波とか洪水でイメージして、それが引いた後
みたいなイメージなのかな。
元版では洪水を起こしているのが大神ですが、主神とスライドして。
主神候補だったバアルがヤム(海・混沌の竜でもある)を退けて実質主神
の条件をクリアしたということで、主神として扱い、それにふさわしい
行動をせよと叱責している感じ・・・かなぁ。

お目付け役?いやここでは見届け役みたいですけど、いいですなー。



後、〆である124-126頁で聖書関連における“書き手に都合のいい書き換え”
とそれによる原型の消失について書かれているんだけど。

キエラ氏が聴いたとある上手な牧師さんの説教で、死んだ筈のイエスが突
然現れて弟子たちの中に立って「平安なんじらにあれ」といった場面を、
何しろ死んだ者が戻って来たのだから弟子たちのためにこの言葉が発せら
れたに違いない、と牧師は考えていたようで、繰り返し強調して語ってい
たそうです。
ですが、これ、「サラームアレイクム」だそうなので、イエスの台詞は
「お早う!」という感じになるようで。
まぁ要するに何事もないかのように挨拶してのけた・・
というような感じなんでしょうかね?
わかっていれば深読みしなくていいようです。

キエラ氏は、楔型文字の情報によって、何世紀も経てば後付けの変形がそれ
と別に取り除けられ、いつか元々の作者が伝えようとした本来の姿が伝えら
れることになるだろうという旨のことを書いている。
それが書物を尊重するということだと。

(ここでいう書物は、ものとして手に取られる“聖書”にもかかってきて
いるんだな)


言語学者の語りです。


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続き。11章−18章とプロローグ分
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