mixiユーザー(id:5691043)

2018年09月22日11:33

245 view

フランソワ・・・量子論

音楽
ここ数日サンソン・フランソワ漬けになっている。「久しぶりに」・・・と思って、36枚組みの彼のEMI録音全集(EMI 50999 646106 2 7)を’54年のショパンの第1協奏曲から聴き始めたら止められなくなっている。もう50年以上も前に彼のピアノを初めて聞いて以来の感覚が今も殆ど変わらなく私には残っている。音楽が分かち難く演奏家と結びつくような演奏家は昨今ドンドン少なくなっているけれど、フランソワは過去の演奏家の中に在っても音楽が演奏(家)と結びついている点で傑出している演奏家の一人だと思う。演奏と言う行為が方法論の発展に伴って高度に安定化(普遍化?)していくことの対極にある演奏は極度に個性的であり、その分不安定でもある。音楽と一体化してなお”個人”を保つには、音楽に注ぎ込んて失う(個人の一部)分を何かで補い均衡をとる必要がある。その微妙なバランスを”客観”とか”常識”とか”権威”と言った外的なものではない自己の内的なものによってとるのは人間には至難の業なんだろうと思う。
私にとって、ピア二ストではフランソワ、グールド・・・それに恐らくポゴレリッチ・・・がこう言った演奏家に属している。彼らは、断崖に作られた道でも必ず崖っぷちを歩く人々である・・・・そして周囲を見ることなく山沿いの安全圏を恐る恐る歩く臆病な私に崖の向こうに何があるのかを教えてくれる人々である。フランソワもグールドも夫々事情は違うが演奏家としては若死にしてしまった・・・二人とも最後まで崖っぷちを歩いた人だと思う。その死がバランスを失って崖から落ちたことを意味しているのかどうか判らないが(私はソウではないと思っているが・・・・)、いずれにしても、彼らの演奏が”録音”という形で残されたのは(少なくとも私には)幸いである。

読書
「アインシュタイン・パラドックス―EPR問題とベルの定理」(A. Witacker著、和田純夫訳、岩波書店 (2014)

久しぶりにワクワクするような思いで読んでいる。量子論には全くの素人の私が50年来量子論に抱いてきた疑問についてこれほどはっきり解説してくれた本は初めてである。所謂、アインシュタイン・ボーア論争とも言われる実在論と非実在論、決定論と非決定(確率)論の論争は本質的にはプラトンやアリストテレスにまで遡る西洋形而上学の論争でもある。私が学生だった頃、この問題では所謂コペンハーゲン派解釈が”真実”であり、アインシュタインの実在論はもはや"古典的”な願望に過ぎない・・・・と言う風潮があり、コペンハーゲン派解釈はドグマティックな威力を振るっていた・・・それにコペンハーゲン派解釈は人間の”自由意志”と言った問題にも(一見)都合よかったし、その影響はソーカル事件と言った形で最近の思想界にも及んでいる。20世紀後半になって、この形而上学的問題が「ベルの定理」という形で物理学と言う形而下的な学問に翻訳され得るようになり、"実験”と言う実証的な観点からコノ問題に切り込む分野が1980年代から発達し、その結果についてもやはり量子論的世界観が”正しかった”・・・・と言う解説が多くある。私もそう言った解説書を幾つか読み・・・”専門家”がソウ言うのであればソウなのだろう(か?)とも思ってきたが、何か釈然としないものを抱えたまま現在に至っている。
本書は、このアインシュタイン・ボーア論争の歴史的経緯から説き起こして、必ずしも事態はコペンハーゲン派解釈が主張するほど単純明快でもないようだ・・・と言えそうなその現状に至るまでを解説している。何故ボーアのコペンハーゲン派解釈が20世紀に優勢になったのか(ボーア自身はコペンハーゲン派解釈を主張したが亡くなるまで決してドグマティックではなかった・・・・)、その問題点がかなり明確に解説されていて私も納得できるところ大であるし、同時になぜコペンハーゲン派解釈が(物理学に相応しくなく)ドグマティックになったのか・・・・ソレを脱するのに量子論誕生以来70-80年もかかったのかも判るような気がする。
まだ、1/3程度の読みかけだが、私は(風呂の中で)ワクワクしながら本書を読んでいる・・・・
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2018年09月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      

最近の日記

もっと見る