mixiユーザー(id:5456296)

2016年10月25日09:31

279 view

幸村と並ぶ英雄、後藤又兵衛 「大坂五人衆」の一人…希代の軍師官兵衛仕込みの武勇と知略 

 下記は、2015.3.14 付の産経ニュース【大坂の陣400年】です。

                       記

 豊臣方と徳川方が激突した400年前の大坂の陣で、徳川家康が「播磨一国五十万石」という破格の条件を提示し、自軍に引き入れようとした武将がいた。豊臣方の「大坂五人衆」の一人に数えられ、知将・真田信繁(幸村)と並び称される英雄、後藤又兵衛基次(もとつぐ)。希代の軍師・黒田官兵衛に才を見いだされ、傑出した武勇と知略を駆使して多くの軍功を残した豪傑も、大坂の陣に散った。(川西健士郎)

10倍の大軍勢相手に

 播磨国(現在の兵庫県南西部)出身とされる又兵衛は、幼少時代に父を亡くし、黒田官兵衛が哀れんで引き取ったと伝えられる。官兵衛はその才を見込んで息子の長政以上にかわいがったといわれ、戦国一の軍師による薫陶に恵まれた。

 慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで、徳川家康率いる東軍についた長政に従って戦い、西軍の石田三成が誇る槍使い、大橋掃部(かもん)を一騎打ちで破った。長政は関ケ原の功で筑前52万石を拝領。又兵衛は1万6千石の大隅城主となるが長政との確執から出奔し、諸国を流浪した。

 大坂冬の陣が迫る慶長19(1614)年10月、秀頼の招きで大坂城へ。11月26日、城に近い今福村と鴫野(しぎの)村を守る砦柵(さいさく)が徳川方の佐竹義宣(よしのぶ)隊と上杉景勝隊に攻め込まれ、応戦した豊臣方の若武者、木村重成が敵の銃撃に押され堤防の陰で身動きがとれずにいたとき−。戦況を城から眺めていた又兵衛は秀頼の命で援護に駆けつけ、銃弾が飛び交う堤防に仁王立ちし、「戦(いくさ)とはこうするものぞ」と鉄砲を撃ち返した。

 大阪城天守閣の北川央(ひろし)館長は「これに勢いを得て木村隊が形勢を逆転する。実戦経験が豊富な又兵衛の迫力が戦況を一転させた」と語る。

 その後、相手方から銃弾を腕に受けたが、出血する傷を探りながらこう言い放ったという。

 「秀頼公の御運はいまだ尽きてはおらぬ」

 慶長20年5月6日、大坂夏の陣の道明寺の戦い。又兵衛率いる兵2800の先発隊が未明に道明寺に到着したとき、徳川方の大軍勢はすでに布陣していた。

 まもなく幸村や毛利勝永ら主力隊が合流することになっていたが、もはや待てる状況ではなく、又兵衛はまず小高く隆起した小松山(大阪府柏原市の玉手山)を占拠。間もない午前4時に開戦した。

 「一帯の戦況を見渡せるだけでなく、10倍に及ぶ大軍勢を相手に持ちこたえるには最適の場所といえる。迷わず小松山を占拠したところに、又兵衛の秀でた戦略眼が感じられる」。柏原市立歴史資料館の天野忠幸学芸員はそう解説する。

 濃霧による行軍の遅れからか、幸村ら主力隊の到着は大幅に遅れた。その間、兵1万の伊達政宗隊をはじめとする徳川方の大軍勢が小松山を囲んだが、後藤隊は独眼竜・政宗が誇る精鋭を次々と倒していく。

 開戦から8時間が経過した正午。今度は伊達隊の名将、片倉小十郎重綱率いる鉄砲隊の一弾が、馬上で指揮をとる又兵衛の胸を撃ち抜いた。死を悟った又兵衛は「首をはねろ」と従者に命じ、首はその場で地中に埋められた−。56歳だったと伝えられる。

高倉健さんのような日本人好みの…

 「豪傑といっても荒々しくはなく、冷静沈着な人物だったのではないか」。大坂夏の陣で戦死した後藤又兵衛から数えて20代目の子孫、後藤基保(もとやす)さん(59)=兵庫県加西市=は、又兵衛の実像をこう思い描く。

 豊臣家が滅んだ大坂夏の陣の後、又兵衛とともに参戦した長男、左門基則は自害。徳川家が武将の残党狩りを行う中、当時5歳だった左門の次男、徳治は左門の妻の実家に預けられる。やがて刀を捨て、現在の加西市全域に匹敵する36カ村を管轄する庄屋の主人として世をまっとうした。

 その子孫の基保さんは金属加工油剤メーカーのサラリーマン。大柄でがっしりした体格で、威厳のある風貌だ。六尺(約180センチ)を超える巨体で長槍を自在に操ったという又兵衛をほうふつさせるのか、「周囲から『又兵衛と顔も似てるねえ』と勝手に決めつけられる」と苦笑する。

 とはいえ、「血」を実感することも少なくない。

 「仕事先で200キロのドラム缶を持ち上げて驚かれたりね。ゴルフは今でも300ヤードは飛ぶ」

 性格も一本気な又兵衛ゆずり。会社の会議で誰もが言いたくても口に出せないことをさらっと言う。「又兵衛の血が騒ぎますか」。そんな決まり文句が返ってくる。

 「又兵衛のおかげで歯にきぬ着せぬ言葉も丸く収まる」

 ただ、実際の又兵衛は、豪傑にありがちな無鉄砲さはなく、軍師然とした冷静沈着な人物だったとみる。

 「夏の陣で負けることを知っていた又兵衛が、残党狩りに遭っても子孫が生き残れるよう取り計らったと思う。向こう見ずな人物だったら、私の存在もなかった」

 人物列伝『名将言行録』は又兵衛をこう表現する。

 「基次、志気壮大、将帥の度量あり。性、慷慨(こうがい)剛気介然清操あり。矜厳(きょうげん)礼を好み、動くに威容あり」

 正義感強く、勇ましく、礼儀正しく、存在感がある−。昨年11月に亡くなった俳優、高倉健さんのような日本人好みの男の姿が浮かび上がる。

 夏の陣の前夜、味方につけば「播磨一国五十万石を差し上げる」と徳川家康に誘われたとき、又兵衛はこう断ったと伝えられる。

 「落城のときが迫っているのに、弱きを捨て強きにつくことはできない」

 基保さんはその言葉に又兵衛の本性を見るのだ。

 「武将たちが時にだまし合って栄達を競った戦国の世にあって、ずるさというものがない。自らの正義に従って生きた又兵衛を慕う武士が集まり、大坂の陣をともに戦ったのだろう」

 http://www.sankei.com/west/news/150314/wst1503140006-n1.html


0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する