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2016年11月27日18:15

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ティーレマン&シュターツカペレ・ドレスデン『ラインの黄金』

ワーグナー: 楽劇『ラインの黄金』(舞台祝祭劇「ニーベルングの指環」序夜)

ヴォータン: ミヒャエル・フォッレ
ドンナー: アレハンドロ・マルコ=ブールメスター
フロー: タンセル・アクゼイベク
ローゲ: クルト・シュトライト
アルベリヒ: アルベルト・ドーメン
ミーメ: ゲアハルト・ジーゲル
ファーゾルト: ステファン・ミリング
ファフナー: アイン・アンガー
フリッカ: 藤村 実穂子
フライア: レギーネ・ハングラー
エルダ: クリスタ・マイヤー
ヴォークリンデ: クリスティアーネ・コール
ヴェルグンデ: サブリナ・ケーゲル
フロスヒルデ: シモーネ・シュレーダー

舞台統括 デニー・クリエフ

シュターツカペレ・ドレスデン
クリスティアン・ティーレマン(指揮)

2016年11月18日(金),18:30〜,サントリーホール


この公演は「ザルツブルク・イースター音楽祭 in Japan」と銘打っているが,やや牽強付会の誹りを免れない。「ラインの黄金」や2回のオーケストラ・コンサートなどは,必ずしもザルツブルクで開催した公演をそのまま日本に持って来た訳ではないからだ。サントリーホールを建てる際に関与したのがカラヤンで,ザルツブルク・イースター音楽祭を始めたのもカラヤン。そのカラヤン&ベルリン・フィルのイベントを引き継いだのがティーレマン&シュターツカペレ・ドレスデンである。開館30周年を迎えたサントリーホールの記念事業にティーレマン&シュターツカペレ・ドレスデンを招聘するに際して,ザルツブルク・イースター音楽祭の名を冠したというのが実情に近いのではないだろうか。もちろん,このような詮索自体はそもそも些末なことなのだが。

ティーレマン&シュターツカペレ・ドレスデンによる「ラインの黄金」は,正直なところ期待と多少違っていた。予想していたよりも,コンパクトにまとめられた若干おとなしい「ラインの黄金」だった。ティーレマンは演奏の細部に至るまで完璧に統率するのではなく,オーケストラの自発性や即興性を信頼してさらなる高みを目指す方向に舵を切ったのかと思ったほどである。あるいは,大音量で聴衆を圧倒し尽すという路線を修正して,聴衆の注意を演奏に惹きつける路線に転換しようとしているのかも知れない。この公演を聴く限り,このような印象を持った。

憶測の域を出るものではないが,別の見方をすると,マエストロはシュターツカペレ・ドレスデンの持ち味を前面に押し出すよう考えを変えつつあるのではないかともとれる。ウィーン・フィルやベルリン・フィルなどは,料理に喩えると素材そのもの味以上に,味付けで勝負しているといえよう。音に磨きをかけることに重きを置くのはいいとしても,それが作り物じみた感じを与えるまで行き過ぎているようにも感じる。また,ウィーン・フィルやベルリン・フィルがオーケストラの高度な機能性を追求していて,それを追い求める過程で音による表現そのものと距離が開いてしまったようにも思う。この点,シュターツカペレ・ドレスデンは,響きの美しさや機能性と音楽表現とのさじ加減が昔から絶妙であったと記憶している。オーケストラのサウンドにしても,機能性にしても,それらは音楽表現のためであるという基本を押さえている。人工的な調味料で味付けした美味しさやこれ見よがしな超絶技巧はなくとも,シュターツカペレ・ドレスデンは最高に魅力的なオーケストラである。ティーレマンが自分の解釈や表現を放棄したとは思わないが,それらを実現するためにも手綱を心持ち緩めるのが得策だと判断した可能性は十分にあるだろう。

手垢の付いた表現しか思い付かないが,それこそ燻し銀の「ラインの黄金」である。迫力よりも,独特の味わいや渋さが際立ち,この作品の魅力がぎっしり詰まった上演だった。欲をいうと,オーケストラに主導権を渡していた要素もあるため,アンサンブルが微妙なところで揃わないこともあったが,致命的な欠陥には至っていない。また,聴き終わったあとでため息しか出ない圧倒的な迫力も足りなかったとはいえ,リングに室内楽的な側面があることを考慮すれば,これをもって決定的なキズともいえまい。ただ,膨らみ過ぎた期待とは多少違っていたというだけである。

全般的な印象はこれくらいにして,歌手に焦点をあてながら,各場面について簡単にふれてみる。独唱陣は粒が揃っていて,どちらかというとアンサンブルを重視していた節がある。こうしたこともあり,コンパクトな上演という印象を与えた可能性が大きい。

<第1場 ラインの河底>
最初に登場するのは,ラインの乙女3人。声が充分に出ていなかったり,音程が不安定だったり,万全の歌唱とはいい難い点もあったが,初っ端はこの程度でも止むを得ないだろう。細かい点に目を瞑れば,まずまずの出来といっていい。この場面で,ラインの乙女たちに絡むアルベリヒは,技巧的に申し分のない出来である。
ラインの乙女たちが泳ぎ回る姿を見て欲情に駆られ,それが無理と悟るや愛を諦めて権力を手に入れることを企み,まんまと黄金を奪い去るアルベリヒの心境の変化をもう少し克明かつ劇的に描いて欲しかったのだが,セミ・ステージ形式のホールオペラでは痒いところに手が届くというわけにはいかない。

<第2場 ライン河をのぞむ,広々とした山の高み>
この場面で,まず登場するのはヴォータンとフリッカ。ミヒャエル・フォッレも藤村実穂子も悪くない。フォッレのヴォータンは突出した出来映えというわけではなかったにせよ,十二分に聴き応えがあり,この上演を安定させる重石になっていた。藤村のフリッカは予想していたよりも声が出ていたが,音程は若干下がり気味。ヴォータンを論難する迫力には欠ける憾みがある。
助けを求めて駆け込んでくるフライアの後を追って,ファーゾルトとファフナーが舞台へ登場。音と声だけで巨人族であることを表現するのは至難の業であることがよく分かる。その点を別にすれば,ファーゾルトのステファン・ミリングもファフナーのアイン・アンガーも申し分ない。とりわけアイン・アンガーは,神々を窮地に陥れるというどす黒い野望を表現しうる力量の持ち主とみた。フライアを歌ったレギーネ・ハングラーも上出来だったが,できることならもう少し清楚なお嬢様感をだしてほしい。
ヴォータンが最終的に頼るのはローゲ。クルト・シュトライトのローゲも水準以上だったが,半神半人のローゲが神々に対してある種の疎外感を抱いているのは見て取れたものの,悪知恵が働く策士という側面をより強調できていれば百点満点といえる。

<第3場 地底のニーベルハイム>
第3場の前後に置かれた地下坑道への下降と地上への上昇の場面は舞台装置が欲しいところだ。
ニーベルハイムのシーンで登場するミーメは存在感がやや薄かったように感じる。なぜかアルベリヒに虐げられた人物がそこにいるという気配をそれほど感じさせない。ミーメを歌ったゲアハルト・ジーゲルの力量の問題なのか,それとも彼の調子が万全でなかったのか,それとも他の理由があるのか不明である。ミーメが善人であるという印象を与えたのがまずかったということは言えそうだ。
ヴォータンとローゲが,指環を奪い取るために,アルベリヒを大蛇やカエルに変身させる場面は秀逸だった。この場面の演出は大成功といっていいだろう。

<第4場 広々とした山の高み>
地上の世界まで連れてこられたアルベリヒが,金銀財宝に加え隠れ頭巾や指環さえも力づくで奪われ,断末魔の叫びをあげる場面では,彼が怨念の塊と化す様子をもう少し強烈に表現する余地があったように思う。
ヴォータンは,フライアの身代金を払うべく,アルベリヒから強奪した金銀を山と積み上げるが,フライアの瞳を隠すために指環を差し出すようファフナーが求める場面で,クリスタ・マイヤー演ずるエルダが登場する。このエルダは極めて説得力に富み,彼女に指環を諦めるよう促されれば,誰もがそれに従うだろうと納得する。
次の瞬間,ファフナーがファーゾルトを撲殺し,指環を抜き取るのだが,この常軌を逸した狂気の場面もリアリティー満点で,ヴォータンが受けた衝撃の大きささえ実感できる。
ドンナーが雲を集めて作った橋を渡り,神々がワルハラ城へと入城するフィナーレは壮大なスケールで描かれると同時に,神々が没落するというローゲの予言とラインの乙女たちの嘆きがオーバーラップし,「ニーベルングの指環」序夜を締め括るとともに,その後の話の展開を示唆するに十分な実質を備えていた。

この日記の冒頭で,この公演をザルツブルク・イースター音楽祭の日本公演と勘違いさせる言い方をするのは間違いではないかという旨のことを書いた。どちらかというと,この公演は,サントリーホールがいく度となくプロデュースしているホールオペラなのだろうと思う。ワインヤード型のコンサートホールでいかにしてオペラを上演するかの試みである。

今回も,オルガンとステージの間にあるP席前方の高い位置に横長の舞台が設えられ,ステージの背景によって3つの空間に区切られている。中央の背景は5つの画面で構成される屏風が一双,上手と下手には薄茶色と青色の壁が立つ。背景が青の下手はライン河の川底のシーンで使われ,黄金が出現する場面は壁面の一部が横に動いて金箔を貼った板が見える仕掛けになっている。中央の屏風には,日本の山岳地帯を俯瞰する角度からみた墨絵が描かれていて,ワルハラ城が建つ山々を示唆している。上手は茶色の壁があり,主としてニーベルハイムの場面で使われ,第4場冒頭で黄金を積み上げるシーンでは,黄金の山を表すのに下手と同じ仕掛けが使われる。3つの空間はいずれも日本風のテイストで統一されていて,この点でもホールオペラとするのが最も適切だ。

過去にティーレマンがシュターツカペレ・ドレスデンやミュンヘン・フィルを率いて行った公演の印象と比較すると,手綱を緩めてオーケストラの自発性に大きく委ねた演奏だといえそうだ。仮にこの見方が正しいとして,その背後にどのような思惑があるか計りかねる要素は多いが,指揮者とオーケストラの間で生まれた信頼関係が作用しているように受け取った。しかし,後日,オーケストラ・プログラムも聴いた結果を踏まえると,この関係も一筋縄では行かないことがわかる。

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