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2017年08月25日00:33

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"Dangerous Days"

 『ブレードランナー』の撮影現場について取材した"Dangerous Days"という本が出版され、後にこれが同じタイトルで映像化もされました。
 ちなみに、"Dangerous Days"は撮影中の仮タイトルでした。これはたしかに、"Blade Runner"の方がかっこいいと思います。

 過日、BSプレミアムで『ブレードランナー ファイナル・カット』にあわせてこの"Dangerous Days"も放送されたので、数十年ぶりの本編とあわせて見てみました。とてもおもしろかったです。

 本編は学生のころに深夜放送で見て、ハリソン・フォードがルトガー・ハウアーにボコられる映画という漠然としたイメージしか抱けませんでした。後に断片的ながら、この映画に語られた文章にいくつも触れ、そういうことではないんだと理解はできたのですけど、具体的にどういうことかとはわかりませんでした。

 あらためて見てみると、現在でも世間で手放しに好ましいとされている、人間性といったものの拠って立つところを根っこから揺さぶってくる映画だと思いました。

 過酷な環境における作業などのために製造される人間そっくりのレプリカント。なぜか働かせているうちに感情をもってしまうため、4年で死んでしまうように設計されています。そんなレプリカントのうちの4体が作業現場から逃げ出し、一般の社会にまぎれこんでしまったため、今は現役を退いているブレードランナー(隠れているレプリカントを捜しだして駆除するハンターのような存在)の主人公に白羽の矢が立てられます。

 映画の骨格はハリソン・フォード演じる彼がレプリカントたちを見つけ出し、倒していく様子にあるのですが、追うものと追われるものの知恵較べとか、手に汗握るアクション・シーンみたいなものはありません。
 なんか、わかったようなわからないような捜査の結果としてレプリカントにたどりついちゃうし、その対決についても、2体の女性レプリカントについては相手が丸腰なのに背後から撃ったり、男性レプリカントについては一方的にボコられているところを味方の女性に助けられたり、ボスのロイに至っては完膚なきまでに叩きのめされ、逃げようとしてビルから落ちそうになったところを助けられ、その主人公の目の前で時間切れになったロイは息を引き取るのでした。

 なんというか、エンタメとしてはやっちゃいけないことを全部やっている感じです。実際、初公開当時はそれほど注目されなかったそうですが、それも仕方がない気がします。

 というより、"Dangerous Days"によればそもそも撮影現場からして混乱していました。"ALIEN"のヒットで一躍注目の人となったイギリスCM業界出身のリドリー・スコットは、これまでにない映画を撮ろうと意気込んでいたものの、ハリウッドのスタッフたちは既存の娯楽作品の延長として捉えてていたため、両者の対立は誇張でもなんでもなく一触即発の緊張を帯びていました。
 実際、"Dangerous Days"のこのくだりは、集団作業においてはいかにコンセプトの共有や円滑なコミュニケーションが重要であるかが、骨身にしみる切実さで描かれています。

 ようやく映画を撮り終えた後も、試写のたびに不評でいくつもの再編集版が作られました。それもあってこの映画は妙に多くのバージョンが存在します。
 公開当初はさほど話題になりませんでしたが、口コミで次第に注目を集めるようになりました。映画が映画館でしか見られない頃なら、こうしてゆっくりと人気が高まっていくことは難しかったはずで、家庭用ビデオデッキの普及があればこそ、現在の評価を確立したともいえるでしょう。

 たしかに画期的な映画ではありましたが、それをどう作っていけばいいのか、どう売りこめばいいのか、そしてまた、どう見ればいいのか、誰もが暗中模索をしていました。
 基本的に作品は独立して評価されるのが好ましいとは思いますが、評論というものが機能することで初めて成立する場合もあり、この映画はそういう数少ない例外に属する存在だと思います。

 映画で特に印象的なのは、死が目前にあるがゆえ生に執着し、真摯に向き合おうとするレプリカントたちに対し、人間たちはみなどこか生きていることに倦んでいるというか、飽き飽きして疲れてしまっているような態度をみせることです。発達しすぎた科学技術によるアパシー(無感動)が背景にあるのかもしれません。
 あり得ないはずだけど、感情を持っちゃうから4年で死んじゃうようにしました、というのも無茶な話で、どういうわけか人間サイドは生命にそれほど価値を認めていない、人を人とも思っていないような判断や振る舞いが目立ちます。

 持たないはずの感情を持ってしまったレプリカントたちが、人間よりもよほど人間らしいという逆説的な状況が、じゃあ、そもそも人間性ってなんなのよ、という問いかけをもたらします。それどころか、そもそも人間性ってそんな大層なものか、と追い打ちさえかけてきます。

 制作現場の制約と軋轢のしわ寄せをくって万策尽きた脚本家が、人間万歳ですべてをぶっちぎるテレビドラマをたまに目にしますが(けっこうな頻度で見ている気もしますが)、われわれは一般的に人間性というものには至高の価値があると信じて日々を心安らかに過ごしています。でも、それって本当なのか。
 ジョゼッペ爺さんに作られたピノキオも、妖怪人間のベムやベラやベロも人間になりたがってますけど、それってただの自己洗脳ではないのか。人間性って前頭葉のノイズにすぎないのかもしれません。

 そういうところを衝かれて、アスファルトの路上に立っていたつもりが、実はそこが沼地でもう足首までずぶずぶ沈んでいるような気分にさせられます。
 でも、それも別に不快だったり怖かったりではなくて、自分がそうやって相対化されていくことで楽になる部分もあったりして、それもこれもひっくるめておもしろかったです。


 ひとつ触れておくと、ハリソン・フォード演じる主人公のデッカードがレプリカントだという説があります。
 デッカードがユニコーンの夢を見たことと、ガフという登場人物がラストでユニコーンの折り紙をデッカードのアパートのドアの前に置いたことから、デッカードの夢の内容をガフが把握している、だから、デッカードはレプリカントだってことらしいのですけど、この筋道の立て方からして自明なように取ってつけた感じが否めません。

 この説を唱えているのが監督のリドリー・スコット自身だという面倒くさいのですけど(夢の中のユニコーンが疾走するシーンはディレクターズカットで初めて追加されたそうです)、他の設定との齟齬も大きくなりすぎるし、ちょっと無理かなと思います。

 また、そうだとすると、映画としてはよりショッキングにはなりますが、人間とレプリカントの対比の構図が後退してしまいます。一方で、自己という存在の不確かさみたいなものが前面に出てきて、そこだけ取り出せばそれも悪くなさそうですが、やはり、他のシーンとの整合性がとりずらくなります。

 もっとも、撮影現場の混乱ぶりや制作後の迷走ぶりからすれば、統一的な見解を想定しようとすること自体が、無理かもしれません。いいように表現するなら、解釈にふくらみのある映画ともいえますが、支離滅裂な映画といえなくもない気はします。

 もちろん、まとめきれてないのに、「解釈は、観客のみなさん一人一人に委ねたいと思います」と逃げをうっているような映画ではありません。それぞれのシーンにきちんと力があるし、見る人によって別のものに見えるようではあるけれども、映画のコアのところになにかしらの凝縮力がたしかに働いているからです。

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