mixiユーザー(id:5691043)

2018年10月24日02:30

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ハッピー・エンド

「アインシュタイン・パラドックス―EPR問題とベルの定理」(https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1968441649&owner_id=5691043)読了。

アインシュタイン等が物理世界の”実在性&局所性”を主張したのに対して、量子力学の”主流派”が物理的世界観として、”非実在&非局所性”を主張し得た・・・・と言うのは、今考えると奇妙でさえある。人間の観測とは関りなくいわば客観的に存在する世界・・・・と言う至極当たり前の主張を物理界切っての権威でありアイドルであるアインシュタインが主張したにも拘らず、コペンハーゲン派がそれを否定する・・・・のみならず反対論を排除排斥さえしたというのは、人間の歴史の皮肉でもあり科学の教訓でもある。本書にこういう記述がある、

<コペンハーゲン派解釈は・・・1928年から1970年代まで、そしてある程度はその後もずっと、物理界に君臨してきた。物理学者の圧倒的多数がコペンハーゲン派解釈を受け入れていた(もちろんそうする権利はある)ばかりでなく、新しい(コペンハーゲン派解釈に反する)アイディアは容赦なく押しつぶされてきた(そうする権利は無い)。>

一つの主張が自己の正当性を訴えて支持者を増やしてゆく(その権利はある)過程で、少数派を”少数派である”或いは”声が小さい”という理由だけで排除する(その権利は無い)、と言う構図は、社会の大抵の差別・迫害の構図でもあるが、それが物理学と言う理性と論理が最も尊ばれてしかるべき分野でも・・・・それも特定の個人の悪意といったものに必ずしも基づた訳でもなく・・・・起こったと言う事である。
私が大学で量子力学(の末端)をかじった時にも、そういう風潮はあった。量子力学の華々しい成果とそれを支えた物理学者・・・ボーア、ハイゼンベルグ、パウリ、ノイマン等・・・の顔ぶれを見れば、コペンハーゲン派解釈は絶対であり完全であり、それに疑問をはさむことは異端であり無意味である・・・・と”科学的に!!”証明されている・・・・と言う主張には抗し難い力と権威と実績があったとも言える。しかし、その一方でそのドグマティックな側面において、”押しつぶされた”ものもあった・・・と言う量子力学神話の重い頚木も、物理と哲学を結び付ける「ベルの定理」の発表以来ここ40年ほどの物理研究の過程でようやく外されようとしている・・・・と言うのが本書の内容である。
この物理哲学とも言うべき分野は、実に一筋縄ではいかない分野でもあり、実験が行われるたびにそれに携わった研究者の当初の思惑が外れたりするのは、人間の思考と世界の関りの微妙(かつ、殆ど”神”の概念を持ち出したくなるほどの巧妙(公正?))さを感じさせて、ワクワクするような知的スリルがあって、これこそ科学の醍醐味では無いかとも思う。
勿論、そう言った実情から見ても、未だ確実な結論が出た訳でも無いらしいけれど、この物理世界は”非局所的”だが”実在的”らしい・・・つまり、アインシュタイとボーアは痛み分け(自然の摂理の配剤!!!???)であり、その研究過程から量子情報理論・量子コンピュータと言った新概念・新研究分野が現れてきていると言うのも、ある意味で”未知”への知的冒険と言う点で、科学の無限の・・・とは言わぬまでもまだまだ先の見通せない・・・・知的将来性が感じられる。私個人的にはほとんど50年来のモヤモヤした感覚のかなりが晴れたような嬉しい内容の本ではありました。

音楽
先日、ベルリン・フィルのデジタル・コンサートホールを再訪して、今年6月のヴァルトビューネ・コンサートを観た(・・・・奇妙なことに、サイトには”契約の関係上、日本では観れない”と書いてあるのに観れる!!)。
ラトル最後の年と言う事で、ラトル自身が指揮をとっているのだが、コンサート終盤、エルガーの「威風堂々」の演奏直前になってオーケストラ最後列の管楽器・ティンパニー奏者が銀髪モジャモジャ・マッシュルーム・ヘアーの鬘を取り出して被るサプライズ演出(上掲写真)。
ラトルのベルリン・フィル就任の十余年はベルリン・フィルにとってもラトルにとっても(ベルリンの観客にとっても)ハッピー・エンドだったようである。
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