日没後だから、高崎は格子戸をたたいたにちがいない。
下宿先の者が、用心ぶかく格子ごしに、
どこの何様かということをきいたに相違ない。
この時代の京では、夜間に他家を訪れるなどよほど懇意な仲でないとありえない。
高崎は懐中から、折り入って面ゴ?を得たい、
という旨のことを書いた手紙をとりだし、
格子戸の隙間からさし入れて家の者に渡したかと思える。
そのくらいの手数は、必要であった。
しかしそれにしても、高崎はこれほど重大な外交上の用件をうちあける相手として、
会津藩にも何人かいる公用局員のなかで
なぜ秋月悌次郎をえらんだのかということである。
高崎は、秋月の風貌や人柄ぐらいは、知っていたのかもしれない。
秋月はのちに彼を知る者がみな言うように一見して温かさを感じさせる人柄で、
寡黙だが、いかにも信頼できそうな印象を人にあたえて、事実、そのとおりの男だった。
いまひとつ想像できるのは、
高崎は同藩の重野安繹(シゲノヤスツグ、一八二七〜一九一0)を通じて、
秋月悌次郎の名をきいていたのではないかということである。
重野は秋月とほぼ同時期に薩摩藩から昌平黌に入ってきた男で、
秋月とともに俊才の双璧とされ、両者の交情が深かった。
ただ重野の才質には秋月にくらべ飛躍力があるようだった。
重野は明治後は東京大学で日本史の教授になり、
水戸史観(皇国史観)のいかがわしさを実証面から衝いた歴史家になった。
このため政治の圧力でやがては大学を去らざるをえなかったが、この点、
ごく保守的な漢学者として生涯をおえた秋月との違いは感ぜられる。
その重野が、−−会津の京都には秋月がいる。
ということを、高崎がこの前年(文久二年)に国を発つときに言ったかもしれない。
たとえそうでなかったとしても、
京にいる諸藩の公用方で昌平黌を経た者はみな
秋月に一目置くといった関係があったであろう。
つまり高崎が、
多くの会津藩士のなかからとくに秋月を選んだというそのための秋月についての評判は、
どこででも聞けたはずである。
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