mixiユーザー(id:1397418)

2017年07月30日00:56

338 view

百家争鳴

議論することによって、結論がよりよく練られて行くのは、ヘーゲル弁証法に照らせば間違ってはいないのだろう。
問題提起があってそれに誰かが論じてその反論があって、それらが競合していってより精緻な結論へと向かっていく。そうやって人間が進歩してきたのは事実だ。
しかしながら、昨今の政治家の答弁や、ネットでの議論をみていると、どうも「ただ気に食わない相手をぶっちめたいだけ」とか「言葉狩り」とか、そんなのばっかりだ。
かつて、僕は、この日記で「正義とは何か」を大真面目に考えたことがあるんだけど、その時に書いたのが、
正義とは立場によって変わってくるものである
ということ。
例えば、貧困ゆえに物を盗んだ人がいた場合、
警察などの司法の人間は、「犯罪であるから罰する」が正義
宗教家や篤志家は、「貧困が問題であるから施してあげる」が正義
となる。
つまり、絶対的な正義がない以上、その人の職責を果たすしか、正義は成り立たないということで、誰が正しい、誰が誤りということはできない。
とりわけ、ネットでの議論ができるサイトなんかは、必ずといっていいほど、一方的な正義を振りかざして誰かを糾弾するという現象が起こる。
多数意見との主旨が合わない、言葉遣いが汚い、書いている内容に常に皮肉がこもっているなどという人は、「荒らし」という称号が与えられ、「荒らし」認定された者は犯罪者と同等だから、何をしても良いとなり、糾弾していくという構造がほとんど。
糾弾する側の意見というのは、常に「正論」を振りかざす。
しかし、反撃する「荒らし」認定者も、言っている内容は「正論」だったりする。
どっちも正論を振りかざしている以上は、弱いのは以下のほうになる。
・多数の人に嫌われた人
・管理者等、その場の権威ある人に嫌われた人
まあ、手っ取り早く言えば、やっぱり糾弾でしかない。

別段、僕はどっちも擁護しないし、どっちにつく気もないんだが、議論だけみている分には、ほとんどが「どっちだっていいよ」っていう内容で下らないと思ってしまう。
俺のほうが正しい!、いや、私のほうが正しい!ってガンガンやられたって、その正しい基準とするものがない以上、どっちが正しいなんて判断はできない。
となれば、権威ある人が「こいつ、気に食わないから」っていうことでしかない。
まーしゃーねーわな。
インターネットのサイトって、結局、管理者が絶対だろ。その管理者が「お前、このサイトくるな」って言えばそれまでだもん。その理由なんてはっきりいってどうだっていいの。そういうもんだって割り切るしかない。
そこを自覚せずして、下らない意見を述べるのって、僕からすればマヌケの限りだ。
で、「正論」とやらをぶちまけていい気になっている輩がどうも嫌いなのです。
これは仕事なんかでもそうだが、ドヤ顔で「俺の言っていること正しいだろ?」と言わんばかりに相手を否定する輩は必ずいる。
仕事を例にとると、例えば何かミスをやらかしたとする。
その際に、「猛省して謝罪して反省文書いて、再発防止案を提出するべきだろ!」と攻め立てる奴。「べき論」で言えばそうなんですよ。まー無駄な謝罪はそもそもいらないが、でも、こんなことやっていたら仕事が1日も2日も遅れてしまい、さらにミスに対する対応も遅れてしまい、実に無駄ばかり発生する。
また、あまりにミスを攻め立てすぎると、仕事をする人は萎縮してしまい、ミスを怖がって重要な仕事をしなくなる。したがって全体のクオリティが落ちる・・
と考えると、正論ぶちかましてドヤ顔になっている奴こそ、物事の本質がわかっていないじゃんか、って思う。
要は、本質を見ずして、議論のための議論に終始して、「俺様の意見はすげーだろ?」って言っているのって、「私はバカでーす」って言っているようなものだ。
ネットでの議論もそう。
あくまでも自分サイドの正論を振りまいて、物事の本質が見えていない奴らが多すぎ。
言葉遣いが汚いとかでも、その発言の本質は別のところにあったりするので、「言葉遣いが汚い」をタテに、良識派ぶって正論ぶちまけて糾弾するのもアホくさい。
かといって、言葉遣いが汚いだけで彼は間違ったこと言っていない、何故糾弾するんですか!と息巻く擁護派も鬱陶しい。
要は、そのサイトの権威者である管理者が気に食わなきゃ、そこに来るなってだけの話で、他の人が言葉遣いが汚くても、管理者がお気に入りの人ならば、全然問題ないわけだ。
それだけの問題に正義も糞もないよ、くだらないって思う。
で、通常言われている「議論」なんてものは、ほとんどこんなもんじゃないのか?
建設的に討論を積み重ねて、よりよい結論に行こうとする弁証法的議論じゃなく、その場の権威者または多数派にいかに気に入られる発言をするかが重要であったりする。
気に入られるか気に入られないかだけなので、多分に感情の問題でしかない。
もっとひどいのになると、「俺が俺が」と自分の意見がどれだけ凄いかの言い合いになっていて、全く建設的要素がないもののある。
だから、僕はそういう下らない議論が始まるディスカッションの場にいるときは、ほとんど話なんか聞いていない。ひどいときははっきりと、「結論でてから教えてください、それに従いますので」とだけいって、あとは目あけたまま眠っている。

じゃあ、議論が全て無駄かというと、実はそうでもない。
何かというと、その議論の参加者が全員「他者のため」を真摯に考えて議論しているときは、物凄く有意義だったりする。
全員が救われるためにはどうするべきか、などである。
まさに有事の時の議論はそうなるだろう。
正論ぶちまけてドヤ顔になる暇もなく、今まさに、被災者を救わなければならないとき、今何をするのが最も大事なのか、を全員が真摯に考える。
仮に、どこかに抜け落ちがあっても、リスクがあっても、今この瞬間にでも動かねば死人がでる、というときは、さっさと結論をだしてすぐに動くだろう。
昔、中国で起こった諸子百家の思想家たちは、常に戦乱やら天災やらに巻き込まれた混沌たる状況の中で「どうすべきか」を真摯に考え、百家争鳴していたのだろう。
だから、後世にまで残る思想体系が生まれたのだろう。

0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年07月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031     

最近の日記

もっと見る