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2016年12月20日18:50

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あだ名は軍人にとって名将の証 「狂犬」に「韋駄天」、「人殺し」まで‥

 下記は、2016.12.20 付の産経ニュース【軍事ワールド】です。

                    記

 トランプ次期米大統領は1日、次期政権の国防長官にジェームズ・マティス元中央軍司令官(66)を指名すると発表した。マティス氏は米軍で44年の軍歴を持つ退役海兵隊大将で、あだ名は「狂犬」。物騒なニックネームから日本のメディアでは武闘派のイメージで伝えられたが、勇猛なあだ名がつくのは名将の証ともいえる。今回から数回にわたって、古今東西、名将とされる人物と、そのあだ名を紹介する。(岡田敏彦)

 砂漠の狐

 もっとも有名な軍人のあだ名といえば第二次大戦時、ドイツの「砂漠の狐」ことエルウィン・ロンメル将軍だろう。ナチス・ドイツの進撃に触発されアフリカで戦端を開いたイタリア軍は、連合軍(英軍)に叩きのめされる。

 ロンメルは1941年2月、そのイタリア軍を救援する形でアフリカ軍団を率い、砂漠を縦横無尽に駆け抜けることとなる。一時は英国の最後の拠点であるアレクサンドリア(エジプト)に迫る勢いを見せた。敵の英軍より劣る兵力で神出鬼没の戦いを見せたことから、知恵で狩りを行う狐に例えられ「砂漠の狐」のあだ名がうまれた。

 三号、四号戦車などの機甲戦力を中心に据え、機動力を第一としたロンメルの戦いぶりは、アフリカに赴任する以前の対仏戦から発揮されていた。40年5月、彼が率いる第七装甲師団は独仏国境からベルギーを抜けてフランス中心部へ、そして英仏海峡へと常識外れの速度で進撃を続けた。

 仏軍では、前線の偵察結果が司令部に届く頃には、すでに敵の第七装甲師団はその場所にはいないといった事態がたびたび発生し、「幽霊師団」とあだ名された。

 韋駄天ハインツ

 第一次大戦のように塹壕を掘り巡らし、寸土を奪い合うような戦争は時代遅れだ。これからは機甲戦力による迅速な突破が勝利を決める−。ロンメルのこうした戦い方を最初に考案したのは、ドイツの「韋駄天ハインツ」ことハインツ・グデーリアン将軍だ。

 無線で意思疎通を密にした機甲戦力が、敵の戦線の最弱部に集中攻撃をかけ、開いた「穴」から機甲部隊(戦車や装甲車)が戦線奥深くまで進撃し、敵の後背から攻撃、包囲する。これを空軍の近接支援と組み合わせた「電撃戦」という戦術思想は画期的だった。グデーリアンはポーランド侵攻などで電撃戦の正しさを自ら指揮官として戦い、実戦で証明した。

 対仏戦では40年5月10日に侵攻開始、1カ月後の6月14日には首都パリに無血入城し、仏は降伏した。第一次世界大戦が4年も続いたことと比べようもない。当時の世界の軍関係者が目を見張る速さで、周囲は彼を「シュネル・ハインツ」(高速のハインツ、韋駄天ハインツ)とあだ名した。

 31ノット

 戦場における「速さ」は敵味方双方に強い印象を与える。米海軍で作戦部長を務めたアーレイ・バーク大将もその一人だ。

 海軍兵学校卒で戦艦アリゾナや駆逐艦クレイブンなどに乗り込み、海上勤務が豊富な、いわゆる「潮っ気たっぷり」の将官として部下の信頼を集めたバークは、第二次大戦では太平洋で大日本帝国海軍と激闘を繰り返した。最高速度が30ノット以下の船団を率いていても、常に「31ノットで急行中」と司令部に報告し、部下にも「全速前進31ノット」と命じ続けたことから、ついたあだ名が「31ノットバーク」(諸説あり)。

 バークが「速さ」と結びつけて語られるのは、ほかにも理由がある。43年3月5日にソロモン諸島で起こったビラ・スタンモーア夜戦で、彼は指揮下の駆逐艦がレーダーで日本艦艇を発見したにもかかわらず、味方を誤認しているかもしれないと発砲の命令を下すのをためらった。直後に別の味方艦が攻撃を開始し、日本の駆逐艦2隻(「村雨」と「峯雲」)を沈め、彼の率いる艦だけが戦闘の蚊帳の外のまま終わった。

 後に部下の少尉から「優れた士官と、そうでない士官との違いは何なのでしょう」と訊かれたバークは、「違いは、10秒くらいだな」と答えた。

 10秒速く正しい決断を下していれば−。自身の痛恨のミスが何年たっても頭から離れていなかったのだ。

 海軍作戦部長の要職をも務めた彼の名は、米海軍イージス駆逐艦「アーレイ・バーク級」として海軍の伝統に組み込まれた。墓碑の肩書きは、本人の意向により「Sailor(水兵)」とだけ刻まれている。

 ちなみにバークは戦時中は日本を憎んでいたが、戦後に日本へ赴任してからは旧日本海軍軍人らとの親交を通して親日派となり、海上保安庁海上警備隊(後の海上自衛隊)の創設に尽力した。

 「人殺し」

 一方の日本海軍には「狂犬」よりも酷いあだ名を持つ将官がいた。1940年(昭和15年)11月、第二航空戦隊司令官に着任した山口多聞少将は、人呼んで「人殺し多聞丸」。

 山口の指揮する第二航空戦隊(旗艦「蒼龍」)は、41年12月の真珠湾攻撃を前に、猛訓練に入った。その訓練はきわめて厳しいもので、事故も続発。同戦隊の母艦である飛龍、蒼龍の乗組員たちに対し山口が命じる訓練内容もすさまじいものだったため、山口は「人殺し多聞丸」とあだ名された。だが山口の人柄は、あだ名とは相容れないものだった。山口は家庭では子煩悩な良きパパのうえ、何かにつけ妻に劇甘のラブレターを送りまくるという人情味あふれる人物だった。

 当時の陸海軍は新兵へのシゴキが当然で、海軍では「鬼の山城、地獄の金剛、音に聞こえた蛇の長門」という言葉がうまれるほど。鬼や地獄はともかく、蛇という言葉には陰湿さすら伺える。

 それに比べ、山口の猛訓練は現代の「軍のリーダーシップ」とも通じる。上司は部下の面倒をみるのが仕事であり、任務を果たせるよう、戦死しないように、必要な訓練を適切に行うべきだとの考え方だ。

 山口の猛訓練は真珠湾攻撃とセイロン沖海戦で成果をみた。また真珠湾攻撃では、水雷(魚雷)畑を歩んできた故に航空作戦に疎い南雲忠一・第一航空艦隊司令長に対し、第二次攻撃を求めるなど猛将として名をはせた。

 ミッドウエー海戦では赤城、加賀、蒼龍の3空母が沈んだあと、山口は機動部隊全艦に対し「我レ今ヨリ航空戦ノ指揮ヲ執ル」と発光信号を送る。この悲壮な状況で初めて、航空畑の第一人者の山口が全指揮権を握ることとなったのだ。

 飛龍はその艦載機をもって単艦で反撃し、米空母ヨークタウンと刺し違える。沈みゆく飛龍で山口は短い訓示をしたあと、退艦を請う部下らの制止をふりきって艦に残った。手塩にかけて育てた二航戦と命運をともにしたのは、最後の攻撃隊を送り出す際に「俺も後から行くぞ」と訓示した、その言葉通りだった。  

 =続く
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 http://www.sankei.com/west/news/161220/wst1612200007-n1.html
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