明治後、
秋月は薩長の連中に記憶されていて東京によばれ、
左院議員になったりした。
しかし自分だけが官を得るに忍びないとし、
やがて辞した。
その後ふたたび東京に出て私塾をひらいたりしたが、
明治二十三年、六十七歳で熊本の第五高等学校によばれ、
漢文を教授した。
熊本には五年いた。
七十二歳で国に帰るために職をやめ、
七十七歳、東京で没した。
熊本での在職中、
かれは幕末のことを語るわけでもなく、ただ漢文を教え、
休日には自宅に生徒をよんで酒を飲んでいたにすぎなかったが、
よほど慕われたらしく、秋月の没後三十五年経って、
同窓会から『秋月先生記念』という、
かれの印象をそれぞれが書いた本が出ている。
私はこの本を会津若松市の図書館で見て、
頁(ページ)をめくるうちにかれの熊本時代、
小泉八雲がやはり在職(明治二十四年から同二十七年まで)していたことを知った。
八雲は言葉の通じない、この老人をひどく崇敬し、
つねづね秋月先生は煖炉のようなひとだ、
近づくだけで暖かくなる、といったり、
ついには神だと言いだしたりした。
「この学校には二方の神がおられる。
一方は私が奉じている白衣を着たキリストであり、
もう一方は、黒衣を着ておられる」といったりした。
秋月はいつも黒紋服で学校に出ていた。
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